第3話 ママが娘で娘が義母で
生まれてからしばらく経った。
乳母やメイドに抱っこされていれば与えられたおもちゃをいじくり回せるようになったものの、一人でお座りや立っちはまだ難しい、そんな頃合いである。
赤ちゃんの体感時間ではもう何年も過ぎたくらいの感覚で、その分考える時間はたっぷりとあった、ような感じがする。
相変わらずアーデルハイドちゃんの両親は、会いにこない。
前世で読んだ漫画で齧った知識からこれは政略結婚の両親の間に生まれた挙句の後継ぎにもならない女児で、愛されていない上に微妙な立場コースなのかとハラハラしたり、その不安に喚起されてふえんふえんと泣いてはメイドにあやされたり、何が出来るわけでもないので心配しても仕方がないかと達観したりして過ごす数か月だった。
そうして今日もメイドたちに構われる、これといって変化のない一日になるかと思っていたのだけれど、にわかに部屋の外が騒がしくなったのに、ベビーベッドに横たわっていた私は視線をドアの方に向けた。
メイドたちも戸惑っているようで、メイドの中でも年長のテレサが様子を見て来ると告げ、部屋を出る。
そこからさらに数分、揉めるような声が聞こえていたけれど、やがて両開きの扉が大きく開いて、テレサが少し後ろに控えて女性が入って来た。
「お妃様!?」
「ようこそ、おいで下さいました」
乳母のマーゴが私を抱いたまま、他のメイドは両手を前で組んで、深く頭を垂れる。その所作はとても綺麗なものだ。
普段は赤ちゃん可愛い~姫様プリティ~とのほほんとしているメイドたちだけれど、王宮に仕えている彼女たち自身もやんごとない家の出身のお嬢様ばかりなのだと納得させられた。
「かしこまらなくていいの。あの、どうか私の娘に、会わせてくださいな」
抱っこされたままお辞儀されると、体勢が不安定で心元ないのでマーゴが顔を上げてくれて助かった。ふにゃふにゃの手でふぅー、と汗を拭うしぐさをして、ふと、その鈴の転がるような、春の鳥が唄うような、高く甘い声色に気が付いて体が強張る。
人間の記憶は聴覚の情報が真っ先に失われるのだと、前世で聞いたことがある。
でも、何度生まれ変わっても、この声だけは忘れることは出来ないだろう。
「ああ、アーデルハイド、私の赤ちゃん。前に見た時はくしゃくしゃだったのに、こんなに可愛くなって……」
「んまぁ……」
「ええ、あなたのママよ。抱っこさせて。ね? どうか泣かないでね」
マーゴはとても戸惑っている様子だったけれど、母親が差し出す腕に子供を抱かせないという選択はなかったらしい。
慎重に手渡された腕はマーゴのものより細くて、赤ちゃんを抱くのにちっとも慣れていなくて、頼りないものだった。
けれどそんな危なっかしさは、慈愛を込めた透明な青い瞳の前ではどうでもよくなる。
バラ色の唇も、けぶるようにまぶたを縁取る長いまつ毛も、目が大きい割には甘く垂れていて、儚げな中にどこか妖艶さが混じる顔立ちも、全部「私」がよく知っている人だった。
彼女は私を見下ろして、宝石のような瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「ああ、可愛いわ。これまで会いに来れなくて、ごめんなさいね。悪いママを、どうか許してね」
不安げな声が可哀想で、泣かないでほしくて思わず手を伸ばす。自分でも悲しくなるくらい短い手は初めてちゃんと見たママに……娘に届かなかった。
「んあぁ……」
私の可愛い娘。
可愛い可愛いラプンツェル。
どうしてあなた、泣いているの?
