第2話

 太陽の光が窓を通り、自称悪魔の背中を照らす。咲綺から見ると後光が差しているようだった。


「契約した日以降の記憶は随時複製されます。それより前の記憶に関しては『時間と共に少しずつ』記憶を複製させてもらいます」

「記憶を得てあなたになんのメリットがあるの?」と咲綺は聞く。


 自称悪魔は、どこからともなく真っ赤なリンゴを取り出しテーブルに置いた。

「悪魔には、意識から出る感覚――感覚質かんかくしつがないんですよ。咲綺さんがこれを見て仮に赤と感じたとして、他人が同じく見て感じる色は、咲綺さんの感じる色と全く同じだと言い切れますか?」


 咲綺はリンゴを見ながら思惟していた。それを見て自称悪魔はもう一言付け加えた。

「咲綺さんはこれを見てどう感じましたか」

唐紅からくれないの着物を纏った、艶やかで美麗びれいなリンゴ」と咲綺はひねくれた答えを出した。


 眉ひとつ動かさず「いい答えですね。私から見るとこれはリンゴを模した物です。色を捉えられないわけではないです。楽しい、悲しいの意味もわかります。ですが、それを感じることができないんです」自称悪魔は笑顔を作り、続ける「こうやって笑ったりできますが、それは意識の底から出ているものでないんですよ」


 咲綺は笑顔でいる自称悪魔を見て言った「それと記憶がなんの関係が?」

「記憶とはフィルムみたいな物なんですよ。その瞬間が保持され記憶になる。そこには写った絵だけではなく、人間の意識もフィルムに焼き付くんです。私はそのフィルムを見て意識というのを知覚しようとしているんですよ」

「願いの代償は記憶だけ……」

「はい、記憶だけです」


 自称悪魔の笑顔を見ながら咲綺は考えた。私の人生にもう輝きなんてない。悪魔との契約なんて馬鹿らしいけど、先のことなんて考えられない人生なら行動してもいいのかもしれない「言葉より行動を」咲綺は小さな声で自分を言い聞かせた。


「わかった。契約する」

 自称悪魔の笑顔は消えた。口角は上がりつつも獲物を捕らえようとする蛇のように睨み「では、咲綺さんは何を求めますか――」と怪しく言葉を発した。


 正直叶えたい夢なんてない。何が欲しいのかもわからない。直感を信じ心の奥の、誰も辿り着けない底の底。理性をも働かない遠い場所。無意識下の中で小さな砂粒を拾い上げ覗いた先には――。


「愛……」咲綺は答えた。


 自称悪魔は顔色を変えずに「抽象的ですが問題はないです」と言った後「では、テーブルにあるリンゴを食べてください」と突然言った。


 思わず「リンゴ?」と咲綺は反応し、真面目な表情から呆気にとられた顔をした。自称悪魔は温和な顔つきをしテーブルに置かれたリンゴは、リンゴの形を模した契約書だと言う。確かにこれを「リンゴ」とは言ってない(――模した物とは言ったが)。咲綺はテーブルに置かれたリンゴに手を伸ばし掴み、不安を感じつつひと口かじった。

(味がしない……)


「これで契約完了?」咲綺は自称悪魔に聞いた。

「まだです」

「後、何が必要なの?」

「全部ですよ」

 咲綺は腑に落ちない顔を自称悪魔に見せた。

「最後まで食べてくださらないと、契約完了にならないんです」と自称悪魔は言った。

「最後って、種も芯も全部……」

「全部です」


 咲綺はリンゴにかじりついた。生きていた中こんなに本気でリンゴを食べたのは初めてだ。ちらりと自称悪魔を見ると、子を見る親のように静かに見守っていた。リンゴに視線を移し、ひたむきに口に入れた。

 半分まで食べると流石に次のひと口とはいかない、味がしないから躊躇ためらいがでる。五秒ぐらいリンゴを見つめひと口かじる。それを三回ぐらい繰り返した後に自称悪魔を確認すると全く変わらない表情でこちらを見ていた。実はからかわれているだけではと考えながらも、リンゴに向き合いシャキシャキと音を立て歯で噛み砕いた。

 あと五回ぐらい口を通せば終わる。そんなことを考えるだけで食べるのが進まない。時計の秒針が進み、その一つ一つの音が妙に大きく聞こえ始めた。リンゴをじっと見ていると悲しくなってくる、なんて惨めなんだ。悲しさを紛らわせるようにリンゴを口に運ぶ。

 痩せ細ったリンゴを見ると、やっとここまで来たかと思う。カラスすらついばないその姿はあまりにもはかない、終わりが見えると今までの苦労も報われる。

 口を開き、哀れな形をしたリンゴを口内に入れた。咀嚼し、喉を通り咲綺の一粒の涙と共にリンゴはこの世を去った。


「ありがとうございます。これで契約完了です」

「そう、良かっ――」咲綺は嘔吐おうとした。

「吐き出しても契約は無効になりませんよ」

「わかって――」嘔吐した。

 咲綺は部屋を後にし、トイレに駆け込んだ。

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