第4話 偶然
「真悠(まゆ)、真悠……」
和也は、薄暗い寝室でダブルベッドの片方に横たわる痩せ細った女性の額を撫でる。髑髏の目の形が浮き出て、半開きになった目からはほんの少しの涙が浮かび上がっていた。
口元には水色の半透明の酸素マスクが取り付けられ、胸は浅くて早い呼吸を繰り返していた。
「かず……くん……。どこ?」
「俺はここだよ、真悠……」
意識が朦朧としていてほとんど目が見えていないのか、弱った力で顔を左右にゆっくり動かして和也を探していた。僅かに聞こえた彼の声を頼りに、ようやく彼の顔を見つけることができたのか、安堵の笑みを見せていた。
「元気……ないよ? かずくん……。ダメ……。私の前で……そんな……顔、しちゃ……」
泣きそうになるのを堪え、眉間に皺が寄る彼の表情が朧気ながらも見えたのだろうか。もうすぐで彼女の命の灯火は消える。その瞬間を見届けてあげたかった。だが、それは叶わなかった。
『プルルルルル、プルルルルル』
リビングに備え付けられた電話の着信音が、寝室に響いてきた。この日は、大事な撮影の仕事に出向かなければならなかった。
「行って……。大丈夫……。帰りに……プリン、買ってほしい……」
「うん…‥買って帰るから。行ってくるよ」
彼女の家族から亡くなったと連絡が来たのは、そのやりとりから僅か三時間後だった。仕事中は真悠の母親が自宅に来て面倒を見ていた。彼は彼女の旅立ちの瞬間を見守ってやれなかった。そして彼女も、その時に大事な人が側にいてくれなかったことを悔やんでいるのだろうか。
「今年もありがとうね……。和也さん。真悠も喜んでるはずよ」
仏壇の前に手を合わせる和也の姿があった。もちろん、彼女の顔が分かる遺影はない。真悠の実家は、出会った時から度々お邪魔していたが、数週間前に真悠の父親も心筋梗塞で亡くなった。
声をかけてきた真悠の母も、もう七十を超える高齢で最近は足腰を痛めてしまい盆の墓参りに行けていなかった。今日は義母の代わりに墓の掃除に行く。先週起きたあの出来事はまだ話さないでおこうと決心していた。
「あ、そういえばねぇ。昨日、また変なことがあってね。普通にご飯の支度をしてたら『ただいま、お母さん』って。でも、玄関見ても誰もいないのよ。真悠の声にそっくりだった。もしかしたら、盆休みだから帰ってきてるのかもねぇ」
「もしかしたら、帰ってきてるかもしれないですね」
義母は声を漏らしながら笑った。昔から義母はこういう体験をすることがあった。霊感が強いのか分からないが、子供の頃から見えないものが見えたり、存在しないはずの声が聞こえるということがあったそうだ。だが、和也はそういうものを信じられる性格ではなかったため、軽く聞き流していた。
「僕、そろそろ行ってきますけど、何か欲しいものはないですか?」
「そうねぇ……。甘いものが食べたいかしら。洋菓子がいいわ。真悠にもあげたいから、そうね、好きだったプリンがいいかも」
「分かりました。じゃあ、行ってきます」
プリン。彼女に最後に食べさせてあげることができなかった。それを見る度に、あの彼女の顔が思い浮かぶ。あの日も、楽しみにして待っていたのだろう。外食に行けば、どこへ行こうとその店のプリンを注文する。コンビニに行くと言ったら必ずプリンを頼む。だが、きっと仏になったら、その甘い香りと柔らかな食感を二度と堪能することはないのだろう。
和也は実家の玄関を出て大きなため息をついた。墓参り以外にも、やることが山積みであった。ほとんど仕事がもらえず、二日前についに家賃滞納の手紙が届いてしまった。払える見込みがないのならもう出て行くしかない。思い出が詰まったあの家を離れるのは、どうにも気が引けてしまう。
いつから自分の人生は崩れ落ちてしまったのだろうか。どうして、何年経ってもこの喪失感から立ち直ることができないのだろうか。考える度に苦い胃液が喉奥を突き具合が悪くなる。
車のエンジンをかけていつものように妻の写真を確認していた。花柄のワンピースを着た妻の姿はもう消えていた。現れた時はゾッとしたものの、消えてしまうとなぜだか物悲しくなるのは何故だろうか。
「真悠……もう、出てこないの?」
