第2話 病気との対話
マナミがまだ8歳の頃、母親は突然倒れ、病院に運ばれた。診断は難病だった。当時の医療では治療法が見つかっておらず、進行を遅らせることしかできなかった。その知らせは、マナミの小さな心に深い影を落とした。
「お母さん、治るよね?」
「そうね、きっと大丈夫よ。」
母はいつも優しく微笑んで答えたが、その声にはわずかな震えがあった。マナミはその震えに気づきながらも、それ以上問い詰めることができなかった。
病室には薬の匂いと、機械の規則的な音が満ちていた。母の病状が悪化するにつれ、マナミは無力感に苛まれた。医師や看護師が忙しそうに出入りする中で、彼女はただ母のそばに座り、手を握ることしかできなかった。
病が進行し、母の体力が弱まっていく中で、彼女はある日、マナミにこう語った。
「マナミ、あなたは強い子よ。でもね、病気ってただの敵じゃないの。」
マナミはその言葉が理解できなかった。病気は母を苦しめ、彼女を奪おうとしている。それを「敵じゃない」と言うのは、どういう意味なのだろう。
「お母さん、病気が敵じゃないなら、何なの?」
母は少し考えるようにしてから、言葉を選ぶように答えた。
「病気が私に伝えたかったのはね、『もう自分を責めなくていい』ってことだったのよ。」
その言葉を聞いたとき、マナミにはまだその意味が完全に理解できなかった。ただ、母がとても穏やかな顔をしていたことだけが印象に残った。
それから間もなくして、母の病状は急激に悪化した。医師たちは最善を尽くしたが、命をつなぎとめることはできなかった。母が亡くなったとき、マナミは悲しみと同時に怒りを感じた。
「どうしてお母さんを助けられなかったの? 医療って、病気を治すためのものなんじゃないの?」
医師や看護師たちに詰め寄ることはなかったが、心の中でその問いを繰り返していた。しかし、母が最後に残した言葉がマナミの胸に残り続けた。
「病気はただの敵じゃない」
「自分を責めなくていい」
その意味を理解したいという思いが、彼女の心に小さな火を灯した。それは、母の死をきっかけに消えることなく燃え続けた。
母の死から数年後、マナミは医師を目指す決意を固めた。最初は純粋に「病気を倒す」という考えだった。医療がもっと進歩していれば、母を助けられたのではないかと思ったからだ。
だが、医学部で学び始めたマナミは、次第に医療の限界と向き合うことになる。病気の治療は、ただ薬や手術を用いるだけではない。患者の心や生活全体に目を向けなければ、本当の意味で「治す」ことはできない。
彼女が転機を迎えたのは、ある教授との出会いだった。語り部の医師として名高い恩田博士は、講義でこう語った。
「病気は時に、患者の心や生活の中に埋もれた問題を語りかける存在になる。医師の役割は、それを聞き取り、患者と共に解決していくことだ。」
その言葉に、マナミはハッとした。母が最期に言っていた言葉と重なる部分があったからだ。病気がただの災厄ではなく、何かを伝えようとしているのだとしたら、それに耳を傾ける方法があるはずだ。
マナミは恩田博士に直接指導を仰ぎ、語り部の医術を学び始めた。それは従来の医療とは異なるアプローチだった。患者の言葉や行動に隠れた心の声を聞き取り、病気が伝えようとしているメッセージを紐解く技術だった。
最初は戸惑うことばかりだった。医学的な知識では説明できない現象や、患者自身が気づいていない感情に触れることは、難しくもあり、同時に興味深かった。
ある日、マナミは初めて一人の患者と向き合う機会を得た。彼は慢性的な腰痛に悩んでおり、どの治療も効果がなかった。マナミが丁寧に話を聞いていくと、患者は最終的にこう語った。
「本当は、仕事でのミスを引きずっていて……自分を許せないんです。」
その言葉を聞いた瞬間、マナミは母の言葉を思い出した。「自分を責めなくていい」。彼女は患者に寄り添いながら、その感情を受け止めた。すると、不思議なことに患者の腰痛は少しずつ和らいでいった。
マナミにとって、母の言葉と最期の日々は医師としての原点であり、原動力だった。母が教えてくれた「病気との対話」の大切さは、彼女が語り部の医師として歩む道を照らし続けている。
病気は敵ではない。それは時に、私たち自身が見落としている何かを伝えようとする「声」だ。マナミはそう信じている。そして、母がそうしたように、彼女もまた患者たちに寄り添い、その声を共に紐解く道を進んでいくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます