いとし冥加のカドゥケウス

春道累

いとし冥加のカドゥケウス

いとし冥加のカドゥケウス


 一宮いちのみやえるめは仲野恵なかのえ明杖みょうじょうの、世界一キュートな先輩である。少なくとも明杖は、初めてえるめと出会ったときからそう思わなかった日は一日もない。長いようで実のところ矢のように過ぎ去っていく大学生活の、授業以外の部分を捧げるのに間違いなく値する相手だ。

 そういうわけで、卒業式――もっとも、大学のそれは卒業生以外にはあまり関係がないのだが――が終わっていよいよ正式に春休みが始まろうとしている三月二十四日の午後も、明杖はえるめと仲良く部室で過ごしていた。


 ふたりが所属しているのは地図旅行部という若干マイナーなサークルで、活動内容はもっぱら月一回、お題に合わせて考えてきた旅行プランをプレゼンするというお手軽なものだ。部員は常におおむね両手と片足の指を足したほどの数。壁際の本棚にはずらりと『地球の歩き方』やら『ことりっぷ』やらが並んでいて、反対側の壁には付箋やシールが所狭しと貼られた大きな日本地図。その下に毎年「年間を通して一番良い旅行を考えた部員」に授与されるトロフィーがしまい込まれた段ボール箱が積まれている。このトロフィーというのは十年ほど前の先輩が卒論提出直後に泥酔した勢いで三ダースも発注したもので、言ってしまえば不良在庫なのだが何だかんだ今では地図旅行部名物だ。わりあい重厚感のある作りをしていて、明杖もひとつくらいは手に入れたいと思っている。


「明杖くんも来年は四年だよね、進路もう決めた? 就職? 進学?」

「進学しますよ。もう準備始めてるんで」

 先ほどまでえるめはその段ボール箱をあれこれ動かしていたのだが、どうやら諦めたようでカーペット敷の床に腰を下ろして、明杖に雑談を振った。大掃除は来週に予定されているので、その時にこの箱もいい加減ちゃんとしたものを探してきてもいいかもしれない。そう考えつつ、明杖もちゃぶ台を挟んでえるめの向かいに座る。

「先輩の研究室、秋葉・米村合同ゼミじゃないですか。秋葉研に入って、毎週先輩とゼミで会えるようにします」

「そこまでするなら普通に米村研に来ればいいのに」

「それはなんか違うっていうか」

「そういうもんかなあ」

 えるめが頬を膨らませたとき、部室の扉が叩かれる音がした。


 誰かが気まぐれに取り付けていったと思しきライオンのノッカーは、金属の扉では思った以上に鋭い音を響かせる。訪ねてきたのはふたり組の男で、それぞれ村上と篠崎と名乗って警察手帳を見せた。かっちりした身なりの刑事たちだ。明杖はなんとなく、えるめの斜め前に立つ。えるめがちょいちょい、とシャツの裾にちょっかいを掛けてくるけれど、それで緊張がほぐれた。彼が後ろにいるというだけで心強いものがある。

「今日来てるのは君たちふたりだけ?」

「そうですけど、何かあったんですか」

仇原あだばらうるうが昨日、都内で何者かに殴られて昏倒しているところを発見された。救急車を呼んだが死亡が確認されて、現在捜査を行っているところだ。同じサークルの学生にも話を聞きたくてね」


 ――明杖は仇原のことが嫌いだった。だって仇原は入部一番、えるめに信じられないような絡み方をしたのだ!

 仇原は明杖のひとつ下、つまり今年度は学部二年生だった学生で、夏休み前という中途半端な時期から地図旅行部へ入部してきた。後で知ったところによると、当初仇原は夏はテニスに冬はスキーのいわゆる充実系サークルに所属していたのだが、そのサークル長の恋人にちょっかいを掛けて放逐されたという。

 入部届を提出しに来た明杖は、その日部室に詰めていた部員が順番に自己紹介をするのを聞いて、えるめが名乗ったところで「え~かわい~ハーフみたいな名前っすね~俺ピエール・エルメのマカロン大好きだし先輩のことも好きになっちゃうかも、今度持ってくるんで一緒に食べましょうね!」とのたまってえるめの手を取った。これだけでもどうかと思うのに、その上、仇原は明杖の自己紹介を聞いて、「仲野恵ってなんかそれだけでフルネームっぽいすね、中高のあだ名『めぐみちゃん』だったんじゃないすか?」とも言ったのだ。その言葉の端から滲む嘲笑のニュアンスは的確に明杖の精神を苛んだ。明杖がこれまでの人生で何回同じことを言われてきたのか、考えもしなかったのだろうか? 想像力が欠如している。こんな後輩とはうまくやっていける気が全然しない。

