ソードテール
増田朋美
ソードテール
いよいよ寒くなって、もう今年も終わりだなという感じが近づいてきたような日であった。道路は車が増えて混雑しているし、新幹線も帰省の客で混雑しているという、時期である。そんな中で、杉ちゃんたちの通っている製鉄所は、何時までも変わらずに過ごしているのであった。
製鉄所と言っても、鉄を作るところではない。ただ居場所がない女性たちが、学校の勉強や、仕事をするための部屋を貸し出している、民間の福祉施設である。製鉄所というのはただ施設名でそう名乗っているだけのことであった。
製鉄所の利用するには、2つの方法がある。自宅から製鉄所に通って、学校の宿題をやったりする人と、製鉄所の部屋を借りる間借りというやり方がある。現在通いで製鉄所を利用している人は女性が3名で、間借りをしてるのは、水穂さんだけであった。
その日も、水穂さんは、布団の上に横になったまま、えらく苦しそうに咳き込んでしまっていた。杉ちゃんも、製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんも、困ってしまって、由紀子に背中を擦ってもらっている水穂さんを眺めていた。
「やれやれ。これでは、正月も消えちまうかなあ。」
杉ちゃんが、でかい声で言った。
「本当はそういうこと言ってはいけないんですけど、こうも毎日咳き込まれていると、そう思ってしまいたくなりますね。」
と、ジョチさんは苦笑いした。
「それにしても、薬は飲むけど、ご飯は全然食べないんだね。それじゃあ、もう窶れた顔で、人間というより、割り箸だ。」
「はい確かにその通りだと思いますよ。本当はご飯を食べてくれたら一番良いんだけど。それに、これから正月になりますから、利用者さんたちもみんな里帰りして、いてくれる人材もいなくなってしまうんですよね。」
「じゃあ、誰か世話をする人を雇わないと駄目だね。」
ジョチさんの言うことに、杉ちゃんは、すぐ言った。
「そうですね。だけど、」
「はい。いくら募集しても集まらないか、来てくれても短期間でやめてしまう。その繰り返しだよな。」
その通りだった。
「ええ。家政婦斡旋所も虱潰しにあたってみましたが、こんな重病の患者さんを見てくれる人なんて、いませんからね。今どきの家政婦さんは、昔みたいに、何でもしてくれるわけではないですからね。」
ジョチさんがそう言うと、
「でも、そういう人を見つけてこなければならないよなあ。」
杉ちゃんは、必要な事実を言った。
「ええ、まあ杉ちゃんがよく言うように、事実に対してどうするかを考えろということなのでしょうが、具体的に動いても、具体的な答えはすぐ出ます。つまり、答えはノーなんですね。どこの家政婦斡旋事務所を探しても、水穂さんのところへ来てくれる人はゼロです。」
ジョチさんはその結果を杉ちゃんに言った。
「だから、なんとかしようとしても、どうにもならないんだよな。文字通り八方塞がりだ。あーあやってくれる人なんてどこにいるんだろうな。」
杉ちゃんにそう言われて、ジョチさんも困った顔をした。それと同時に水穂さんの咳き込んでいる声が、余計に大きく聞こえてきた。由紀子が、本当は毎日来てあげられたら良いのだけれどと言っている声も聞こえてくる。由紀子にしてみれば、駅員のしごとさえなかったら、毎日製鉄所へ来てあげたいものであった。仕事が終わって時間があるときはできる限り水穂さんの側にいてやりたいと思うのだが、最近の岳南鉄道は、前述した通り、富士へ帰省してくる客が増えてくるため、なかなか仕事が終わらないのである。
「由紀子さんもう良いですよ。薬飲ませて休ませてやってください。」
ジョチさんにそう言われて、由紀子は、急いで水穂さんに薬を飲ませた。薬と言っても、柳沢先生が出してくれた薬である。本当は、抗生物質みたいなそういうものがあったら良いのにと思うのだが、まずそれは無理なことは、由紀子も知っている。
水穂さんは、薬をがぶ飲みして、やっと咳き込むのをやめてくれた。それがとまると漢方薬は眠気を催してしまうらしく、水穂さんは、静かに眠りだしてしまうのであった。由紀子は、水穂さんに掛けふとんをかけてやりながら、なんとかならないか考えるのであるが、何も思いつかなかった。
「由紀子さんだって、毎日こちらに来てもらうわけには行かないし。どうしたら良いのでしょうね。まあ病院につれていけば、確実に断られるのは目に見えてますからね。医者も、銘仙の着物着ているのに理解がある医者でないと無理ですから。だから女中さんを募集しても、無理なものは無理なんですよね。」
