第六話
俺(三浦:第三人格)は美術予備校の画板の前に座っている。絵を描いていた。摩天楼のように背の高い図書館の遥かな天井から、長い鎖で吊り下げられた粗末な椅子の脚を少女が掴み、もう片方の手で本を読んでいるというものだった。
美術教室で絵を描く権利はすべての人格が均等に持っていた。不公平にならないよう順番も決めて、誰かが絵を描き終えると別の誰かに交代した。今は俺の番だった。俺達は皆自分の番が来るのを心待ちにしていたが、二葉だけは人前で絵を描かなかった。俺達が絵を描くのは趣味でもあったが、芸大に入る為に必要な練習でもあった。
確実に芸大に受かろうと思ったら誰か一人が集中的に練習して、そいつが受験を担当するべきはずだった。それに相応しいは明らかに二葉だった。コンクールで最大の実績を得ていた俺よりも予備校の講師に個人授業を施される程才能を見出された四季よりも、アニメ調の絵をネットに晒せば必ず多くの閲覧数を記録する五木よりも誰よりも自由で個性的な画風を持つ六花よりも、二葉の絵は誰よりも突出して上手かった。その一点に関しては誰も異論を唱えなかったし唱えられなかった。しかし二葉は受験を担当することを嫌がった。奴は人前に絵を見せるのを極端に嫌がった。受験のような評価や批評に晒される場なら猶更のことだった。ならば二番目に上手いのは誰かというとそれは自分自身だと俺を含む皆が主張し話はまとまらなかった。審美眼においても信頼されていた二葉に選ばせようという話も出たが、奴にはそれは出来なかった。奴は著名な画家の絵でも才能のないその辺の子供の落書きでも、一様に褒めるだけで批評したり優劣を付けたりということが出来なかった。よって俺達は美術予備校に使う時間を四等分し均等に絵を描くことに決めた。そうしろと二葉が言ったのだ。明らかに不合理で非効率的な方法だと皆が二葉に文句を言ったが、他にやりようがないのも確かだった。
「皆さんいったん手を止めて聞いて下さい。良いですか、色彩学的に赤い色というのは……」高橋という講師が何やら講釈をぶっているのを俺は無視して手を動かした。俺は自分の描く絵について誰かの教えに従ったり誰かの意見を取り入れたりすることを絶対にしなかった。「虹川さん、あなた聞いているんですか?」と高橋はさえずっていたが関係なかった。俺は俺の絵を邪魔する者のことは無視するか敵対すると決めていた。本当は今すぐにでも敵対したかったが我慢しているのは他の連中に迷惑が掛かるからだ。「虹川さん。あなたいい加減に」
「そんな奴の言うこと聞くことないよ」声がした。それは雪の声だった。「あんたの言ってることいつも的外れだし無意味なんだよ。そんな赤を五や六つに分類したってしょうもないよ。どう分けたってグラデーションにしたらどっかしら曖昧な部分が出来るのに、たかだか五つや六つに分けて一個一個に講釈ぶったって、そんなもん知識の域を出ないんだよ」
雪夏彦はこの予備校の生徒。ゴボウみたいに細く背が高く女みたいな小奇麗な顔立ちをしていて、一端の芸術家を気取ったような汚らしいロン毛と、チェック柄のシャツとよれよれのジーンズを身に着けた軟弱そうな男。歳は二十三。有象無象の芸大になら現役の時に滑り止めで受かったそうなのだが、名門木更津芸大にこだわるあまり五度の浪人をしている。
「あのねぇ雪さん。そりゃあ色の分類なんて自然界には存在しない、人間が勝手にやってることなんすけどね。でも無限に存在する色を人間が扱おうと思ったら、どっかしらで線引いて分類してってする必要があるでしょ」「でも全部赤じゃん!」「だから、その赤とか青とかいうのも所詮は分類だし知識でしょ? でもその分類とか知識が上手い絵を描けるようになるのに必要だと思うから、あんただってこの予備校に通ってるんでしょ?」「そんな分類が絵を描くのに役立つの最初だけだよ。どんだけ細かく分類してってもキリがないってなったら、興味も意味もなくなるよ」「必要ないと思うんならもう帰って下さいよ。邪魔だから」「そんな次元の話でいちいち手を止めさせんなって言ってるんだよ。手を止めなくて良いから聞けとか、聞きたい人だけ聞けとか、そういう言い方あるだろうがよ」
