第4話 幼い少女の喘息
診察室に現れたのは、小柄で華奢な少女とその母親だった。少女の名前は菜々子(ななこ)、まだ小学3年生だという。
母親は疲れた顔をしていたが、どこか神経質そうな雰囲気を漂わせている。
「先生、この子の喘息が酷くなってきているんです。薬は飲んでいるのに、夜になると咳き込んで苦しそうで……」
母親は早口で不安を訴えた。菜々子は椅子に座ったまま、緊張した面持ちでうつむいている。
母親によれば、菜々子の喘息は幼い頃からのもので、ここ数年、特に症状がひどくなってきたという。主に夜間に発作が起き、時には学校の体育の時間にも苦しむことがあるとのことだった。医師の処方した薬を使っても効果は一時的で、原因がわからないため、家族は途方に暮れているようだった。
「菜々子ちゃん、少しだけお話ししてもいい?」
マナミは菜々子に微笑みかけたが、彼女は恥ずかしそうに母親の影に隠れた。
「お母様、少しだけ菜々子ちゃんとお話しする時間をいただけますか?」
母親は不安そうな表情を浮かべたが、しぶしぶ診察室の外に出た。
「菜々子ちゃん、大丈夫だよ。怖くないからね。」
マナミは優しく語りかけた。菜々子はしばらく無言だったが、やがてポツリと声を漏らした。
「……私、いつもお母さんに心配かけちゃって……ダメな子なんです。」
その言葉に、マナミの胸が少し痛んだ。
「どうしてそんなふうに思うの?」
「お母さん、いつも忙しくて疲れてるのに、私の喘息が悪くなるともっと辛そうだから……私が悪いんです。」
菜々子の言葉は小さくても、その背後には深い罪悪感と恐れが滲んでいた。
マナミはそっと菜々子の肩に手を置いた。
「菜々子ちゃん、今から目を閉じて深呼吸してみようか。何か感じたことがあったら教えてね。」
菜々子は言われた通りに目を閉じ、呼吸を整えた。マナミもまた集中し、病気が伝えようとしている「声」を感じ取った。
それは、湿った空気の中で立ち尽くす菜々子の姿だった。彼女の周囲には高い壁がそびえ立ち、その影が少女を覆い尽くしていた。
その壁は、母親の期待と不安の象徴だった。「良い子でいなければならない」「母を困らせてはいけない」というプレッシャーが、菜々子を押しつぶそうとしていた。
「怖い……お母さんを怒らせたら、もっと苦しくなる……」
菜々子の心の中から聞こえてきたのは、そんな恐れの声だった。そして、その恐れが彼女の喘息を引き起こしていることが明らかになった。
目を開けたマナミは、菜々子に穏やかに話しかけた。
「菜々子ちゃん、あなたは何も悪くないよ。そしてね、お母さんを困らせたくないっていう気持ちは、とっても優しい心からきているんだよ。」
「……でも、私が喘息だから……」
「菜々子ちゃん、病気はあなたに何か大切なことを教えようとしているんだと思うの。『もう怖がらなくてもいい』ってね。」
「怖がらなくても……いい?」
「そう。どんなときも、あなたはお母さんにとって大切な存在だし、頑張りすぎなくてもいいんだよ。」
診察室に戻った母親に、マナミは慎重に言葉を選んで伝えた。
「菜々子ちゃんの喘息には、心の影響が関係しているようです。特に、普段からお母様を喜ばせたい、困らせたくないという気持ちが、彼女に大きなプレッシャーを与えているようです。」
母親は驚いた表情を見せた後、黙り込んだ。そして、しばらくの沈黙の後、小さな声でこう言った。
「私、気づいていませんでした……。菜々子のためを思って、良い子でいてほしいとばかり考えていました。でも、それが負担になっていたんですね。」
マナミは優しく頷いた。
「お母様もとても頑張っていらっしゃいます。でも、菜々子ちゃんにとって一番嬉しいのは、お母様が笑顔でいることだと思います。少しずつ、二人で一緒に変わっていけると良いですね。」
マナミは菜々子と母親にいくつかの提案をした。
安心の時間を作る
夜寝る前に、菜々子と母親が一緒にリラックスできる時間を設ける。絵本を読んだり、簡単なストレッチをすることで安心感を育む。
感情を表現する練習
菜々子が感じていることを自由に話せる場を作る。「怖い」や「悲しい」といった気持ちを受け止めることで、心の負担を軽くする。
母親自身のケア
母親が自分自身のストレスケアを心がけること。ヨガや瞑想、趣味の時間を取り入れることで、穏やかな家庭環境を作る。
数週間後、菜々子と母親が再び診療所を訪れた。母親の表情は少し柔らかくなり、菜々子も以前より明るい顔をしていた。
「先生、夜の発作が減ってきたんです。」
母親の声には喜びが混じっていた。
「お母さんが笑っているのを見ると、私も嬉しいです。」
菜々子の言葉に、マナミは微笑んだ。
「恐れを手放すことができると、体も心も楽になりますよ。これからも少しずつ進んでいきましょうね。」
菜々子の喘息は、単なる病気ではなかった。それは、家庭環境や心の声が体に表れたものだった。
彼女が恐れを手放し、母親と共に新しい一歩を踏み出すことで、病気の語りは静かに癒されていった。
この経験は、マナミにとっても「語り部の医術」がもたらす可能性の深さを実感させるものとなったのだった。
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