気がつけば彼女がいた場所を指で軽く撫でて、彼女が来るのを待っていた。時間など考えもせず、こうして待っていればいつか現れるのではないだろうかと、あるはずもない可能性に賭けている自分を情けなく感じた。
我に帰り、急いで車を発進させる。早くしないと日が暮れてしまう。夕暮れの墓参りは良くないと義母から教えてもらっていた。
墓地へは二十分ぐらいで到着した。ちょうど墓参りを済ませた年配の女性と寺の入り口ですれ違った。年期の入った小汚い着物を着た女性は、顔を俯かせたまま手桶も持たずに手ぶらで出て行った。手桶が置かれている場所は出入り口付近にあり、何も持たないで墓地から出てくる人がいるのは珍しかったのだ。
──流石に花ぐらいは持って行っただろうな。
偶々持っていなかっただけだと思い、気にもせず手桶に水を入れた後墓地の入り口にやってきた。真悠の墓は寺の大分奥にあった。墓地の終点地、ちょうど角になる部分に佇んでいた。
「久しぶり、真悠。元気か?」
和也は手桶に入った水を手ですくいあげ、そっと墓石にかけてあげた。
「冷たくないか? 最近暑いからなぁ~。はい、お水だよ」
ガラスのコップは枯れていた。落ち葉が入っていたので、軽く濯ぎ、新しい水に入れ替えた。
「なぁ、真悠。言いたいことがあったら、言いに来ていいんだよ。いつでも待ってるから。あの日、僕に何をして欲しかったの? どうしてあの写真に出てきたりなんかしたの? あと、なんで悠子って名前を……」
『コツ、コツ』
彼の背後からハイヒールのような足音がした。誰かが自分の後ろに近づいてくるのを感じる。気配が段々と近くなり濃くなっていく。思わず固唾を飲み込んだ。振り向くにも体が恐怖で縮こまってできなかった。
「あの、真悠さんのお知り合い……ですか?」
見知らぬ女性の声。誰だろうか。今まで聞いたこともない声質。一度聞いただけで全ての異性が虜になりそうな高く滑らかな甘い声。だが、和也にとっては二人だけの時間に邪魔者が入ったとしか思えなかった。義母は自分以外の誰かが墓参りに来るなんて言ってなかったはずだ。
ゆっくりと振り返ると、黄色の花柄のワンピースを着た茶髪ロングヘアの見知らぬ女がそこに立っていた。初対面のはずなのに既視感がある。このワンピースに見覚えがある。顔は真悠と似てもいないが、やはり顔のパーツは整っていた。真悠よりも少し掘りが深く、二重で若干垂れ目、茶色い瞳をしていた。そして彼女から漂う甘い香り。その服装と香水の匂いは、自ずとあの日に出会った悠子を連想させる。
「あ、ええ……。真悠の夫です。えっと、今まで会ったことないですよね? 真悠とどういう関係で?」
「実は私、真悠さんと完全に血の繋がってる姉妹じゃないんです。腹違いで……。こんな事言っても信じてくれるか分かりませんが……。実の母が、真悠さんの父と再婚したんです。でも、小さい頃から両親は喧嘩ばかりして……。父は家を出ちゃって……戻ってこなくなって。前妻のところに戻ったと聞いて、結局何も言えずに……。実の母も、二年前に病死しました。生きてる頃は言いづらかったけど、祖父母もいなくて、私には身内がいないんです。だから、もしかしたら父が前妻の住所を持ってるかもしれないと思って。あまり覚えてないけど、父は私には優しくしてくれた記憶があるんです。もっと父のことが知りたくて、ずっと探してたんです。数年前に真悠さんのお母さんから連絡をいただいて、是非会いたいって。そこで、亡くなった姉がいるって知って、でも、気まずくてなかなか行けなかったんです。だから、今回は真悠さんのお墓参りだけでもと……。すみません、もし迷惑なら帰ります……」
「待って」
咄嗟に彼女の手を引っ張ってしまった。その手の甲には、擦り傷があった。確か、悠子の手にも似たような傷があったはずだ。
「ごめんなさい。あの、名前は……なんて言うんですか?」
「『石嶋悠子』です……」
一言一句聞き逃さなかった。あの日見たのは、妻の顔をした彼女の夢。あれは真悠じゃなかったのだ。だが、何故あんな夢を見せられたのだろうか。真悠とこの女性に何か関係があるのは知っている。
「前にもこの町に来たことがあったりします?」
「え? ええ、まぁ……。一時期父が危篤になったって話を聞いて、真悠さんのお母さんから連絡を頂いたのですが、車壊れちゃって行けなくなって。顔も見られなかったし……。真悠さんのお母さんに父のお墓の場所聞いておいてよかった。できれば父にも、お花供えに行こうと思うんだけど……。ともかく、真悠さんに旦那さんがいたなんて、びっくりしました」