 実際その後も、仇原は「なんだかちょっと嫌な感じの後輩」の条件すべてを網羅する勢いでやらかしを重ねていった。具材持ち寄りのバーベキューパーティーで二千円もするステーキ肉を何枚も買ってくるとか、お下がりだと言って部室の半分を占拠しそうな大きさの本革のオットマンを持ち込もうとするとか、そういった類のやらかしだ。もちろん件の店のマカロンについても。「せんぱ~い俺本気っすよ~」とか言いながら手渡される、それも薔薇のブーケが添えられた甘ったるい色味の化粧箱を、えるめもさすがに半笑いで受け取っていた。

 なにせ前科が前科なので、明杖は仇原をえるめにまとわりつく悪い虫と認識して警戒していたのだが――。


 明杖が回想に浸っている間に、えるめはえるめで何事かを思い出していたようだった。

「仇原ってあのあれだよね、成金っぽい」

「先輩、言っていいことと悪いことがありますよ」

 直球の悪口が飛び出してきたのをやんわりと訂正し、明杖は村上刑事に向き直った。

「でも実際、あんまりいい話を聞くようなやつじゃなかったです。ええと……遊んでる感じで。ええ。賭け事とか、飲み屋とかも変な店出入りしてるって噂もあったし」


 刑事たちはどうやら上司と部下のようで、篠崎が外で聞き込みをする間に村上が中でえるめと明杖の話を聞くという算段のようだった。さっそく、村上が口火を切った。

「昨日の夜、君たちはどこで何をしていたか教えてもらえるかな。まずそっちの君から」

「一宮です~。昨日は四限のゼミのTAてつだいがあったのでそれが終わってからレンタカーでまきラン……東京の人にわかります? まきばランドパークって遊園地みたいなのが房総の方にあって、そっちに遊びに行きました。ちょうど夜桜イルミやってるんですよ今」

「それを証明できる人は?」

「途中、小里南駅で明杖くん拾って乗せたんでその後はずっと一緒でした」

 明杖は妙に現実感を抱けないまま、ああこれ小説で読んだことのあるやつだ、と妙な感心すら覚えていた。ね~? と水を向けられて、ようやく後を引き継いで話し出す。

「はい、小里南に着いたのが夕方六時くらいで、先輩に拾ってもらってその後は一緒にまきラン回ってたんで」

「小里南に行くまでの間は?」

「ほしい古本があって、ちょうど四限が休講だったので神保町まで探しに行ってました。でも目当てのお店が閉まってたので、本は買えなくて……その後東京駅からアクアライン経由のバスで小里南まで行きました。直通のがあるので」

「向こう出たって言ってたのが五時前くらいだよねえ」

「東京から小里南まで行くならバスの方が基本早いんですけど、渋滞に引っかかるとめちゃくちゃ遅延することもあるから。今回はちょうどよかったですよね」

 ふむふむとうなずいた村上刑事は、続いて証拠品があるか尋ねた。物証があれば、照会手続きのいる防犯カメラ映像を用意するよりも手っ取り早いのだろう。えるめは財布から一枚の細長い紙ぺらを取り出した。

「まきランの入場券と中で撮ったプリクラと~、あっそれと帰りに入ったホテルの領収書も。明杖くん出して」

「先輩プリクラはちょっと」

 確かにランド内で撮ったプリクラにはウォーターマークが入っているが、いわゆるチュープリなのであまり証拠として提出したくはない。それなら領収書の方がまだマシだと、明杖も慌てて財布を探る。言われた通りのものと、それにバスの領収書が出てきた。これで五時から後のアリバイは証明できる――はずだ。一方村上刑事は違うところを気にしたようだった。

