第七話

 わたし(二葉:第二人格)は雪さんの前に現れました。

 雪さんは女性のような線の細い、背が高くて端正な顔立ちをした、とてもお綺麗な方です。四季さんに言わせれば服装がとても良くないそうですが、しかしそういう不器用で無頓着なところも、捉えようによっては彼の純粋さの表れのようにも感じられます。

「雪さん。」

「え? うん、どうしたの?」

「お食事、誘ってくださってありがとうございます。ご一緒させてもらって良いですか?」

 わたしが尋ねると雪さんは驚きと共に表情を明るくさせました。

 予備校の駐車場には雪さんの車が止められていました。その助手席に乗せられて、わたしは近くにあるレストランに向かいました。

 着いてみるとそこはとってもお洒落でおいしそうなお店でした。とても素敵なところにエスコートしていただいたものです。

「毎日ここに来てるんだ。お金ならたくさんあるからね。」

「まあ。そうなんですか。」

「実家が太いだけなんだけど。僕自身はバイトもしたことないし。何度か絵のコンクールに入選した時の賞金ならあるんだけど、それも大した額じゃないしね。」

「雪さんって、とっても絵がお上手ですよね。」

「いいや僕なんて大したことないよ。」

 雪さんは表情を俯けて言いました。

「ずっと木更津に落ち続けてるし。本当は自信なんて欠片も残ってないんだよ。」

「そんなこと……。わたしは雪さんの絵はとっても素敵だと思いますよ?」

 本心でした。彼の絵はとても技巧的で随所に洒脱さが散りばめられています。ご自身の美的感覚を巧妙に表現する術をしっかりと確立されているのでしょう。前に会った時に何枚か見せて貰ったのをわたしはしっかりと覚えていました。

「あんな素敵な絵が描ける雪さんですから、今年はきっと合格しますよ。わたしは信じています。」

 実際にどうなのかはわたしには分かりませんでしたがそう言いました。そう言えば喜んでもらえると思うのでそう言ったのです。それで良いのだとわたしは思っています。

 しかし雪さんは自嘲したような表情で首を振りました。

「いいや。どうせ無理だよ。」

「どうしてそんなこと。」

「言っとくけど、僕は別に自分を下手糞だと思ってる訳じゃない。上には上がいることを知っているだけで、少なくともあんな予備校にいるような連中の内じゃ、講師を含めて僕が一番実力的に上さ。それは客観的にも間違いない。」

 そう言った雪さんの口調には自然体の自負がありました。驕るでも偉ぶるでもなく、ニュートラルにそう認識しているのが伝わって来ます。

「でもね。芸大っていうのはその時絵が上手い奴じゃなくて、絵が上手くなれる素質がある奴が受かるものなんだ。技術よりも将来性をより重視される。だからあんな予備校で伸びしろを使い切ってる僕は、木更津芸大なんてなかなか受かれたりはしないんだよ。」

 そう言われると、わたしの方まで悲しい気持ちになりました。

「ごめん暗いこと言って。単なる愚痴さ。あの、先に言っといて良い?」

「え? 何をですか?」

「おめでとうって。一子ちゃん、きっと木更津芸大受かるから。志望してるんでしょ?」

「それは……わたしもきっと受かると思ってますけど……。」

 受けるのはわたしではありませんが。わたしは断るので交代人格達の誰かが受けるのでしょう。しかし誰が受けたとしてもきっと受かるとわたしは信じています。あの子たちなら何も心配することはありません。

「でもなんで今それを仰るんですか? 受験は大分先ですよ?」

「もし僕が今年もダメで、一子ちゃんが受かったら多分、僕は一子ちゃんに『おめでとう』って言ってあげられないと思うんだよ。だから今の内に言っておこうと思って。」

「ありがとうございます。もし受かったら家族に伝えます。雪さんは祝福してくれましたよって。」

 やがて料理が運ばれてきます。そのどれもが信じられない程おいしくてわたしは幸せでした。食事の席は誰かと一緒なことが多いので、だいたいホストの四季さんが担当しています。三度の食事以外に何か食べると、『太る』とか言われて四季さんにシメられてしまいます。三浦さんなんて趣味が色んなメーカーのカップ麺の味見ですから、しょっちゅうそのことで喧嘩になっていました。怒られてまで食べる勇気はないわたしにとって、今日はかなりの役得でした。