* * *
アーデルハイドちゃんと離れたがらない王弟妃を侍女と侍従が総出で宥めすかし、ようやくマーゴの手を経由してベビーベッドに戻ったのはすっかりその日のお昼寝の時間を通り過ぎた後だった。
赤ちゃんの体はうっすら眠いか、滅茶苦茶眠いかのどちらかで、眠気に抵抗出来るものでもないと思っていたけれど、今日は赤ちゃんなりに興奮物質がバンバン出ていたらしい。ラプンツェルと一緒にいた時はえ? ほんとに? ほんとに娘? とまじまじとその顔を見るのに忙しくて、眠気なんてこれっぽっちも感じなかった。
「アーデルハイド様。おねむはいいんですか? お乳を飲みますか?」
乳母のマーゴの言葉は素知らぬふりでスルーする。段々発声も良くなってきて声を出せるようにはなったものの、周りの言葉に反応して意思表示するには月齢が早すぎるだろうという私なりの配慮である。
とはいえ、前世の私は就職したばかりのバリバリの若い女性で赤ちゃんがどれくらいからどんな反応をするのか詳しいわけではないし、人が呼び掛けても無視するのが当たり前なんて変な癖がついても困るので、早くもうちょっと成長したいなあと思っているところだ。
前の人生では、人間の生活なんて全然分からないところから始めたから、ある意味楽だった。といっても、大人になってからも両親は、お前は早熟で、すわ天才が生まれたと親族中で大賑わいだったんだぞとイジってくるくらいだったので、一般的な赤ん坊とは言い難かったのだろう。
王族の姫君で天才認定なんて、後で絶対に面倒なことになると分かり切っているので、そこのところの印象は適当にぼかしていきたい気持ちである。
意味なくにぎにぎしている自分の手に視線を向けていると、お乳を欲しがっていないのは分かったらしく、再びベビーベッドに寝かされて、毛布でくるくると巻かれる。そうすると赤ちゃんの本能には逆らえず、どんどん眠たくなってきた。
でも、眠ったら、全部夢になってしまうかもしれないと思うと、眠りたくなかった。
だって今日、私はあれほど愛しくて、申し訳なくて、幸せを祈ることしか出来なかった娘と再会したのだ。
もう二度と会えないと思っていた。
魔女は死んで、全然違う世界に生まれ変わって、そこで人間として平凡に暮らして就職して、ちょっとしたミスにくよくよしたり家族と喧嘩してへこんだり、そんな風に暮らしていたのだ。
娘が別の世界で幸せに生きていて欲しいと願ってはいたけれど、まさかこんな風に再会するなんて。
別れた時はまだ幼さが残るような顔立ちだったのに、娘はすっかり大人になっていた。元々持っていた溌剌とした雰囲気はすっかりなくなって、綺麗な大人の女性になっていたけれど、波打つ金髪の美しさは相変わらずだ。
うん、隣の家のおかみさんに物凄くよく似ている。
あのおかみさんも平民なのにやたらと美人で、旦那さんは身ごもったおかみさんのために恐ろしい魔女の庭に侵入するくらい、おかみさんを溺愛していた。
魔女の庭は、魔女にとっては心臓と同等で、命をつなぐための大切な場所だ。
魔女はある日、命を与えてくれるなんらかの物質からこぼれ落ちるように生まれて来る。前世の私の場合、雨露が滴り落ちて、ある日気が付くと世界に生れ落ちていた。
魔女は生まれた瞬間から大人で、強い魔力と自我を持ち、生きる術を知っている存在だ。
人間とほとんど同じ姿をしているのにこんなふにゃふにゃで一人で生きていけない状態を経由しないので、人間社会については疎いし、正直あまり興味も持てない。それが魔女というものだ。
千年二千年と生きる間に人を愛する魔女も、逆に一国を呪って崩壊させる魔女もいるけれど、「私」は人間の近くで暮らしながら人間には興味がない、そんな中途半端な魔女だった。
生れ落ちた大木から分身を貰って住み着く土地に植え、大木の分身を通して地脈にアクセスし、自分のテリトリーに力を持つ植物を植えて豊かに育てることで魔女の魔力は安定して供給される。
人間のように食事をせず、庭で作った薬草や木の実だけを時折口にするけれど、ぶっちゃけ食べる必要すらない。育てた植物がそこに活き活きと生えているだけで魔女には力が流れ込んでくるから、野菜や薬草ではなく薔薇や果樹を植える魔女もいれば、雑草だらけにしている魔女もいて、そこら辺は様々だ。
だから、庭で育てている薬草や作物をむやみに引っこ抜かれるのは、本当に困るのだ。人間でいうならちょっと大きめの血管を雑に切られましたくらいに困る。
命にかかわることは滅多になくても絶対に大丈夫というわけでもなく、特に命脈を貰った大樹の分身に手を出されたら、切り所が悪かったら最悪の結果になるかもくらい、重大な問題だった。
娘を引き取るのに隣の夫婦に開け渡した
魔女にとって庭に盗みに入られるのは、隣の夫婦なんだから菜っ葉くらい快く分けてやればいいじゃないかという問題ではないのだ。
当然私は怒った。怒る権利はあったと今でも思う。
でも、娘を寄越せと言って実行までしたことに関しては、今の感覚では行き過ぎだったというのも、分かってしまう。
そうして手に入れた娘は、本当に可愛くて、あっという間に「私」は娘に夢中になった。
隣のおかみさんみたいに我儘じゃないし、いやらしい目で「私」の畑を見たりしない。無邪気で可愛くて優しい自慢の娘だった。
魔女の世界は、本当に狭かったのだと今は分かる。
大人の姿で生まれて、自我を得た瞬間から一人で生きていくことが出来て、何を恐れる必要もない強い魔力を持って、人間が当たり前に営む生活を必要としないのだから、ものすごく世間知らずだったのだと、一度人間の暮らしを経験してみて、しみじみと思う。
弱さを知らない者は強さだって分かっていない。魔女はそういうことにとても無関心だったし、総じて魔女とはそういうものだ。
ともあれ、今世の私のママはかつての愛娘らしい。ということは、あのこそこそと大事な塔に出入りして人の大切な娘に手を出した男は、この国の王子だったのだろう。
出先で美人を見かけてふらふらと手を出して、揚げ句に塔から身投げする王子とは、しみじみ、世も末である。
どうか奇跡が起きて二人が再会して幸せに暮らしていて欲しいなんて殊勝に祈っていたはずなのに、やつれた様子の娘を見ればあの男は何をしているんだとイライラもする。
娘とこんな形で再会することになるとは思っていなかったけれど、喜び半分、あれが娘婿で、かつアーデルハイドちゃんのパパで……この体に半分その血が流れているというのは、なんとも複雑な気分だった。
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