第5話 病気の声に飲み込まれる
診療所の扉が乱暴に開かれた。そこに立っていたのは、40代半ばの男性だった。大柄で険しい表情、目には疲労と怒りが浮かんでいた。名前は佐藤徹。会社員であり、ここ数年、胃痛や頭痛、倦怠感に悩まされているという。
「先生、これ以上もう我慢できないんです。何をやっても治らない。薬を飲んでもダメだし、誰も俺のことをちゃんとわかってくれない!」
彼の声は診療室に響き渡り、周囲に緊張感をもたらした。マナミは彼を落ち着かせようと穏やかに語りかけたが、その怒りのエネルギーは強烈だった。
診察を進める中で、佐藤の症状が単なる身体的な病気ではないことが見えてきた。彼は仕事で極度のストレスにさらされており、家庭でも孤立していた。だが、その心の痛みを誰にも打ち明けられず、不満と怒りをため込み続けていたのだ。
マナミはそっと佐藤の手に触れ、病気の声を聞く準備をした。しかし、その瞬間、強烈な感情が彼女の心に押し寄せてきた。
「誰も俺を見ていない!俺の努力なんて無意味だ!」
佐藤の心の奥底から聞こえてきたのは、孤独と怒りの叫びだった。それは荒れ狂う嵐のようにマナミの心を飲み込み、冷静さを奪っていった。
マナミは息苦しさを覚えながらも必死に声を聞こうとしたが、怒りの感情は彼女自身の心に潜む未解決の傷をも刺激した。彼女自身もまた、「完璧でなければならない」というプレッシャーを抱えていたのだ。
「私は……ダメかもしれない……」
診療が終わる頃には、マナミの顔色は悪く、声も震えていた。
その日以降、マナミは自分自身の感情をコントロールできなくなっていた。患者一人ひとりに寄り添うはずの医療が、どこか空虚に感じられる。疲労感は日増しに強まり、診療後はぐったりと椅子に座り込む日々が続いた。
夜、帰宅しても眠れず、佐藤の怒りの声が耳から離れない。
「どうしてこんなことになったの……」
彼女はベッドの中で、静かに涙を流した。
ある日、久しぶりに恩田博士が診療所を訪れた。恩田博士はマナミの様子を一目見て、その異変に気づいた。
「マナミ、何があったんだ?」
彼女は最初、何も話せなかった。だが、恩田博士の静かな眼差しに促されるように、佐藤の診療で感じた恐怖と苦悩を打ち明けた。
「患者さんの感情が、私自身を壊しそうでした……。私は医師として、失格です。」
その言葉に、恩田博士は優しく微笑んだ。
「マナミ、君はとても誠実だ。だが、それゆえに、患者の感情を自分のものとして抱え込んでしまったんだね。病気の声を聞くのは、患者のためだけでなく、自分自身のためでもあるんだ。」
恩田博士は、診療室の窓を開けて新鮮な風を取り込んだ。そして、深い呼吸をするようにマナミに促した。
「自分を愛する勇気を持つことだ。それは、君自身の心を守るためでもある。そして、その愛があれば、どんな嵐の中でも揺らがない。」
マナミは目を閉じ、恩田博士の言葉を噛みしめた。自分の中にある未解決の感情や、不完全であることへの恐れを見つめる勇気が湧いてきた。
次の日、マナミは再び佐藤の診療を担当した。以前よりも穏やかな気持ちで彼に向き合い、病気の声を丁寧に聞いた。彼女は自分の感情を見守りながら、佐藤の心の痛みに寄り添った。
「佐藤さん、あなたの病気が言っているのは、『自分自身をもっと大切にしてほしい』ということです。」
佐藤は驚いた表情を浮かべたが、やがて静かに涙を流した。
「……そんなこと、考えたこともありませんでした。」
マナミは彼の手を取り、穏やかに語りかけた。
「誰かに頼ることも、自分を許すことも、決して弱さではありません。それが本当の強さです。」
この経験を通じて、マナミは患者に寄り添うためには、まず自分自身を愛し、大切にする必要があることを学んだ。彼女の「語り部の医術」は、さらに深みを増し、より多くの人々に希望を与えるものとなった。
語り部の医師 ~病が教える癒しの物語~ まさか からだ @panndamann74
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