音、重ねて

小狸

短編

 私は、クラシック音楽が好きである。


 特に、ブラームスの交響曲が大の好みで、首都圏のプロのオーケストラが演奏するとなった時には、仕事を早上がりして飛んで行くこともある。


 一番好きなのは――これはクラシック通の方からすれば月並みなのかもしれないが――ブラームスの交響曲第1番、ハ短調作品68である。通称「ブラ1」とも称されるこの曲は、ブラームスが生涯書いた4つの交響曲の中でも特に人気があり、演奏機会に恵まれている。


 全4楽章からなるこの曲のどこが好きかと問われると返答に窮するが、敢えて言うのだとしたら、2楽章である。


 コンサートマスターによるヴァイオリンのソロと1番ホルン、1番オーボエが奏でる旋律は、私を何よりも幸福にしてくれる。


 私には楽器の素養がないが、それでも勇気を出して楽器屋に赴き、スコアを買ってしまったくらい、大好きな曲である。


 今回は、そんな曲にまつわる話をしよう。


 とあるプロの交響楽団を聴きに行った時の話である。


 目当ては勿論もちろん、ブラームスの交響曲第1番であった。


 一緒に演奏されていた、同じくブラームスの、「ハイドンの主題による変奏曲」も素晴らしかったけれど、一番楽しみだったのは交響曲だった。


 演奏中の出来事である。


 私は病気で耳があまり良くないので、できるだけ前よりの席で演奏を聴くようにしている。その日は一番前の席を取り、そこに座った。


 斜めを見ると、下手をするとコンサートマスタ―と目が合ってしまうような、そんな席だった。コンサートマスターの視線や動き、それぞれの意味を、分からないなりに考えながら、大好きなブラームスの1番を聴いていた。


 そんな折の話である。


 終楽章の終わり、417小節目の3連符のアウフタクトから始まる音楽で、それは起きた。


 木管楽器と弦楽器が、コンマ数秒、ズレたのである。


 いや、前述の通り私には音楽の素養はないし、これといって何が「正しい音楽」なのかは分からない。


 しかし、レコードが焼き切れるくらい聴いたブラームスの1番の416小節目から始まる音楽がということだけは、私には分かった。


 ズレた。

 

 そう思った。


 一瞬の出来事であった。


 コンサートマスターが、ネックの先をほんの少し上に動かし、木管楽器の方に向けたのである。


 それだけで。



 終盤に向けていくオーケストラの集中力が、一気に増強された。


 そして、その一瞬のズレが、次の小節では解消され、楽譜通りのものになっていたのである。


 何が、起こった?


 私には理解が追い付かなかった。


 たった一刹那の出来事であった。


 


 まばたきにも満たない、一瞬で?


 成程、その演奏に瑕疵があった時点で、所謂いわゆるクラシック通な方から言わせれば名演ではないのだろうし、歴史に名を残す演奏にはなり得ないのかもしれない。


 しかし。


 私は、今までのどんなブラームスよりも、どんなレコードよりも、その演奏に感動してしまったのである。


 


 やはり。


 終演後、拍手と共に、私は思った。


 これだから。


 音楽は、面白い。




(「音、重ねて」――了)

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