ジョチさんがみんなの意見をまとめるように言うが、
「でも、水穂さんは、良くなってもらわなければ。」
由紀子はすぐ言った。すると同時に、
「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルのセッションに参りました。」
と、言う声が玄関先から聞こえてきた。
「竹村さん?」
杉ちゃんが言うと、
「ええ、今日の二時から、クリスタルボウルセッションを予約してありましたから参りました。」
と竹村優紀さんは、そう言いながら、製鉄所へ入ってきた。
「ああそうなんだね。来てくれたのはありがたいんだが、あいにく水穂さんは眠ってしまっていて。」
と、杉ちゃんが申し訳無さそうに言うと、
「ああそうですか。他の皆さんも疲れていらっしゃるでしょうから。皆さんに向けて演奏させていただきましょうか。今日はちょうど、弟子の一人に演奏を披露させたいと思ってまして。」
竹村さんはにこやかに言った。
「弟子を取ったのか?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ、彼女です。どうぞ、岩崎さん。」
と竹村さんは、玄関先に向かっていった。竹村さんが指さした先に、一人の女性が、クリスタルボウルを一つ持って立っていた。
「はじめまして、岩崎陽子です。」
女性は、頭を下げる。確かに、女性のようであるが、どこか違うような気がしてしまうのだ。まあ今どきであれば、170センチを越した女性も存在するのであるが、それにしても身長が高い女性だと思った。
「陽子ちゃんは、今年になってから、僕のところに弟子入してくれた方です。演奏をして、人の役に立ちたいって言うことで弟子入りしてくださいました。」
竹村さんはそう彼女を紹介した。杉ちゃんがどうぞと言って中に入らせると、
「今日は寒いですね。ほんと、寒くなりました。今年は夏が暑かったから、冬になったのがなんか奇跡みたいだわ。」
と、陽子さんは急いでクリスタルボウルを、杉ちゃんたちの前へ手早くおいた。その手際の良さも、女性という感じではなさそうだ。
「お前さん、本当は何者だ?」
杉ちゃんが聞く。
「本当に女だった?僕は答えが出るまで質問し続けないとだめな性分でして。」
「杉ちゃんそれはもう良いじゃないですか。有名なバイオリニストだって、元男性だった方はいますし、テレビタレントでもいるじゃないですか。そういう人だっているんですから、もう本当は何だったとか、聞くのはやめましょうよ。」
と、竹村さんが代わりに答えた。
「そうなんだね。そういうことか。まあ、元男性となると、宦官ということになるな。それじゃあ、お前さんのことは、これから宦官と呼ぼう。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そんな歴史上の悪役みたいな人と一緒にしたら可哀想ですよ。」
とジョチさんが言った。
「そうか、それでは、宦官というあだ名はやめておくか。それなら、お前さんのことなんて呼ばうかな。じゃあ、ソードテールはどうだ?あれは、年を取るにつれて、オスがメスに性転換したり、その逆もある魚だから。」
杉ちゃんがそう言うと、
「でも、そういうあだ名を付けたら、なんだか可哀想ですよ。それよりも、陽子ちゃんとか、そういうあだ名にしてあげたほうが良いと思いますけどね。」
ジョチさんは、すぐに言った。
「いえ、ソードテールで結構です。あたしは、どうしても、人為的にそういうことをしたということも、確かですからね。それでは、他の人と違っている人だと見られても仕方ないです。」
と、彼女、岩崎陽子さんは言った。
「そうか。じゃあ、お前さんの演奏を聞かせてもらおう。あんまりクリスタルボウルは強く叩くなよ。患者さんを癒やしてあげる道具なんだから。」
と、杉ちゃんが陽子さんに言うと、陽子さんは、マレットを取って、クリスタルボウルを叩き始めた。
ゴーン、ガーン、ギーン。強い音ではないが、なにか不思議な響きがある音だ。すぐに、体の弱っている人であれば、眠くなってしまうのだろう。演奏が終わってしまうと、なにかフラフラしたような、そんな感覚に陥ってしまう人もいるという。
「ありがとうございました。」
と、陽子さんはマレットをおいた。
「ウン素敵だよ。これからも、そうやって人を癒やしていける演奏ができると良いね。」
杉ちゃんが拍手をすると、みんなも同時に拍手をした。水穂さんは眠ったままであった。
「ありがとうございます。」
陽子さんがそう言うとジョチさんは、急いで、彼女に、5000円札を渡した。彼女はまだ一人前でないから受け取れないといったが、ジョチさんは、持っていってくださいといった。
「いいえ、僕らのお礼として受け取ってください。」
ジョチさんがそう言うと、
「あたし、そういうことでしたら、金ではなくて体で支払いますよ。あたしを、ここで働かせてくれませんか。掃除でも料理でも、何でもやります。だから、ここで働かせてください!」
と、陽子さんは頭を下げた。
「働く?」
ジョチさんは思わずそう返した。
「ええ。あたし、家庭的なことは何でもしますから。お願いします、ここで働かせてください。」
もう一度陽子さんは頭を下げる。
「そうですか。わかりました。そういうことなら、こちらを手伝ってください。それでは、ここに寝ている水穂さんの世話を中心にやってもらいましょうか。ご飯を食べさせたり、憚りを手伝ったり、そういうことをしてもらいます。それでよろしいですか?」
ジョチさんがそう言うと、
「わかりました。じゃああたしが、水穂さんの世話をします。時々、水穂さんにもクリスタルボウルの演奏聞いてもらうということさえお願いできれば何でもやります。ここで働かせてください。」
と、陽子さんは、そういった。そういうわけで、陽子さんが、水穂さんの世話をすることになった。陽子さんは、水穂さんにご飯を食べさせることのほか、憚りの世話も手伝ったし、着物を脱ぎ着させることも手伝った。何も、嫌そうな顔をせずやってくれた。ときには、水穂さんといっしょに、外へ出て、お散歩をすることもよくやってくれた。
その日も、水穂さんと一緒に、縁側へ出て、少しお話をしていたりしていたのであるが、玄関先で杉ちゃんが誰かと言い争っている声がした。
「だからあ、僕らは、預かり所とは違います。精神障害のある人を、収容する施設じゃないんです。そういう用事なら、他の施設をあたってください。」
「どうかお願いします。あたしがどれだけ苦労しているか、その気持が少しでもあるんだったら、娘をここで預かってください。病院に入院しようとさせても、そういうところはいきたくないの一点張りですし。」
杉ちゃんと少し年配の女性は、そう言い合っている声がする。
「この時期になると多いんですよね。パニックとか、精神的な疲労で、病院のお世話になる女性。」
水穂さんはそう言った。
「確かに親御さんの気持ちもわからないわけではないですけど、本当は騙してここに連れてこないでほしいですね。」
不意に、水穂さんと一緒に座っていた、陽子さんが立ち上がった。そして、玄関先に、歩いて行ってしまった。
「だから、ここで預かることはできないから、ほかを当たってあげてください。」
と杉ちゃんが言っているが、陽子さんは、その引き戸をガラッと開けてしまう。そこには、本当に疲労困憊した女性が一人と、後ろでのっぺらぼうのようなかおをしている女性が一人いた。重度の精神障害のある女性が来るときはだいたいこのパターンである。そういう女性が、表情を取り戻すには、医学的なアプローチだけではなく、他のものも必要になる。
「そういうことなら。」
と陽子さんは言った。
「娘さんを邪魔な人間だとか、昔はいい子だったとか、そういうことを言わないで、今のままでいい、それであなたは悪くないと受け止めてあげてから、連れてきてください。」
老婦人は、嫌な顔をする。誰だってそんなことはしたくないだろう。だけど、娘さんにしてみれば、もう、心も体も疲れ切っていて、何もする余裕が無いというのが正直なところである。それと同時に、ひどく苦しいということも確かである。
「嫌な顔するんだったら、まず、お前さんがどこかで話を聞いてもらって、頭を空っぽにすることから始めろ。大丈夫、話を聞いてくれる商売してくれる人は、星の数ほどいるからね。そういう人はネットでも探せる。良い世の中になったもんだ。」
と、杉ちゃんが言った。
「そして、娘さんのお話を聞いてあげられる存在になってあげてください。そうしてから、こういう支援施設の門を叩いてください。」
陽子さんはそうきっぱりというのだった。老婦人は、陽子さんの言葉になにか違うものが感じられたらしい。ちょっと考えたけど、諦めた様子で、
「わかりました、娘と向き合ってみます。」
といい、またのっぺらぼうのようなかおをしている娘さんの手を引いて車に乗り込んでいった。幸い、今の世の中車というものがあるから良いものだ。それがあればどこでも移動できるのである。
「よくやったぜ。お前さんはまさしくソードテールだな。」
