6 濃霧の中に浮かぶ影


「それで……調子はどうですか?」


 目の前の男の子が、お椀の中身を食べ終わったのを見て、私は男の子に尋ねます。

 鍋にはまだスープが残っていますが、彼はお椀を、敷き布の上に置きました。


「どう……というと」

「目を覚ましてから、かなり辛そうでしたから」


 男の子は、目を覚ましてからも何度か頭に手を当てたり、うずくまりそうになったりしていました。

 声に生気が無く、言葉を発するのにも苦労しているようでしたが、スープを口にしてからは少し楽になったように見えます。


「ああ、だいぶマシだ。とても……助かった」

「それは良かったです」


 とは言ったものの、彼の言う通り、マシになった程度なのでしょう。

 目覚めた直後ほどではありませんが、今の彼も元気がありません。


「…………」


 特に話すことも無くなってしまいました。

 微かな波の音だけが、砂浜に響きます。


 彼個人のことについて尋ねるべきでしょうか?

 しかし、初めて会ったばかりの他人に素性を聞かれたくも無いと思いますし……

 逆に、私の話でもしましょうか?

 彼は冒険者を知らないようでした。

 私も冒険者としてはまだまだ未熟ですが、知識だけならそれなりにあります。


「何も……」


 そんなことを考えていると、男の子が呟くようにそう言いました。


「何も?」

「……何も思い出せないんだ」


 何も思い出せない。

 それはつまり……


「記憶が……無いんですか?」

「……ああ」


 記憶喪失。

 そういうものがあると、聞いたことはあります。

 言い方からして、何をしようとしていたか忘れただとか、昨日の記憶が無いだとか、そんな軽いものではないでしょう。


「本当に何も思い出せないんですか? 自分の名前も?」


 私がそう聞くと、男の子は左の手のひらで、額を抑えながら俯いてしまいました。


「名前……は、わからない……というか、本当に俺が何者なのかすら、思い出せないんだ」


 彼自身、言葉は覚えているようですが話し方もどこかぎこちないように思えます。

 何度も頭を押さえているということは、頭痛もあるのかもしれません。


「何か……引っ掛かりが欲しい……」


 引っ掛かり……つまり手がかりがあれば、思い出せるかもしれない。

 それは、もしかすると、私に向けられた言葉ではなく、独り言だったのかもしれません。

 ですが、私はその言葉でピンと来ました。


「じゃあ、一度そこに干してある上着を身に着けてみませんか?」

「えっ?」


 私が波打ち際で見つけたもじゃもじゃ。

 その正体は男の子のぼさぼさな黒髪と、身に着けていた上着でした。

 茶色いマントのような毛皮の上着と、灰色の帯のようなもの。

 見つけた時はびしょ濡れでしたが、今はもう乾いているはずです。


「改めて服装を見れば、何をしていた人かわかるかもしれないじゃないですか。それ以外に手がかりも無いですし、まずは着替えてみるのがいいかと思って」

「ああ、なるほど」


 困惑の声を上げていた男の子も納得したようです。

 彼の今の服装は、長袖のシャツ1枚と、詰め物をしてありそうな麻布のズボンに、革のブーツというものでした。

 はっきり言って、これだけでは何の手がかりも得られません。

 ですが、少し前に彼を冒険者だと思ったように、改めて全身を見れば何かわかるかもしれない、というわけです。

 そうと決まれば話は早く、男の子はすぐに着替えてしまいました。


「どう……だ?」


 男の子は茶色い毛皮のマントと、灰色の帯を身に付け、私の前に立ちます。

 茶色いマントは、彼の口元が隠れそうになるほど首周りを覆っていますし、身体の正面は開いていますが、背中は暖かそうです。

 灰色の帯は腹に巻かれ、少し肌寒そうに見えた彼のお腹の部分を、しっかりと覆っています。


「こうして見ると、冒険者というより……狩人ですかね?」


 灰色の帯をお腹に巻き、茶色い毛皮のマントと、詰め物の入った麻布のズボンを身に付けた男の子。

 改めて見ると、冒険者にしても珍しい格好のように思えますし、防具というよりは、防寒を目的とした服装に見えます。

 私は職業に詳しいわけではありませんが、ここまで防寒具を身に付けなければいけない職業となると、狩人が思い浮かびました。


「狩人か……」


 狩人という言葉には、男の子も聞き覚えがあったようです。

 ということは、やはり彼は狩人だったのでしょうか?


