3 迷子
オルド解放連合のアジトから逃げ出したティロは子犬を抱えて、一目散に街のほうへ戻ってきた。
(あっぶねー……)
高鳴る胸の鼓動を押さえようと、ティロは大きく息を吸い込んだ。
「ごめんな、怖い思いをさせて」
子犬と一緒に、ティロの足も震えていた。
「少し休もうか、ちょっと疲れたよ」
ティロは路地裏に入ると物陰を見つけて、子犬と一緒に座り込んだ。
「へへ、でも久しぶりにエディアの型出せたな……誰かと手合わせするのは楽しいんだぞ」
子犬は不思議そうな顔をして、ティロを覗き込んだ。
「オルドの型も教えてもらったけど、やっぱりちゃんと剣技をしている人から教わりたいな。さっきの人たちなら教えてくれると思うけど、今の俺には教えてくれないだろうな」
子犬に話しかけるティロの声に震えが混ざる。
「俺のこと心配してくれたのか? あのくらい平気だ。もっともっと、嫌な目には何度も何度もあってきたから。命令違反のことだって、特務にいけなかったことだって……」
声の震えはだんだん大きくなり、ティロがついにその先を告げることはなかった。
「だけど、俺は姉さんと約束したんだ。エディアの血を絶やすなって。だから一生懸命生きないといけないんだ」
ティロが首から提げている認識票には「ティロ・キアン」と名前が記されていた。キアンとはリィア軍において名字のわからない捨て子に対して便宜的に与えられる名前であった。ついでに、ティロという名前も成り行きで名乗った偽名であり本来の彼の名前ではなかった。
そしてもうひとつ、ティロの首には女物の指輪が革紐で厳重に下げられていた。その指輪は、彼の母である亡きエディア第三王女アリア・エディア・カランの形見として姉から受け継いだものであった。
10年ほど前にエディア王家及びそれに連なる一族は全員リィア軍によって処刑されていた。その時、国内の混乱に紛れて彼と姉は国外へ脱出しようとした。しかし脱出は失敗に終わり、姉は命を落とした。そして幼かった彼だけが唯一生き残り、全てを偽って生きているのがティロ・キアンという男であった。
「でもさあ、本当にどうすればいいんだろう。このまま俺は、一生山の中で暮らさないといけないのかな……?」
ティロの頭の中には、常にエディアの港が広がっていた。広大な海の向こうから大きな船がいくつもやってきて、たくさんの積み荷のやりとりをしていた。そこで暮らす人々を守るためにエディアでは剣技が盛んに行われていて、ティロも本来であれば王族の護衛として、またエディア軍を背負う者として生きていくはずだった。
剣技に関しても、リィア軍で一からリィアの型を利き手ではない左手で修めていた。元から剣技は大好きだったのでリィアの型を覚えることに苦はなかったが、祖父や父から受け継いだエディアの型をなかったことにするのは心が痛んだ。そしていつも「もしエディアで剣技を続けていたら」と夢想せずにはいられなかった。
失われた未来を想像しても詮無いことではあったが、それでもティロはたまに「本当の自分」というものについて考え込んでいた。その自分は間違いなく先ほどのように反乱を企てる者たちに惨めに引きずり倒されたりしないし、リィア軍の特務であったならその場にいたものたちに容赦なく剣を浴びせて即座に逮捕したりしていただろう。
「……もういい、やめよ」
ティロは子犬を下ろすと、懐から煙草を取り出して火をつける。嫌なことを思い出しても、煙草は一瞬全てを忘れさせてくれる。これに酒が入ると更に深く嫌なことを洗い流してくれる。痛み止め、興奮剤、そして睡眠薬。これらがないと、ティロはもう生きていける気がしなかった。
「ごめんなあ、こんなろくでもないクズで」
ティロは子犬に話しかけたが、子犬に謝ったつもりはなかった。いつも生きていて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「本当に……さっさと死ねばいいんだ」
エディアの型を披露したことで、昔のことがどうしても思い出されて仕方なかった。こうなると煙草の効果よりも昔の記憶のほうがどんどん勝手に湧き上がってきて、余計に辛くなる。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
かつて姉がしてくれたように、ティロは肩を抱いて辛さに耐えた。そこにそっと寄り添うものがいた。
「なんだ、本当に心配してくれるのか。ダメだぞ、お前はこんなクズになるなよ……」
急に動かなくなったティロを心配した子犬が、ティロの足下に蹲った。
「参ったな、コールまで戻るなら今日中に戻らないといけないんだけどな……」
すっかり子犬に情が移ったティロは、このままコール村まで子犬を連れて帰れないか思案する。子犬を抱いて危険な近道は通れないため、正規の山道を登るなら早めに村に戻る必要があった。
「街をもう一回りして、それでも飼い主が見つからなかったら一緒にコールに行こう、な?」
子犬はティロの足下で小さく欠伸をした。それを見て、少しだけティロは前を向く気になった。
***
その後、夕方までティロは子犬を抱えて街を歩き回ったが、飼い主らしい人には巡り会えなかった。
「仕方ない、俺と一緒に来るか?」
子犬はすっかりティロに懐いていた。ティロはこのまま置き去りにするより、コール村へ一緒に来た方が子犬のためになると思った。
「名前は……帰ったらターリーの奴にでも考えてもらおう」
そう言ってティロがコール村への道を目指そうとしたとき、見覚えのある白と黒の斑をもった犬が走ってきた。
「キノ! キノ!」
犬の後から、14歳くらいの少女も駆けてきた。子犬はティロの腕から逃れると一目散に犬に駆け寄り、尻尾を振って顔を舐めた。少女は子犬を抱き上げた。
「ああよかった、心配していたのよ」
それから少女は、ティロに向かって頭を下げた。
「キノを助けてくださったんですね、ありがとうございます」
「いや、俺はただ……何もしてません」
「いいえ、この子すごく怖がりなんです。こんなに人に懐いているのを見たことがないんです。本当に犬がお好きなんですね」
「そ、そうかもしれません……」
それから少女はキノと呼んだ子犬を抱いて、親犬を連れて去って行った。後に残されたティロは、さっきまで温かかった腕のぬくもりを思い出していた。
「よかったじゃないか。家に帰れて、名前で呼んでもらえて」
ティロは精一杯キノの幸せを願った。そうしないと、キノが羨ましくて仕方なかった。そのままティロは街へ戻ると、最初に煙草を買った店に行った。
「やっぱりさっきの」
「なんだ、やっぱり戻ってきたんじゃないか。薄いのは嫌いなんじゃなかったのか?」
店主はにやにやと先ほどの薬包をティロに渡した。
「これじゃない。後ろにあるんだろう?」
ティロが倍の金額を出すと、店主はやれやれと首を振り奥へ引っ込んだ。
「そこまでされると敵わないな、今回だけだぞ」
店主が持ってきた薬包には、混じりけなしの痛み止めが入っていた。ひったくるように薬包を掴んだティロは人目につかない場所を探した。
本当は誰かに見つけてほしかった。しかし、探し出されると殺されてしまう。
相反する気持ちを抱えて、ティロは暗くなる街を彷徨った。夜は暗くて怖くて嫌いだった。でも、昼間明るい場所にいるのも見つかってしまいそうで怖かった。だから怖くなくなる薬が必要だった。
次の日、ティロはひとりでコール村に戻った。コール村では相変わらずティロは「リィアの兄さん」として扱われ、彼の本当の名前を呼ぶ者はなかった。
迷子の犬が家に帰るのは、それからずっとずっと後の話である。
〈了〉
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