「どうかなここの料理? おいしいかな?」

「ええとってもおいしいです。えへへへっ。ふへっ。ふひひひひひっ。」

「え何その笑い方。」

「あ、す、すいません。良く変って言われるんですが、治らなくて。」

「いや別に良いけど。……ところで、今日の一子ちゃんは本当に優しいね。」

 上品な所作で食事をしながら雪さんは笑い掛けました。

「たまに無茶苦茶優しい日があるよね。普段は結構キツい日も多いのに、なんか気分とかあるの?」

「ま、まあ。わたしってそういう性質なんです。いつも酷い態度を取って申し訳ありません。『わたし』は雪さんのこと、素敵な方だと思ってるんですが……。」

「そんな風に言ってくれるの一子ちゃんだけだよ。毎日予備校でもバカにされるしさ。」

「雪さんの素晴らしさをちゃんと見ている人も中にはいますよ。覚えてますか? 雪さんがヌードモデルになった時のこと」

 雪さんは鼻白んだような表情になると、気まずそうに目を反らしました。

「あれはその、僕としてもあまり思い出したくないことなんだけど。」

「いいえ。わたしはずっと覚えています。」

「なんで?」

「素敵でした。雪さんのおちんちん。」

「いきなり何言い出すんだおまえっ!」

 雪さんは身を乗り出さんばかりに言いました。この人は感情的になると食い気味になって声を大きくする癖があります。

 わたしは驚いてあわあわと両手を前に差し出しました。

「い、いえその。すいません。言う順番を間違えました。いきなり結論から入るべきではありませんでした。」

「そ、そう……。」

「ええ。雪さんのおちんちんが素敵だと思ったのにはちゃんと理由があるのです。これからそれについてお話しますね。」

「どっちにしろぼくのちんちんには言及するんだね……」

 わたしは当時のことを思い出していました。

 と言ってもそれはわたし自身が経験したことではありません。実際におちんちんを見たのは四季さんです。わたしはただ申し送りを読んで、この雪という方はなんて素敵なのだろうと思ったに過ぎませんでした。

「前に芸大からとってもお歳を召した芸術家の方が来て、わたし達に授業をしてくださったことがありましたよね? そこでその先生は、ヌードデッサンをわたし達に提案しました。」

「そうだったね。」

「その先生は誰かヌードモデルに立候補しろと強い口調でわたし達に求めました。ですがその時はやりたい人がおらずに誰の手も上がりませんでした。」

 わたしがそこにいたらきっと手を挙げて絵を描いてもらうのに。残念でした。苦痛の管理者として、他人が嫌がることを引き受けるのがわたしの在り方です。決して人前で裸になりたい訳ではありません。

「今の時代ならそこでヌードデッサンはお流れになるのが普通です。それが現代のコンプライアンスというものでしょう。しかしその先生はお歳を召していられた為に何というか考え方にちょっとした齟齬があり、立候補がない以上こっちで勝手に選ぶと言って、目についた一人の女生徒を指さして前に立たせてしまいました。」

 その方は目に涙を浮かべていたそうです。可哀そうでした。お年頃の少女にとって公衆の面前で全裸に剥かれるというのは過酷な経験です。きっととても怖い思いをしたことでしょう。わたしがその場にいてこのわたしが脱ぎさえすれば、そんな思いはさせなかったというのに。

「今すぐ裸になれと強く要求するその先生から、彼女を助けられる者は日頃の講師を含めて一人もいませんでした。何せその先生はとっても偉い芸術家の方ですので、逆らうのは容易ではありませんでした。」

 わたしはそこでしばしの為を作って、くわと目を見開いて大声で叫びました。

「その時です! 立ち上がった雪さんがおちんちんをさらけ出したのは!」

「でかい声で人がちんちん出した話をするなよ恥ずかしいだろ!」

 雪さんは身を乗り出して食い気味に叫びました。レストラン中に二人の声が響き渡ります。

「脱衣を強要されていたその女生徒をかばう為、雪さんは自ら生まれたままの姿となったのです。そして足音を立てて教団の前に上がると、『さあ自由に描くが良い』と言わんばかりに、ポーズをとって股間を剥き出しにしたのでした!」

 それはとても勇気のある行動であり献身的な自己犠牲です。四季さんの申し送りに描かれたその行為を読んで、わたしは心から雪さんを尊敬しました。

「ま、まあ、人助けのつもりだったのは確かだよね。そこを認めてくれるのは、ちょっと嬉しいかな。」

 雪さんは目を反らしながら言いました。当時のことを思い出してか、頬が赤くなっています。

「そんな勇ましい雪さんの姿でしたが、一つ問題がありました。なんとそのおちんちんがとても小さかったのです!」

「この流れでそこに触れるのかよ!」

 雪さんは食い気味に叫びました。

「そのおちんちんは小さいだけでなく皮被りであり、その余らせた包皮は、女性の親指くらいならすっぽりと包み込んでしまえそうな程でした。よって心無い人々は嘲るような失笑を浮かべたのです。やがてその忍び笑いはじわじわと大きくなり、先生の『君ちっさいなぁ~』という声と共に、大爆笑へと変化しました。その股間を激しく嘲笑される可哀そうな雪さんに、わたしは思わず涙していました。」

「いやあの時の君普通に笑ってただろ! 誰よりも!」

 知りません。それは四季さんです。『ちっさ! ねぇ見てあれ。ちっさぁ!』と仲間と共に指さして笑ったのは四季さんであって、わたしではありません。

「ですがわたしは思ったのです。あれほどの短小包茎であれば、他人と比べずとも自分でそのことを理解していたはずであると。にも拘らず! 一人の少女を救う為にその股間を曝け出せる雪さんは立派だと! そのおちんちんは誰よりも勇気のある素敵なおちんちんであると! わたしは心からそう思ったのです!」

 その後四季さんがスケッチして来たおちんちんをわたしは穴が開く程じっと見詰めました。わたしはそのおちんちんを史上最も高潔なおちんちんとして心から認めたのです。

 わたしは思わず雪さんの手を握りしめていました。

「安心して下さい。世界中の誰もかもが雪さんを短小包茎と嘲っても、このわたしだけは、それが世界中の誰よりも立派なおちんちんであることを知っていますからね!」

「これもうただのいじめだろ……。」

 雪さんはフラッシュバックに苦しむかのように項垂れていました。

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