第3話 語り部の医術

 「病気には声がある。」


 恩田博士から初めてそう教えられたとき、マナミは半信半疑だった。医師として患者の訴えに耳を傾けることは当然だが、「病気そのものが語りかける」という考え方は、医学部で学んできた理論とはかけ離れていた。


 「どうすればその『声』を聞けるんですか?」


 「答えは患者の中にある。彼らの体、心、そしてその人生に、病気が語りたいメッセージが隠れているんだ。」


 そう語る恩田博士は、まるで病気が人間の一部であり、それと共に生きるための知恵が存在すると確信しているようだった。




 ある日、マナミは恩田博士の指導の下で、初めて患者と向き合うことになった。


 患者は40代の男性、佐々木健一。長年腰痛に悩まされており、整形外科や整体に通っても効果が得られなかった。痛みは慢性化しており、仕事にも支障をきたしていた。


 「よろしくお願いします。」


 彼の声にはどこか諦めが感じられた。マナミは緊張しつつも、彼に笑顔を向けた。


 「まずは少しお話を聞かせてください。」


 佐々木は腰痛の症状や治療の経過について説明したが、その間も痛みで何度か顔をしかめた。彼の言葉に耳を傾けながら、マナミはふと手を彼の背中にそっと触れた。


 「少しだけ、目を閉じてください。」


 佐々木は戸惑いながらもマナミの言葉に従い、目を閉じた。マナミも静かに目を閉じ、深呼吸をした。


 すると、不思議な感覚が彼女の中に広がり始めた。佐々木の体から、言葉ではない何かが流れ込んでくるような感覚だった。それは柔らかい音のようでもあり、遠い記憶のささやきのようでもあった。




 マナミの心に浮かんだのは、一人の少年だった。彼は背中を丸め、父親の厳しい叱責に耐えている。泣きたいのを堪えるように歯を食いしばりながら、何かに必死で耐えていた。


 その少年が抱えていた感情――それは「恐れ」と「自分への失望」だった。彼は父親の期待に応えられない自分を責め続け、それが重荷となって体に刻まれていたのだ。


 「もう十分だ。君はよくやった。」


 その声は、少年自身の奥深くから響いていた。それは「許し」の声だった。


 マナミは目を開けた。佐々木もまた、ゆっくりと目を開ける。彼の表情には何か不思議な変化が現れていた。


 「佐々木さん、もしかすると、過去にご自身を責め続けてきた経験はありませんか?」


 彼は驚いたようにマナミを見つめた。そして、少し考え込むように視線を落とした。


 「……実は、子どもの頃、父がとても厳しかったんです。勉強やスポーツで常に完璧を求められて……。うまくできないと、いつも叱られていました。」


 「その時のことを、今でも心のどこかで引きずっているのかもしれませんね。」


 佐々木は深くうなずいた。それは、自分の痛みの根源に気づいた瞬間だった。




 「佐々木さん、病気の声があなたに伝えようとしているのは、『もう自分を許してもいい』ということかもしれません。」


 「自分を……許す?」


 「はい。過去の経験や自分の失敗を責め続けるのではなく、それを受け入れてあげることが、心と体の癒しにつながるんです。」


 マナミは続けて、日常生活の中で自分を許す練習を提案した。



 毎日自分を褒める:その日の小さな達成や努力を振り返り、自分に「よくやった」と声をかける。


 呼吸と瞑想:深い呼吸と共に、過去の重荷を手放すイメージをする。


 父との思い出を整理する:父親との関係について日記を書くことで、感情を整理する。


 佐々木は初めての方法に戸惑いながらも、「試してみます」と前向きな表情を見せた。




 その後、佐々木は少しずつ変わり始めた。腰痛が完全に消えたわけではなかったが、その頻度と強さは確実に減少していた。そして何より、彼の表情が明るくなり、姿勢も良くなっていった。


 「体が軽くなっただけじゃなく、気持ちも少し楽になりました。本当にありがとうございます。」


 その言葉を聞いたとき、マナミは深い充実感を覚えた。病気の声を聞き、患者に寄り添うことで、体だけでなく心も癒すことができる。語り部の医術は、患者自身が持つ癒しの力を引き出す方法なのだと実感した。




 マナミは佐々木の背中を見送りながら、自分が歩むべき道を再確認した。病気は決してただの災厄ではない。それは、患者自身が抱える心の声を代弁する存在だ。そして、自分がその声を伝える手助けをすることで、患者が新たな一歩を踏み出せるのだ。


 「病気の声を聞くことで、誰もが自分自身を癒す力を持っている。」


 マナミは静かにそう呟いた。

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