雪は尚も口角泡を飛ばして高橋を批判していた。この予備校の講師には芸大・美大から来ている学生のアルバイトが多い。自分より年下の講師に教わるのが我慢ならない雪は、しょっちゅういちゃもんを付けるのだ。こいつはこいつで人に自分の手を止められるのを嫌う性質だから、その辺の苛立ちもきっとあるんだろう。
誰にとっても雪自身にとっても厄介なことに、雪の絵の技量や知識は講師を含むこの予備校の誰よりも高かった。コンクールでいくつか賞を取っているし、芸術論についてディベートをさせればそれなりのものだ。だがそれだけに雪は己のプライドを抑えられずにいた。
「それじゃ必要な人まで聞かずに流しちゃうでしょ? あのね、あんた一人の為だけに授業してんじゃないんですよこっちはさ。嫌ならこんな予備校やめりゃ良いじゃん。どうせあんた木更津芸大無理なんだから」
教室中からどっと笑い声が吹き上がる。
「ああーっ! てめぇ! ライン超えたな! 今ライン超えたなてめぇ! てめぇ!」雪は顔を真っ赤にして立ち上がる。「覚えてろよおまえ! おまえ! 僕が将来名のある画家になったらおまえなんて踏みつぶしてやるんだからな!」
雪と高橋が諍っている間中、俺は自分の絵に集中していられた。その意味では俺は雪に感謝していた。そうでなくとも、俺は少なくとも主張している内容に関して言うならば、雪のことを支持していたのだ。
予備校は六時から十時半まで続けられる。途中で夕食を取るなどの目的で四十五分と長めの休憩時間が設けられており、その際に俺はカップ麺でも食おうと思って席を立った。
すると雪が声を掛けて来た。「一子ちゃん参るよねあのクソ講師」俺は無視する。「あんな奴に教わってても時間の無駄だよね」俺は無視する。「なんでこんな予備校選んじゃったんだろうね。僕ね他のまともな予備校行ってたら絶対違ったと思うんだ。生徒の自主性ってもんを軽視してるよ。一子ちゃんみたいな才能ある人程潰しちゃうよこういうところは」俺は無視する。
「ねぇ一子ちゃん良かったら一緒に晩飯食わね? 奢るよ。僕実家太いから良いもん奢れるよ?」
「あんたな」俺は声を低くして、自分の顔を人差し指でさしながら言った。「いくら『こいつ』があんたに優しく口を聞いてやったからってな。こちとら常にそういう対応が出来る訳じゃねぇし、してやる義理もねぇんだわ。失せろよ」
前に六花が階段で転んだかなんかで身体を痛め、珍しく二葉が予備校で出ていた時に、下心を全開にした雪に介抱をされたことがあった。二葉は男が自分に下心を持って接して来てもあしらう奴ではなかった。むしろ同情心が強く押しに弱く良く流された。そんなあいつから見て、一つの芸大に固執して五年も浪人し続ける雪は、純朴か一途か清貧か、そういう風にも映ったのだろう。食事に誘われてのこのこ付いて行き、己が境遇について一方的な愚痴を垂れる雪に共感的に耳を傾けてやり、安い慰めや無責任な励ましを繰り返し口にしてやったのだという。
その所為で雪は何かしらの勘違いをしたらしく、ことあるごとに俺らに言い寄って来るようになった。それをあしらうのは主に四季の役割であり、それなりにきつい対応もしたようだが、心臓に毛が生えたこいつは懲りずに何度もアプローチを掛けて来る。
「一子ちゃん本当気まぐれちゃんだよね」雪は平気そうな様子だった。「日によってキャラ違うよね。今日気分じゃないんだったら別に良いよ。また誘うから」
俺を諦めた雪は一人教室を出て行った。どっかに飯を食いに行ったんだろう。すると「五浪丸また虹川に玉砕してるよ」予備校の生徒の内の一人が仲間と囁き合っていた。五浪丸というのは雪の蔑称だった。
