第7話 マユ、カヌーを体験する(2)
このカヌースクールではお弁当も代金に含まれているので、私は支給されたお弁当をカヌー館のテーブルでおじいさんと2人で食べていた。パドルを漕ぐときにかかった水しぶきで少し濡れていて肌寒いので、私はジャージの上下を着込んでいる。おじいさんはスマホを弄っていて、全然こっちを見ていない。午前中のうっとおしいほどの舐めるような視線とは打って変わった態度。露出のない女性にはまったく興味がないらしい。
そこへ1人の少年が通りかかった。その少年に気づいたおじいさんが声を掛けた。
「カケル。これからトレーニングか?」
「うん」
『カケル』と呼ばれたその少年は細身でスラっとしてて耳が隠れるくらいの髪の長さだから男としては長髪と言うのかもしれない。身長は私と同じかちょっと高いくらいかな。決して長身ではない。整った顔立ちだけど、まだ幼さが残っていて肌もつやつや、髭がはえる気配もないから中学1年生くらいかなと私は見積もった。
「わしの孫のカケルじゃ。『飛翔』(ひしょう)の『翔』と書いてカケルじゃ」
紹介されたカケル君は私の足元をじっと見ている。そこにはクマが座っていた。
「こら、カケル。挨拶せんか」
ワンテンポ遅れてはっと顔を上げたカケル君が私に軽く会釈するとにっこりと微笑んで、
「おじいちゃんの生徒さんですか?」
「はい!おじいさん、いや先生にはお世話になっております!」
思わず変ちくりんな答えを返してしまった。カケル君はちょっとびっくりしたような顔をした。
「カケル。暇じゃったら午後からちょっと手をかしてくれんか?」
「暇じゃないけど…… トレーニングしに来たんだけど……」
おじいさんはカケル君の返事なぞ聞いていないらしく、
「ちょっとこのお嬢さんにスラ艇というものを見せてやってくれんか?」
「分かったよ……」
あきらめが速いな、カケル君。このおじいさんには何言っても無駄って分かってるんだね……
お昼休憩が終わってカヌーのところに戻ってみると沖に一艘の白いカヤックが浮かんでいた。乗っているのはカケル君。カヤック用のウエアに身を包み、ちゃんとライフジャケットとヘルメットも装着している。カケル君のカヤックは朝私に与えられたものとは全然違った形状をしていた。まず、長い。次に平べったい。凹凸がないまっすぐなフォルムは一言で言うなら「美しい」。
「あれがスラローム艇じゃ。きれいじゃろ?」
いつの間にかおじいさんが横にいた。
「はい」 私は素直に頷いた。
「スラローム艇は文字通りスラローム競技のための舟じゃ。競技艇じゃからレギュレーションがあって、艇の長さは350cm、幅が60cm、重さは9kgと決まっておる。そのレギュレーションでもっとも優れた性能を出すために長年の間に磨き抜かれた形があれじゃ」
「カケル!」
おじいさんが声を掛けるとカケル君は分かりましたと言わんばかりにパドルを漕ぎ始めた。
カケル君の漕ぐ舟はすべるようにスルスルと水面を進んで行く。1回のパドリングでとてつもない距離を進むことに驚いた。左へ曲がる。当然右側にパドルを入れる。なんと1回右側をグイっと漕いだだけで舟は180度回転した。そのまま左右交互にパドリングしてこちらにまっすぐ向かってくる。私たちの立っている河原の手前で今度は左へパドルを入れた。艇の後部が水に沈み込んで逆に舳先が高く持ち上がる。その姿勢のまま舟はくるりと180度右回転した。カケル君はさらに左側にパドルを入れると艇の後部は完全に水中に没し、艇はさらに立ち上がってほぼ垂直になり、カケル君が左にパドルを入れるたびに同じ場所でくるくる回転し続ける。
すごい!何これ!?さっきのカナディアンと全然違う。もう舟と人が一体化してる。水を相手にダンスしているみたい。めちゃめちゃ楽しそう!
