第2話 三度目の人生はお姫様

 始まりは終わりと同じで、暗かった。


 周りの音も人がたくさんいるとか、今は静かだとか分かる程度で、音は何だかわんわんと響いて聞こえるし、目を開けても輪郭がぼやけて白黒で、視界に色らしい色はない。


 これは初めてではなかったので、ああ、自分はまた別の誰かに生まれたのだろうと妙に納得した。


 未成熟な肉体に影響されているのだろう、最初の頃は視覚や聴覚と同じく意識もどこか薄らぼんやりとしていて、とにかく眠く、実際一日の大半を眠り続けていた。お腹がすいたら反射的に泣いてしまうし、お乳が来たら無我夢中で吸い付き、腹が膨れてげっぷをしたらまぶたが重たくなって、またすやすやと眠ってしまう。そんな日々が恐ろしく長く続いたように思う。


 そうした日々を過ごしているうちに、段々聞こえる言葉がはっきりとし始めてきて、言葉が理解できることに気が付いた。


 これは魔女だった頃に使っていた世界の共用語だ。中央大陸はこの言語で統一されていて、周辺国も多少の訛りが混じるとはいえ、概ね通用する言語である。


 周りを行き来する人々の言葉はそうした訛りのない、かつ上級貴族や使用人が使うような丁寧な言葉なので、それなりに身分の高い立場に生まれたのだろう。


 次に視界に赤色や緑色が混じり始めて、少しずつ視野も広くなっていった。


 今は一番近くにいるのが乳母のマーゴで、おむつや体を拭く世話をしているのが専属のメイドだ。メイドは四人いて、それぞれテレサ、サラサ、カミラ、エリナと呼び合っている。全員三文字で似たような語感なので、赤ん坊の頭では中々覚えられなかった。


 魔女の頃には人間の生活や習慣なんてこれっぽっちも理解出来なかったけれど、前世でごく一般的な平民として生まれ育った経験から鑑みるに、赤ん坊一人に四人もメイドが付いているのは相当な待遇なのではないだろうか。


 体を包む肌着はシルクだし、ベッドにはふわふわの綿が厚く詰め込まれている。乳母もメイドも甘ったるく話しかけてきて世話は手厚く、ふええ、と気の抜けた鳴き声を上げればそれがいついかなる時でも誰かが飛んできた。


 どうも今回は、相当な高位貴族に生まれてしまったらしい。


 正直元魔女としても元一般人の成人女性としても、かなり荷が重い。


 魔女だった頃は人間の営みそのものに疎かったし、その次は本当に平凡な暮らしをしていたのだ。貴族の生活なんて全然想像がつかないし、本を頭に乗せて歩く練習をしたり、成長したらコルセットをぎゅうぎゅうに締めるのかななんて、漫画で見たようなイメージしかない。


 とはいえ、前世では魔女の記憶はあっても魔法のひとつも使えなかったし、何より母親のお腹から生れ落ちた。今世もどうやらそうらしいし、意識は「私」でも、生まれる世界も立場もランダムなのだろう。


 意味もなくふわふわと宙に掲げている自分のちいさな手を見ながら、そんなことを考えたりする。


 どんな環境でもそれなりに生きていくしかない。そう思うと眠気が襲ってきて、ふにゃふにゃと眠りに就いた。

 赤ちゃんはとにかく眠い。すごく眠いのだ。


 この先どうなるかなんて分からないけれど、平民だろうと貴族だろうと赤ん坊に義務はない。若いほど体感時間は長いというし、ひとまず食っちゃ寝のモラトリアムを、今は過ごすことしかできなかった。




   * * *


「アーデルハイド姫様、今日もお可愛らしいですね」

「あー」

「ぱっちりとしたおめめは殿下によく似ておいでですね。でも、瞳の色は妃殿下にそっくり」

「うぁー」

「将来は国を揺るがす美姫におなりですわね」

「んあー」


 赤ん坊のいいところは、適当に返事をしていても周りが勝手にデレデレとしてくれるところだろう。


 実際のところ、言われている内容にはまあまあ怯んでいるのだけれど、適当に相槌を打ちながら別のことを考えるのに、赤ん坊ほどうってつけの存在はないかもしれない。


 殿下、妃殿下、その言葉の意味するものがなんなのかは明白だ。つまり今世の私は、貴族どころか王族に生まれてしまったらしい。


 どうりで時代を感じさせる古めかしいデザインのドレスを着ているメイドたちとともに、天井に物々しい宗教画らしきものが描かれていたり、肌着が絹だったり、枕が羽毛枕だったりするわけね。