「ホテル……君たちふたりで?」

「別におかしいことじゃあないですよ。刑事さんだってラブラブ同居中の彼氏いるでしょ」

 その台詞で村上は鼻白んだが、えるめはそのまま言葉を続ける。

「そのタイピン。ダイヤがふたつも埋めてあるのは自分で買うようなものじゃないし、結婚してるなら普通タイピンよりも指輪を先に買いますよね? でも刑事さんの左手薬指は綺麗だし、旧弊な職場で堂々指輪を着けることがはばかられるような交際関係と言えば不倫・歳の差・性別問わずの事実婚あたり? それで、裏の名前の刻印。S.Iって刑事さん――村上誠警部補さんとは似ても似つかないイニシャルで、タイピンを間違えて着けるほど近しい距離感で暮らしてる……一緒に住んでる男の人にもらったか、交換したかじゃないんじゃないですか。そういえば今頃表で仇原くんの評判でも聞いて回ってるはずの篠崎一朗巡査部長、村上さんと似たようなデザインのタイピンしてましたね! かっこいいな~! ね~明杖くん俺も就活の時ああいうの着けてきたいんだけど、俺たちそろそろ出会って三年じゃない? 記念日だよ?」

「先輩就活する気ないでしょ」

 明杖はえるめの軽口を受け流しつつ、彼の横顔を内心惚れ惚れと眺めていた。つんと尖った小さな鼻先が得意げなのすら愛おしい。えるめの推理はいつ見たって鮮やかだ。彼が口に出したことは、明杖にはそれがたとえどんなに荒唐無稽でも真実になってしまうとすら思える。

 こんなに素敵な先輩と出会えて、自分はなんて幸せ者だろう!


 えるめがぺらぺら話している間中たじたじとしていた村上は、我に返ったように数度咳ばらいをして「私の交友関係のことは今どうでもいいだろう」とごまかした。そこへ篠崎が戻ってきて、村上にタブレットを渡して何事かささやく。なるほど、言われてみれば距離が近いような気もする。密談が終わって、村上は明杖たちへ向き直って「遺体からなくなっていた所持品が発見されたようだ。これに見覚えはあるかな」と画面を見せた。

「あーこれ、仇原の時計と財布」

「ですよね」

「文化祭の時とか見せびらかしてたからよく覚えてるけど……どこで見つかったんですか」

「現金だけ抜かれて、発見現場から少し離れた植え込みに落ちていたそうだ」

 篠崎がいやに丁寧な口調で横から口を出した。嫌な予感がする。

「ええと仲野恵さん、あなたは昨日の午後、東京方面に行っていたんですよね」

「はい」

「仇原くんとあまり仲が良くなかったんじゃないですか」

「……だったとしたらなんですか」

「ちょっとこの後、時間ありますか? もう少し詳しく話を聞きたいんだけど」

 嫌な予感が的中している。明杖は少しかがんで、えるめに耳打ちした。

「先輩これもしかして俺疑われてるんじゃ」

「まあ、だろうねえ」

 でも大丈夫、とえるめは明杖の背中を叩いて、刑事たちに目をやった。

「えるめ先輩に任せなさい」


 もう一回写真を見せてください、と、えるめは若干背伸びをして篠崎のタブレットを奪い取った。

「この時計、それに財布も、よく見たら気付いたことがあるんですよねえ。これ、昔……去年の秋くらい? に見たときとちょっと違うっていうか、多分贋作ですよ。ニセブランド品。ぱっと見本物っぽいけど、よく見ると縫い目が雑だし細かいところのロゴとか変だし、鑑定かけてみたらいいですよ。最近また話題になってましたよね。価値がないってわかったから、現金だけ抜いて捨てたんじゃないですか」

 いや、でも、と篠崎が抵抗する。

「それは……物取りに見せかけて捜査の狙いをずらす狙いも」

「いや、それはおかしいでしょう。少なくとも明杖くんについては、こんな無理な計画を立てる必要がないので当てはまりません。東京駅から小里南に行くなら、使。日本の電車は運行が正確なことで世界的にも有名、それに俺たち地図旅行部で、時刻表だけ見ながら旅程を立てるのなんてお手の物なんだから。もし明杖くんの計画的犯行で、俺のアリバイ証言とまきランの物証を目当てにするなら、わざわざ到着時間が不安定でアリバイがあやふやになるバスを使う理由がないじゃないですか」

 対してえるめは堂々としたもので、立て板に水といった調子で喋り続けた。彼の声は耳に心地よい。明杖がえるめを好いているからというだけではなく、誰が聞いてもきっとそうだ。芸術品のような声音が、とうとうと推理を紡いでいく。

「それに、もし物取りの仕業じゃなくて怨恨が理由だったとしても、例えば――借金が嵩んだとか、逆に賭け事? 裏カジノ? そういうので勝ちすぎたとか、そっちの線から攻めた方がいいんじゃないですか? ああ、もしかしたら使とか」