「何か思い出せそうですか?」

「いや……だめだ。やっぱり思い出せない」


 少し引っ掛かりはしたものの、まだ思い出すには至らないようです。

 男の子は再び敷き布の上に座り込み、頭に手を当てて考え込み始めました。


「何かが足りない気がするんだ」

「何か……ですか?」


 今の彼に足りない何かと言えば、なんでしょうか。

 記憶が足りないと言えばそれは間違いないですが、そういう話ではありません。

 記憶を取り戻すために足りない何か。

 例えば、彼が本当に狩人だとするのなら……


「あっ!武器!」


 そう言えば、男の子を冒険者だと思ったのには、もう一つ理由がありました。

 それは、彼と一緒に小舟に載っていた、武器のようなもの。


「武器……?」


 男の子も少し引っ掛かるものがあるようです。

 額に手を当てながら、目を見開いています。


「確か、あなたがいた小舟に、武器みたいなものも載ってたと思うんです。少し待ってて下さい、今持ってきますから……ってあれ?」


 小舟にあった武器のようなものをとってくれば、何か思い出せるかもしれません。

 そこまで考えて、私はあることに気が付きました。


「小舟……どこだっけ?」


 男の子を助ける時、小舟は波打ち際に置いてきてしまいました。

 荷車の方が人を運びやすかったというのもありますが、どちらかと言えば重くて運べなかったという方が適切です。


 一度焚き木を拾いに森に入ったりはしましたが、その後海岸に戻ってきましたし、そう離れてはいないはずではあります。

 しかし、時間と共に更に濃くなってしまった霧のせいで、すぐに見つけることは難しそうでした。


「えっ……?」


 私の呟きは、彼にも聞こえてしまっていたようです。

 奇妙な沈黙が流れ、空気はとても気まずくなります。


「とっ、とりあえず今探してきますから…………あっ、そうだ、スープがまだ残ってましたよね。これ、さっきの粉なので、食べながら待ってて下さい」

「あ、ああ……」


 私はそう言って誤魔化しましたが、はっきり言ってかなりカッコ悪いというものでした。

 粉薬を男の子に渡し、少し駆け足で波打ち際に向かいます。

 小舟は波打ち際から動かしていませんから、探せば見つかるはずです。


 波打ち際に着き、私は周囲を見回しながら歩きます。

 霧の中とは言え、小舟はそれなりの大きさがありましたし、近くに寄れば影くらいは見えるはずです。


「あった!」


 そんなことを考えていると、早速影のようなものが見えました。

 波打ち際の、横長の影。

 ただの流木という可能性もありますが、とりあえず調べてみるべきでしょう。


「うん……?」


 しかし少し進むと、私の視界にはもう一つのものが入りました。

 横長の影とは別に、濃霧の中に浮かぶ影。

 それは私の身長程大きく、丸い岩のような影でした。


 どう見ても自然のものとは思えません。

 漂流物にしても、いくらなんでも大きすぎます。

 この辺りには魔物はいないとマスターは言っていましたが、警戒するべきでしょう。


 かと言って、横長の影の正体がわからない以上、無視するわけにもいきません。

 距離で言えば、横長の影の方が近くはあります。

 少しずつ近づいて、すぐに調べて戻るべきでしょうか。


 いえ、もう少しだけいい方法があります。

 横長の影を、私の魔法で引っ張るのです。

 影は大きいので、引っ張るのに時間はかかるでしょう。

 しかし、時間をかければできないこともありません。


 もし影の正体が魔物だったとしても、襲われるのは動き出す横長の影の方のはず。

 それなら、私が逃げられるだけの時間はあるはずです。

 私はそう考え、右手の杖を伸ばしました。


「私に従い……」


 私のその声は、限りなく小さいものだったはずです。


「ん?」


 しかし、私が横長の影の方に杖を向けた直後、視界に何か動くものが映りました。

 それは、先程まで止まっていたはずの、大きな丸い影でした。


「うわあ!!」


 私は咄嗟に岸側に跳び、受け身をとって元居た場所に向き直ります。

 見ると、丁度私が元居た場所に、何かが跳ぶように突進して来たところでした。


「知らない魔物……!」


 私はゆっくりとこちらに振り返ったそれを見て、確信します。

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