「でも虹川って鈴木先生と付き合ってるんだろ? しょっちゅう前の公園で逢引きしてるらしいじゃん。哀れだよなぁ」「知らない訳じゃないと思うよ。知ってて諦めきれてないだけ。こないだじーっと、公園で鈴木先生と会ってる虹川のこと影で見てんの」「マジ? ストーカーじゃん!」生徒達は声をそろえて笑い合う。「あいつ絶対童貞だろ? きっと女と付き合ったこともないんだろ」「それで虹川のいつもの『気まぐれ』にほだされて惚れたと?」「哀れだねー。何の為に生きてんだろあいつ」
こいつらが雪の悪口を言っているのは、頼まれもしないのに他人の描く絵を批評したがるあいつに、ボロカスに言われているからだ。経験値が他より高い雪の技量と審美眼は高く、その批評は的確かつ挑発的で、しばしばトラブルの原因になるので講師たちも頭を抱えていた。
「あ。そうだ。良いこと考えたわ」
一人の男が含み笑いを漏らしながら雪の描きかけの絵の方に近付いていく。そして雪の絵具を勝手に持ち上げて、キャップを外して絵に近付けた。
「おい」俺は怒鳴って生徒達に近付いて、絵具を取り上げた。「おいてめぇ。何をしようとしてる?」
「何って……こいつの絵に絵具塗りたくろうと思ったんだよ。どうせあいつ木更津受かんないし絵ぇ描いても無駄……」言い終える前にそいつは床に転がっている。俺が胸を掴んで叩き付けたからだ。
「腐った真似をするなよ」俺は男に近付いて再び胸倉を持ち上げた。「雪が何だろうとおまえが何だろうと、人の絵を勝手に台無しにして良い訳じゃないんだからな」鼻っ面に向けて肘を叩き付けると、赤い血が迸ってそいつは床に倒れた。気を失っている。
俺は教室を見回した。この教室で休憩を取る奴はそう多くない。飯を食うかもっと居心地の良いところで休むためにそれぞれ出払っている。残っているのは倒した男の連れを含む数人で、全員を黙らせるのはそう難しいことではなさそうだ。
「余計なことを余計な奴に言うなよ」俺は教室に残っている連中に向けて言った。「おまえらはただ黙っていれば良いんだ。それが一番利巧な考えだ。そうすれば何も起こらない。良いな?」
そして一人一人を睥睨し、その態度や日頃の性格によって脅したり言い含めたりした後に、俺は男の身体を肩に担いで教室を出た。
俺は予備校の外の路地裏に男を捨てて肩を鳴らした。余計なことをしたと思ったが特に後悔はなかった。四季か五木あたりには文句を言われるだろうが構わなかった。確かに俺は一時の感情で行動をしたが、俺は殴りたいという感情を持ったらそれを押し留めるのが不得手だったし、また不得手であるように作られてもいた。だからこれはある意味では仕方がないことだった。仕方がないことを理解されるべきだった。
「……一子ちゃん」振り返ると雪がいた。「見てたよ一子ちゃん。僕の為に戦ってくれたんだね」
こいつがどこから見ていてんだろうか。どうして今になって声を掛けて来たんだろうか。いずれにせよストーカーみたいに俺に張り付いていたんだろう。気持ちの悪い奴だ。だがいつものように無視していれば良いはずだった。
「お礼に夕飯奢らせてよ。まだでしょ? 好きなものを食べさせてあげるから」「いいよ別に。腹減ってねぇから」「そんなこと言わないでよ。別に今日じゃなくて良いからさ」「良いって」「何かお礼しないと気が収まらないんだよ。別に食事じゃなくても良いけどさ。一子ちゃんなんか欲しいものとかある?」
言いながら付き纏ってくる雪。いい加減に鬱陶しくなって来た。この鬱陶しさは耐えがたい苦痛と言って良かった。それに耐え続けることは俺の役割であるとは言い難い。どういう種類のものであれそれが苦痛である以上、それを二葉に負担させることは原則に反しないと俺は判断した。それが奴の仕事だった。
俺はコックピットに備わっている電話機を手に取った。
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