「確かに、そういうタイプだと思います。他の人にも聞いてみてください」

 明杖も控えめに口をはさむ。とどめにえるめが一言。

「俺たちただの大学生なんで。ちょっと嫌な奴がいたからって時刻表トリックなんか組んで人殺すの、小説の中の人だけですよ」

 哀れな篠崎刑事は今度こそぐうの音も出ないようで、黙ってしまった。彼の肩を村上が軽く叩いて下がらせる。えるめは「後輩を守るのは先輩の義務!」と、語尾に音符記号でも付きそうな口調で口ずさんでいた。

 それで、そういうことになった。


 篠崎は村上に促され、確たる証拠もないのに明杖を犯人扱いしたことを謝罪して帰っていった。「うっかり強く殴りすぎて仇原を殺した物取り」が見つかるかどうかはわからないが、事件はそのうち風化していくだろう。単位はほとんど取り終わっていてちゃんと卒論を書きさえすれば卒業できるはずだし、進路だって希望の研究室の教授とはもう面談を重ねていて好感触で、明杖の人生は疑いなくこの先も悪くないものになる。そういう予感が、明杖の胸の内にはしっかりと存在している。

 アパートへ戻って、昨日の今日でまたえるめと寝た。幾度やっても飽きない情交の後、「明杖くんよく頑張ったねえ、おまわりさん怖かったでしょ」と甘やかされながら、明杖は


 実際のところ、仇原を殺すのは簡単だった。こそこそと忍んでいかなければならないような場所で遊んでいるのが悪いのだ。裏路地の、建物と建物の隙間に突き飛ばして、後ろから殴ったら動かなくなったので適当に着衣を乱して回収すべきものを回収して終わり。しばらく歩きながら適当な植え込みに時計と財布を放り込んで、数枚入っていた現金は封筒に入れて駅のトイレに置いてきたから哀れなサラリーマンの忘れ物とでも思われているはずだ。防犯カメラに映らないように、なんて素人がやるとわざとらしくなるだけだし、大きなマスクだけして途中で何度か服を着替えた。これでも十分にごまかせるはずだという算段があった。三重のビニールに包んだクリスタルトロフィー凶器は、念のためアルコールでふき取ってから今朝がた部室の段ボール箱の一番底へ戻しておいた。あの刑事たちが上手くやってくれれば(そうならないことなど考えられないが)、捜査は物取りの線で進むことになるのだから、もうこの部室は安全地帯だと言ってもいいだろう。

 運任せの部分も多い犯行だったけれど、明杖はちっとも怖くなかった。

 神様がついているのに、しくじることなんてありえない。


 明杖がえるめと初めて出会ったのは、明杖が入学してすぐの新歓コンパだった。えるめは部室に詰まった人の多さとすっかり出来上がった先輩方にひるんでいた明杖を連れ出して、部室棟の外階段に連れていってくれた。春の夜の生暖かい風に吹かれながら、その時にえるめがこっそり教えてくれたのだ。『えるめは仮の、人間の名前で、本当はこう書くんだよ。旅人と計略の神様。今は化身の時期でさあ。研修中的な?』と歌うようにささやきながら、手のひらをなぞって綴りを書いてくれた。肌をなぞる冷たい指先にどぎまぎして正直全然読み取れなかったけれど。『明杖っていい名前だよね。ご両親が考えてつけてくれたんでしょ? ねえ明杖くん、俺の杖になってよ。一生。そしたらずっと守ってあげるから』と口説かれて、もうたまらなかった。その場でキスをした。人生初めての口づけだったけれど、今から思えばあれが契約だったのだ。そうして明杖は、の眷属になった。

 

 昔のことを思い出していたら、「明杖くんベッドで他の男のこと考えるのやめてよね」とえるめがのしかかってきた。小柄なのに体力は十分だ。これも神様パワーなのだろうか? と不思議に思いながらも、明杖はねだられるままにえるめの髪を撫でる。今のは先輩と出会ったときのことを思い出してたんですよ、と言ってやろうかと思ったけれど、その前に口づけられてしまった。身体を擦り寄せられて、指先までもが導かれる。

「ねー思い出してないで他のもの握ってよ、ほら二回戦二回戦♡」

「先輩その下ネタ最低ですよ」

「怒った?」

「俺以外に言わないでくださいね」

 えるめの柔らかな手首に触れれば、これまで考えていたことなど霧散してしまった。願わくば、この先もずっとえるめを支える杖でありたいと思う。一宮えるめは仲野恵明杖の、世界一キュートな先輩かみさまなのだから。

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