第9話 カヤックのお稽古(2)

「まずは服装の名前から確認しておこうかの」

「すいません。その前にいいですか?」

「なんじゃ?」

「私はおじいさんのことを何とお呼びすればいいでしょうか? インストラクターって言うのは長くて呼びづらいんですけど」

「そうじゃな、ではわしのことは『師匠』と呼んでくれ」

「分かりました」

「ちなみにお嬢ちゃんのことは何と呼べばええかの」

「山中マユなので『マユ』って呼んでください」

「うむ、ではマユ」

「はい」

「わしやあんたが着ているこれは何と言うかな?」

「ライフジャケットですね」

「ではこれは?」

「ヘルメット」

「ではこれは?」

 腰の周りにペロンと垂れているスカートみたいなもの。カヤックのコックピットに装着して水が中に入って来ないようにするためのものであることは昨日カケルちゃんを見て分かった。でも名前は知らない。

「スカート?」「惜しいが、違う」

「エプロン?」「違う」

「前垂れ」「違う。マユは剣道をやっとったのか?」「してません」

「チュチュ」「なんじゃそりゃ? 違う」

「分かりません」

「これはスプレースカートと言うんじゃ。塗装職人がスプレーで汚れるのを避けるために着けていたスカートに似ているからじゃろう。ではスプレースカートは何のためにあるか分かるか?」

「昨日、カケルちゃんがカヤックに乗ってるときに見ました。カヤックのコックピットに装着して水が中に入って来ないようにするためのものですよね」

「正解じゃ。ちなみに人が乗るところをコックピットと言うが、コックピットの周囲の縁(ヘリ)の部分をコーミングと言うのじゃが、このスプレースカートのふちには見ての通りバンジーコードと言う強靭なゴムが付いておっての、それをこうやってコーミングに引っ掛けて嵌めていくのじゃ」

 師匠は説明しながら足元に置いてあるカヤックのコックピットに座って、手早くコーミングにスプレースカートのバンジーコードを引っ掛けて装着した。

「これでたとえひっくり返っても水が艇内に入ることはない」

「なるほど」 

 カヤックにスプレースカートを装着した状態の師匠は、まるで小型のUFOから上半身だけ出した、漫画に出てくる宇宙人みたいだった。変だな、カケルちゃんはあんなにきれいだったのに……

「ではお嬢ちゃん、マユもこのスプレースカートを履いてそのカヤックに乗ってみなさい」

 私は渡されたスプレースカートをまさにスカートを履くように足の先を入れてぐいぐいとウエストの位置までずり上げた。腰部分の締まりも結構きついな。緩かったら水が入っちゃうもんね、仕方ないか。

「スプレースカートの正面がちゃんと自分の正面に来るようにしなさい」

 私は一旦履いたスプレースカートの腰部分をちょっと回して位置を調整した。そしてコックピットに座ってスプレースカートのバンジーコードをコーミングに引っ掛けようとした…… 固い!!

「つけ方にコツがあるんじゃよ。まずは背中側のバンジーコードをコーミングに引っ掛ける。そこから体の横あたりまで左右のバンジーコードを引っ掛けて行く。そうしておいて、前の先っぽを掴んでぐっと引っ張って伸ばすのじゃ。先っぽをコーミングに引っ掛けたらそこを押さえたまま、もう片手で左右を順々に嵌めこんで行く」

 順々に嵌めて行こうとしたら前に嵌めたところが外れてしまう。そんなことを何回か繰り返してようやくコーミングにぐるりとバンジーコードを引っ掛けることができた。これだけですっかり腕が疲れてしまった。それなのに……

「スプレースカートの先っぽに紐が付いとるじゃろ。外すときはその紐を引っ張るんじゃ。やってみなさい」

 確かに、外れた。せっかく苦労して付けたのに……

「もしひっくり返ったらその紐を引っ張ってスプレースカートを外して脱出するのじゃ。だからスプレースカートを装着するとき、その紐をコーミングの内側へ入れてしまわないように注意するのじゃ。いざと言うときスプレースカートが外れなかったら溺死するぞ、まじで」

 溺死…… 確かにカヤックがひっくり返って水中で逆さまになったときスプレースカートが外れなくて脱出できなかったら、って考えてぞっとした。

 

「さて、言い忘れとったがコックピットに座った時、マユは自分の足はどうしとる?」

「どうって、普通に前に伸ばしてますけど」

「一旦降りて中を覗いてごらん。左右に足を掛けるペダルが付いておるじゃろ?」

「あ、本当だ。ありますね」

「足の先をそのペダルに掛けるようにして座るのじゃ。そうすれば足を踏ん張ることができるようになる。足がぶらぶらしておっては何もできんでな。足の長さによってペダルの位置を調整できるようになっておる。ペダルの位置を調整するからもう一回座ってみなさい」

 座ってみた。ペダルに足の先を掛けてみる。

「どうじゃ?」

「うーん、よく分かりませんが足の先がとどくことは確かです」

「うむ、どれどれ」

 師匠がコックピットに顔を突っ込んできた。私の太ももに師匠の頬が触れてくる。髭の感触が気持ち悪くて、背筋に悪寒が走った!

「ぎゃー! ちょっと師匠、何やってんですか、ダメですって、やめて、エッチー!!!」

「少しペダルの位置を手前にづらせた方がよさそうじゃな。一旦降りなさい」

 まったく動じない口調でそう言う師匠。でもなんか顔が紅潮して口角が嬉しそうに上がっているような……

「足をペダルに踏ん張ったとき、膝が艇の内側を押すような位置がピッタリの位置じゃ。これでどうじゃ?」

 また師匠が覗き込んでこないように警戒しながら座ってみる。

「あ、ちょうど膝が内側に当たってます!」

「あんまり窮屈にフィッティングすると『沈』したときに出られなくなるからの。そのままコックピットから出られるか?」

 両手で艇を押さえて体をコックピットから引き抜いた。ちなみにひっくり返ることを『沈する』って言うらしい。

「大丈夫みたいです」

「うむ、ではフィッティングはそれでよしとする。もう一回スプレースカートをセットしなさい」

 再度悪戦苦闘しながらバンジーコードをコーミングに引っ掛ける。

「ほれ、パドルを持て。では水に浮かんでみるぞ」

 そう言うと師匠は私が乗った艇を河原から水面に押し出した。




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