夢で話した悠子の話とそっくりだった。確か彼女も、父をあまり知らないと言っていた覚えがある。こんな偶然があるものなのか。これもまた夢なのではないかと疑ってしまいそうになる。
「あ、そうだ。お母さんにも会ったら聞きたいと思っていたのですが、これ、見覚えあります? 実は、物置の父の遺品を整理してたら出てきたんです」
悠子がそう言って高級ブランドの革製バッグから取り出したのは、艶やかに光るヨーロッパ風味のある金色のブローチであった。当然ながら今まで見たことがない。なぜこんなものの出所を自分に聞いてくるのだろうか。
「封筒に入って送られてきたものみたいで……真悠さんの実家の住所から。これを頼りにここまで来たんです。中に手紙も」
仄かに甘い香りを漂わせた白い腕が伸び、彼の手元に渡されたのは色褪せた一枚の便箋であった。
「これは……」
文章の構成や字体から見て、この手紙は真悠の母が書いたもので間違いなさそうだ。だが、いつもより雑な印象を受けた。若い頃習字を習っていた彼女は、一字一字止め払いを書き分ける人だった。この手紙の文字はそれがまばらになっている。おそらく急いで書いたものなのだろう。それと一緒に入っていたのがこのブローチ。質素な紙袋に入れられ、プレゼントとして贈ったのならあまりにも扱いが雑すぎる。だが、その手紙の内容を見て焦りの原因が分かった。
《いつになったらこのブローチを持って帰ってくれるのですか? ずっと待っていましたが、もう耐えられないので住所を調べてもらいました。このせいで、私たちの家族がバラバラになってしまいました。あなたが持ってきたんです。あなたが責任を持ってこれを処分してください。次は誰が犠牲になるのか、私はもう考えたくありません。真悠、そして私をこれ以上苦しめないでください》
「気持ち悪いですよね、次の犠牲って……。これ、日付けが書いてないのでいつ送られてきたものなのか分からないんですけど、十年じゃ効かないですよね」
いつも心優しい義母が、こんなことを書くとは思えない。一番引っかかったのは『真悠、そして私をこれ以上苦しめないで』と言う文章。真悠の父親、いや、厳密に言えばこのブローチのせいで何か不吉なことが起きたということだろう。
中に入っていたブローチは開けられずにずっと保管されていたのか、年季を感じさせず光沢を保っていた。気になるのはその模様であった。楕円に縁取られた本体の中心部に、昆虫のような、蜘蛛のような奇妙な形が表面に浮かび上がっている。陽の光に照らされて、凹凸がはっきりしてきてその模様が立体的に浮かび上がる。
「うわ……」
虫嫌いだった和也は、思わず顔を歪めてブローチを持った悠子から後退りした。
「ごめんなさい! 虫、嫌いなんですね」
和也の反応を見て驚いた悠子は、そのブローチの絵柄を自分の方に向け見せないようにした。悠子はそのブローチにまるで嫌がらせでも受けたのかと思うような鋭い睨みをきかせていた。
「花の絵柄のブローチは沢山知ってますが、虫ってそんなに見ないですよね。私、小物のハンドメイドをやっていたことがありまして、アクセサリーを見に行く機会が多かったので分かるんです。虫自体が縁起悪くて疎まれますから、デザインとして採用されることがほとんどないんですよ。このブローチがお店やネットショップに出回ってないか調べてみたのですが、ありませんでした。今はもう造られていないか、もしくは……」
「手作り……。いや、ちょっと思い当たる節がありまして。真悠のお母さんも手芸が趣味なんです。ピアスとか、髪飾りとか。確かブローチも作ってた記憶がありますが、虫の絵柄はひとつも見たことない。でも、作り方はお義母さんにそっくりです。細かい装飾とかが」
週末になると必ず義母の様子を見に行く。その度、彼女が作ったハンドメイドのアクセサリーが目についた。日に日に量が増えて、納戸の中にぎっしりとアクセサリーが詰められたプラスチックケースが所無しと並んでいた。今まで彼女が作った作品をひとつずつ見せてもらったことがあるが、そこに虫のような絵柄をしたものはひとつもなかった。それもそのはず、義母も和也と同様虫嫌いであったのだから。