と、杉ちゃんが言うと、陽子さんは、
「いいえ、あたしは、ただ、やってほしいことをそのまま言っただけです。こういうことって、いくら相手に伝えようとしても、できないんですよね。」
と言って、水穂さんの世話に戻っていった。確かに、親子なのにと思うほど、話が通じない家族もいる。そういう家族って、なんだかなと思うけど、そういう家族ほど、別れられなかったりするのである。
それから、また数日がたった。もう正月間近で、お飾りや、鏡餅なんかが売られるようになってきた。そんなときに、由紀子は、奇跡的に仕事が早く終了したので、急いで製鉄所へ向かった。由紀子は、車を指定された駐車場に置き、すぐに製鉄所の引き戸を開けると、水穂さんがまた咳き込んでいる声が聞こえた。慌てて、靴を脱いで製鉄所の建物内に飛び込むと、水穂さんは布団に座ったまま咳き込んでいて、それを、陽子さんが、背中を擦って支えてやっているのだった。由紀子は思わず、
「何をやっているのよ!」
と怒鳴ってしまった。陽子さんは冷静な状態のまま、
「水穂さんが咳の発作を起こして苦しそうだったから、私、支えてあげたのよ。」
と言った。でも、由紀子は、なんだかものすごい憎しみの感情が湧き出てしまって、
「本当の女性でも無いくせに!」
と、言ってしまったのだった。陽子さんの目に涙が浮かんだ。それを言われてしまうと、どうにもならなくなってしまうのだろう。陽子さんのしっかりした手が緩んで、水穂さんは、ドサリと畳の上に崩れ落ちた。それを見た杉ちゃんが、
「あーあ、また畳の張替え代がたまんないよ。今年も畳屋さん、商売大繁盛だぜ。」
と、言った。崩れ落ちた水穂さんの口元から、赤い液体が漏れていたからである。
「由紀子さん、怒りっぽいのはいかん。決して、お前さんの下から、水穂さんを取ってしまうことはしないから大丈夫。そんなことで怒鳴り合いはしないでもらいたい。」
杉ちゃんにいわれて由紀子は、確かにすごい指摘なのかもしれないけれど、そのとおりにする気にはなれなかった。なんだか、この女性でも無ければ男性でもない人物に、どうしても嫌悪の情を向けてしまいたくなってしまうのだった。それはもちろん、水穂さんのことが好きだからという理由でもあるし、そういう性別がはっきりしない人物に、水穂さんと取られてしまうのは、なんだか女性として悔しいのだった。だから由紀子は、どうしても、陽子さんに謝る気にはなれなかった。ごめんなさいという気にはなれなかった。
「あたしは、あたしは悪くないわ。それに、この人が、水穂さんのことを好きになってはいけないような気がするの。だって人為的に女性にしてもらったのよ。それなのに。」
「まあ由紀子さんそう思うかもしれないけどさ。でも、他人に対して、嫌悪の情があっても、それを直接ぶつけないってのも、大事なことでもあるんだよな。それに陽子さんは、ちゃんと、自分の考えを持っていて、女性らしい優しい心がある人だ。この間、無断で預けようとした人を、追い出すこともしてくれたんだから。そういうことができるってのは、やっぱり素敵なことだと思うよ。」
杉ちゃんに言われて、陽子さんは、水穂さんが吐き出した血液を雑巾で拭きながらこういうのだった。
「いいえ、由紀子さんに言われても仕方ないわ。そう言われても仕方ないわよ。だから、あたしは、人を好きになっても伝わらないんでしょうね。」
「ということは、ソードテールも水穂さんのことを?」
杉ちゃんがそう言うと、陽子さんは何も答えなかった。でも、杉ちゃんも由紀子も、それ以上のことは何も聞かなかった。こういう問題は、永久に議論しても収まらない問題だから、どっちか片方が、片方を受け入れるしか解決の方法が無い問題なのだ。ちなみに、ソードテールという魚は、熱帯魚の一種であり、雌が年老いたら雄に性転換するという不思議な魚である。だけど、性転換しても、生殖能力は失われてしまうというのだ。人間の場合はどうなのか、そこら辺はまだ道の世界といったところだろう。
「まあ、ソードテールは何時まで立ってもソードテールのままなんだよな。」
と、杉ちゃんは、でかい声でそういうのだった。由紀子はまだ納得できない様子であったが、でも、彼女のことを、受け入れなければならないなという気持ちは持って、そうねと小さく頷いた。水穂さんの方は、床に投げ出されても咳き込んでいたので、陽子さんがまた彼を介抱していたのであった。
ソードテール 増田朋美 @masubuchi4996
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