 漏れ聞こえる話から総合して判断すると、王様の子供というわけではなさそうだけれど、姫様と呼ばれるとはアーデルハイドちゃんのパパは、大分そこに近い位置にいるのではないだろうか。


 姫様と呼ばれるようになってから随分過ぎたような気がしているけれど、おそらくまだ数か月というところだろう。ようやく首が座ったので三カ月から四か月、精々そのあたりのはずだ。


「ふええ……」

「あらあら、姫様、おしめですか? あら、濡れていないわね」

「お乳は先ほど飲んだばかりですね。お鼻がお痒いですか?」


 弟はどうだったっけ……そう考えるとしんみりして、感情のままに泣き出してしまう。赤ちゃんの体はすごい。理性なんて紙のようにぺらぺらで、感情も生理現象も、ほんのちょっとも我慢できない。


 ひとしきり泣いて、メイドたちにあやされているうちに、泣き疲れてまたウトウトしてしまう。


 生まれ変わったばかりで前世の感覚がまだまだ強く、突然終わった人生に未練はたっぷりとある。やりかけの仕事は大変だけど好きで就いた仕事でやりがいのあるものだった。


 家族にさよならも言えなかったし、特に母につまらない意地を張ってごめんなさいと伝えることが出来ないのは、大きな未練だ。


 でも、思い出すたびにこうやって泣いてはあやしてもらっているのも、なんだか申し訳ない。自分の機嫌は出来るだけ自分で取るべきだと二十代の会社員だった「私」は思っている。まして相手が赤の他人なら、なおさらだ。


 悲しい気持ちは忘れて、もう寝てしまおう。そう思ってうつらうつらしていると、メイドたちは安心したように私をベッドに横たわらせて、ふかふかの毛布を掛けてくれた。

 ふにゃふにゃと眠りに落ちかけている私を見下ろして、メイドたちの声が聞こえて来る。


「殿下も妃殿下も、今日も姫様の元にお通いにならないのですね」

「今のところ、アーデルハイド様に困ったところがないので、安心していらっしゃるのでしょう」

「こんなにお可愛らしい姫君なのに、毎日お会いしたいとは思わないのかしら」

「これ、滅多なことを言うものではありません。――お二方とも、お忙しいのですよ」


 そう、生まれて数か月過ぎるというのに私ことアーデルハイドちゃんの両親と、実はまだ会ったことがないのである。


 正確には生まれた直後に父とは会ったらしいし、母だってへその緒が切れるまで文字通り一緒にいたわけなので一度も会っていないというわけではないのだけれど、何しろその時の私は耳も目も上手く働かない生まれたてのふにゃふにゃだった。周りに人がいるなーとか静かだなー程度のことしか分からなかったので、その気配のどれが今世のパパとママなのか、区別がつくはずもない。


 アーデルハイドちゃんは、きちんと大事にされていると思う。


 乳母やメイドの態度がそれを物語っているし、用意される部屋もおくるみも上等なものだ。


 少なくともあからさまに冷遇されているわけではないだろう。


 でも両親に可愛がられているかというと、雲行きが怪しい気がするから困ったものだ。


「両殿下がいつお通いになってもいいよう、万全の体制を整えておきましょう。姫君はこんなにお可愛らしいのだもの、お会いになればすぐに夢中になられますよ」


 乳母の力強い言葉に、メイドたちもそれぞれ頷いているのをベビーベッドの中から薄目で見上げる。


 うん、是非そうなってほしい。子供は親に可愛がられてなんぼだし、不自由なく育てられても愛情を与えられなければ、成長の過程で情緒がちゃんと育たないと前世で聞いたこともある。


 アーデルハイドちゃんには会社員も魔女も記憶として入っているので、一般的な姫君として教育を受けたとしても最終的にどんな自我が完成するのかだいぶ怪しいけれど、人間嫌いで人間のことを何も知らなかった魔女が中にいても、前世の私は普通の子供時代を経て大人になったので、きっとなんとかなるだろう。


 なんともならなくとも、生きている限りは生きていかねばならないのが人生というものだ。


 0歳児が思うには達観したことを想いながら、今日も健やかに成長していくため、アーデルハイドちゃんは眠りに就くのである。

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