「だとしても、お義母さんがこんなものを作るはずがないんです。頼まれて作ったのならまだしも、彼女も虫が嫌いなので」
「そうなんですか……。ごめんなさい、虫嫌いなの知らなくて不快なもの見せてしまって。でも、真悠さんの旦那さんで、お母さんと仲が良いなら何か分かるかもしれないって思ったんです。もしかしたら、お母さんは知ってるかもしれない……。私はこの後少し用事があって、行こうかどうか迷ってるんです。和也さんはこれからお母さんのご自宅に帰るんですか?」
「ええ……夕方の六時ぐらいまではいようかなと思って。足の具合が悪くて、買い物に行けないみたいなので最近はつきっきりなんです。言っておいた方がいいですか?」
悠子はゆっくり首を振り、真悠のお墓を真っ直ぐ見つめた。何かに耽っているようだが、一瞬ほっとした表情を見せたような気がした。
「いえ、いいんです。自分で連絡しますから。あの、こんな事聞いて心悪くされたら申し訳ないのですが、真悠さんってどんな方でしたか?」
悠子は、ばつが悪そうにひと回り以上身長が大きい和也を上目遣いで見つめていた。彼は少し照れくさそうに真悠が眠る墓石を眺めながら話した。
「僕にとっての全てでした……。病気する前は、仕事帰りにいつもご飯作って待っててくれて。笑顔でおかえりって言ってくれて。いつの間にか理想の夫婦になってました。家事は一度も手抜きをしたことがなかったんです。彼女の手作りのご飯、美味しかったなぁ。でも、もう味わえることはないんだと思うと、やっぱり少し悲しくなりますね」
「そうだったんですね……。私も……真悠さんみたくなれるかな……」
独り言のように悠子は呟いた。和也は眉を顰め墓石を見つめる悠子を横目で見た。
──真悠みたくなりたい……だと?
彼の胸の奥から湧き立つ感情は怒りではなかった。彼が感じたものは底知れない不気味さであり、違和感であった。そしてその言葉が、あの時のパーキングエリアでの不快な記憶を引っ張り出してきた。
──真悠の顔をした悠子……
真悠のような振る舞いということか、それとも真悠のような容姿になりたいということか。あの夢と彼女の言葉は、奇妙なほど共通点がある。まるで悠子の思いそのものを具現化したかのように。
「それ、どういうことですか?」
和也の口から出たのは、その言葉に対する質問だけだった。頭でいろんな思考が絡み合って、結局それしか言えなかった。
「はい? あ、ごめんなさい……。私、ぼーっとするとたまに独り言呟いちゃうんですよ。私、真悠さんに一度も合ったことないんです。でも、最近、夢で《まゆ》っていう同じ名前の女性にしょっちゅう合うんです。もしその人が彼女なら、すごく綺麗で良い人だなって……。黒髪で長くて……。目もぱっちりとしてしっかり未来を見据えてるような格好良さがあって。きっとモテるんだろうな……。私は彼女とは正反対ですよ。生まれつき髪が茶色かったから、よく外国人と間違えられて。それで散々からかわれてきたし。だから、ついうっかり彼女みたくなりたいなんて言ってしまって。本人がどうかも分からないのに……」
黒くて長い髪、力のある目。間違いなく真悠だ。自分の直感がそう語っている。だが、実際はそんな人間腐るほどいるかもしれない。そう考えるのが普通だ。普段は理屈に反したことは考えない主義だが、その時は彼女としか考えられなかった。真悠が、自分達に何かを伝えたがっている。そのほうが都合よく解釈でき、何もかもが繋がるからだ。
「ここで話すのもなんですし、もうそろそろ別れましょうか……。ごめんなさい、急に出会ったばかりなのに長話に付き合わせてしまって。私、まだやることがあって、また出かけるんです。後でお母さんのお家で会いましょう。詳しい話は、お互い落ち着いてからした方がいいと思うので……失礼します」
悠子はそう言うと和也から離れていった。その背中は、まるで喧嘩した後に去っていく真悠の後ろ姿とそっくりであった。片親が違っていても、こんなにも似ることはあるのだろうか。
和也は悠子が視界から離れたのを見計らってスマホを取り出し、寺の入り口付近まで歩いて行った。
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