「あれはテイリーという技じゃ。あれができると面白いぞ」
私はそんな師匠の言葉を聞きながら、目の前のカケル君がカヤックを漕ぐ姿から目が離せなかった。『自由自在』って言う言葉が頭に浮かぶ。本当に水面上で彼の漕ぎは自由自在だった。
午後はおじいさん(インストラクター)と私とクマの2人と一匹でカナディアン・カヌーで川下りをした。午前中に練習した広い静水面の出口は幅が狭くなっていて水が勢いを増して流れ出している。水中に岩があるらしく波が立っているところもある。こういうところを『瀬』(せ)って言うことを教えてもらった。その中を「お嬢ちゃん、右!」「お嬢ちゃん、左じゃ!」 おじいさん(インストラクター)の声に従って訳も分からず私は必死で漕いだ。遊園地の激流下りとは比較にならないような迫力。なんせこっちは本当にひっくり返ることだってあり得るのだ。
すぐ横をスラ艇に乗ったカケル君が伴走してくれている。こちらはまったく危なげない余裕の漕ぎだ。わざわざ大きな波の下流側に回り込んで遊んでいる。クマも揺れる舟の中で鳴き声も上げずに踏ん張っている。彼もまた必死なのだろう。こんなこと初めてだもんね、当然だよ。
「ひっくり返ったらカケルが助けてくれるから安心せい」
じじい! あんたは助けてくれないのかよ!
必死に漕いで気が付いたら『瀬』は通り過ぎ、水の流れが穏やかなところに出た。こういうところを『トロ場』って言うらしい。クマも落ち着いたらしく、短い尻尾を振りながら舳先の方から顔を出して前方を見つめている。もうすっかりカヌー犬の雰囲気だ。そこへカケル君が舟で近づいてきてクマの頭をちょんと突つく。クマは嬉しそうにお尻をふるふると振動させた。
いくつかの瀬とトロ場を過ぎ、1時間ほど下ったところがゴールだった。四万十川名物の沈下橋の下をくぐったところの河原に上陸した。そこにはあらかじめ回送しておいたらしい軽トラがあった。これに私たちのカヌー、カケル君のカヤックを積んで戻るんだ。何もしていないと思っていたけど、おじいさん(インストラクター)もちゃんと仕事してたんだな。
軽トラの荷台まで3人で手分けして2捜のカヌーとカヤックを積み込み、おじいさん(インストラクター)がロープを掛けて固定した。運転席には2人(と一匹)しか乗れなかったので、申し訳ないけどカケル君は荷台に乗ることになってしまった。ごめんね、カケル君。そうして私たちはスタート地点のカヌー館へ戻った。
「さて、これで講習は終了じゃ。お疲れさん」
「ありがとうございました」と頭を下げたものの、私は気持ちがもやもやしていた。カケル君が漕ぐスラローム艇の姿が目に焼き付いて離れない。ダンスしてるみたいで、きれいだった。あんな風にカヤックを操って自由自在に水と遊んでみたい。私にもできるんだろうか。
「あの!」
去って行こうとするおじいさん(インストラクター)に思わず声を掛けた。
「私、カヤックの講習も受講したいんですけど!」
振り向いたおじいさんはにやりと笑って、
「よかろう。では明日からカヤックの講習を行う。朝8時。今日と同じ場所に集合じゃ」
「はい!よろしくお願いします!」
私はシャワーを浴びて着替えるべく、着替えとタオル、シャンプーを持ってシャワー室に向かった。カヌー館にはお風呂はないらしい。
女性用のシャワー室に入って水着を脱いでいると、奥のシャワールームのカーテンが開いてタオルで頭を拭きながら出て来た人がいた。
「え?カケル君!?」
私はびっくりして素早くバスタオルで身を包んだ。カケル君も私に気が付いたらしい。
「あ、さっきの」
「ちょっと! ここ女性用のシャワー室だよ!」
「はあ、そうですね」
「『そうですね』じゃないよ! 君、どうしてここにいるの!?」
「どうしてと言われましても……」
カケル君はタオルで頭を拭く格好のまま固まっている。全裸だ。あれ? 胸がある。え?え? あれがない。
「えー! カケル君ってもしかして女なの!?」
カケル君は明らかにムッとした顔をした。
「もしかしなくても女ですけど。何か悪いですか?」
「あああ…… ごめん! 私てっきり男の子だとばっかり思って……」
カケル君は「ふー」と肩で大きくため息をついた。
「別に気にしてませんよ。慣れてますから」
そう言うとそそくさと服を着て出て行ってしまった。ああ、怒らせちゃったよー。だって『カケル』なんて男の子の名前じゃん。それにあの見た目でしょ。分かんないよ。くそ、あのじじい! 教えてくれればいいものを!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます