第5話 蟲
「あ、お義母さん。俺だけど……。今、墓で女の人と出会って。石嶋悠子って言う人。腹違いの妹さんなんていたんですか? 今日初めて会うし、何で何も言ってくれなかったんですか? これからそっちに行くって言ってましたけど……」
『あぁ、あの子のことね……。今日来るっていう話は聞いてなかったんだけどねぇ~。そうだね……。彼女のことは、これ以上あなたに隠してはおけないから、しっかり話をしておかなくちゃね。早く帰っておいで』
「分かりました……」
義母も和也が悠子と会うことは想定外だったようだ。あのブローチの話も追々聞くことになるだろう。そうでもしないと気が休まらない。和也は心に黒い靄を抱えたまま、義母の自宅近くのコンビニに立ち寄った。
「おぉ、いらっしゃいませ~」
自分よりも十歳ぐらい年下の高橋という店員が気さくに挨拶をしてきた。彼と知り合ってかれこれ七年ぐらい経つのだろうか。義母の家に寄る度に通っているコンビニだからか、すっかり親しくなっていた。和也はプリンとかりんとう、そしてボトルのミルクコーヒーを高橋に差し出した。
「なぁ、お前確か昆虫とか詳しかったよな?」
「ああ、まぁそうっすね。子供の頃から博士って呼ばれてましたから。一応大学の時にも色々研究してて、新種の昆虫見つけて賞もらったりしましたよ」
高橋は勘定をしながら、聞いてもない自慢をしてくる。背が高く、細身で黒縁眼鏡をかけた、いかにも博士という雰囲気を出していたが、言葉遣いだけは田舎のやんちゃ坊主といった感じであった。
「変なこと聞くけどさ、蜘蛛ってなんか縁起が良い謂(いわ)れとかあったりするのか?」
「蜘蛛ですか? そりゃ~、一説によれば神の使いとして敬われることもあったらしいっすよ。家の害虫を駆除してくれるから、昔の一部の地域では、蜘蛛を家の厄災から守ってくれる神様として祀ってたなんて話良く聞きますけどねぇ」
「神……」
蜘蛛を神として祀っていたらなら、話は変わってくる。あのブローチに描かれていた蜘蛛は、信仰の対象だったのだろうか。だとしたら、神聖化されてブローチに描かれるのも納得できる。
「あ、そういうのって普通の虫とは漢字の書き方が少し違ってて、三つの虫で《蟲》って書くんすよ。霊的なものとそうでないものを区別するために使うらしいっす。本来だとそれを簡素化したものが今の虫なんすけど……」
高橋の蘊蓄が始まり出すと止まらない。和也は高橋の話を遮るように質問を重ねた。
「今もその蜘蛛の信仰ってあるのか? どこの地域に?」
「いやぁ~、そこまでは分からないっすね。そういうのって民俗学的な分野に入るから……。あ、でも確かここにもめっちゃ昔に蜘蛛を信仰してた村があったって聞いたことが……」
気がつくと後ろに二人の客人がカゴを持って並んでいた。真後ろに立つ白いノースリーブシャツを着たイカツイ中年の男性が咳払いをし急かし始めた。和也はその姿を見てなんとも言えない圧を感じ申し訳なさそうに軽くお辞儀をした。
「ありがとう。あとは自分で何とかする」
「は、はぁ……あざっしたー」
何故か小声で礼を言うと、急ぎ足でコンビニから出て車に戻った。
『蜘蛛』『信仰』『村』
何か引っかかるものがあるのは気のせいだろうか。封筒に入っていた手紙。あの文面を見る限り、そのブローチは少なくとも何らかの『災厄』を真悠と義母に与えていたと思われる。高橋が言っていたこととは正反対だ。だが、日本の神には祟る神も存在する。だとしたら、彼女たちのどちらかが禁忌に触れてしまった。順を追って考えるとそうなるが、『祟り』というものの信憑性が気にかかる。
『病気』『怪我』『災害』
スマホで『祟り』と入力して調べたことを手帳に纏めてみる。真悠は病気で亡くなった。だが、その亡くなり方は不自然というほどでもなかった。癌の転移による衰弱死と考えるのが妥当だろうが、それも祟りの内に入るのだろうか。和也にはもうひとつ真悠に不可解な点があるのを思い出した。彼女は異常に鏡や写真を怖がる。これは何か祟りと関係があることなのだろうか。
『鏡』『心霊現象』
スマホの画面に乗せられた親指が無意識にキーパッドを押していく。何故それを打ち込もうと思ったのか、和也自身も理解し得ないことであった。ただ何となく、その先に答えがあるような気がしたのだ。
「これは……」
《鏡はあの世とこの世が繋がる境界線であるとされています。合わせ鏡やブラッディメアリーなど、鏡を使った降霊術があるように、特に霊が出やすい真夜中から午前三時に鏡を見ると、幽霊を見ることができるとか……》
──真悠は、鏡越しに何かが見えていた?
自分でも、もうまともではいられなくなっていることが自覚できていた。今抱えている問題が、真悠に対する恐れであったからだ。スマホの画面ひとつだけで、ありとあらゆる憶測が水面の波紋のように広がっていく。今はもう存在しないはずの真悠が、自分の心の中に閉じこもり、寄生虫のように自分の意図しない『現象』を起こしている。それ以外にこの非科学的な出来事をどう説明すれば良いのだろうか。
《神社の拝殿や神棚には丸い形をした神鏡が飾られているところが多く、丸い鏡には神が宿るとされています。また、鏡は自分のもう一つの本来の姿を現すとも言われ……》
自分の姿を映すもの。それは鏡も写真も同じことだ。写真も自分の本来の姿を写し出す。写真と鏡の写り方が違うのは、鏡の方が反転しており、尚且つ自分が美形に写る角度や表情をとりやすいからだと云われている。だが、写真だとカメラの位置や被写体の角度やポーズが予め決められているため、自分が納得できる姿で写らないことが多いのだ。真悠は両方とも嫌っていた。自分の姿を写すこと自体が彼女にはできなかったのだ。
──真悠の本来の姿。
和也はミルクコーヒーの蓋を開け、ひと口ふた口と口の中に注いでいく。ミルクの甘い風味とコーヒーの香ばしい香りが口内に広がっていく。だが、それはほんのひと時の快楽でしかなかった。
集合団地の来客用駐車場に車を停め、白いビニール袋を左手にぶら下げながら三号棟の薄暗いエントランスホールの奥に進む。呼び出しボタンを押すと、所々黒ずんだエレベーターのドアが「ガガガガ」と不穏な音を立てながら開いた。四階のボタンを押し、再び鈍い機械音と共にエレベーターが吊り上げられていく。途中でガクッと体が上下に揺さぶられさらに不安を煽ってくる。それに伴って電灯がパチパチと二回点滅した。
──おい、大丈夫かよこのエレベーター。
義母が住む団地は築三十年以上の古い建物であった。外壁は蔦に覆われ剥がれ落ちているところもあり、今の自宅の様を思い出させられる。一ヶ月前には義母の部屋の上の住人が孤独死した。隣人が異臭に気づき発覚した。一週間前には花壇のそばにカラスの死骸が転がっていたのを見つけた。どうすることもできず、敷地内にある数台のベンチしかない公園の隅に埋めた。管理人はほとんど仕事をせず、この日も業務時間をすっぽかして丸一日不在だった。心を少しずつ捲られていくような悲愴感に幾度も堪えながら、今は義母に会うためだけにこの団地を訪れていた。
いつか義母をこの暗い場所から出して、真悠と一緒に安心できる家に住ませることが本来の夢であった。仕事で成功し、三人であの家で幸せに暮らすことを夢見ていた。だが、真悠の病気でそれは二度と叶うことのない夢のままで終わった。仕事も真悠が死んでから急激し、家も家賃が払えず退去の瀬戸際にいた。そんな中でも、唯一義母の世話だけは疎かにすることはなかった。
──お義母さんの面倒を見なかったら真悠が悲しむだろ。
しかし、確かに状況が良いとは言えず悪化の一途を辿っている。もしこんな無様な自分の姿を真悠が見ているのだとしたら、きっと嗚咽を漏らしながら泣いているに違いない。真悠が自分の手を握りしめながら謝ってくる姿が思い浮かぶ。
『かずくん……ごめんね』
背後から真悠が語りかけてくる気がした。幻聴でも幻覚でもない、ただそこにいるような感じがしたのだ。
エレベーターのドアが開き、不意に廊下の手すりにいた黒い塊に目が向いた。その塊は妙に光沢があり、中心から八本の長い突起のようなものを生やし、それが前後に動いて移動していた。
「う……」
ほんの数秒のラグの後にようやくその正体が理解できた。蜘蛛だ。感覚からして体長三センチメートルほどあるだろう。支えになっている柱をよじ登り、ザラザラとして半分錆びついた手すりに沿って廊下の奥への進んでいるところだった。虫が苦手なのにも関わらず、和也はそれを目で追いながら歩いていた。蜘蛛は義母の部屋の前で足を止めると、一瞬和也の顔を見たような気がした。その後再び柱を通じて下の階に逃げていってしまった。
玄関が「キー」という金属音を立てて開く。入ってすぐ右手にあるスイッチを押すと、明かりがなく薄暗い廊下が黄金色の光に照らされる。ただ自分の頭上にあったのは、たったひとつの豆電球だけであった。
明かりをつけた直後、リビングに続くドアの磨りガラスの縁から薄い影のようなものが引っ込んだのが見えた。それが気になり、リビングにいる義母の様子を見に行った。出かける直前まで裁縫をしていたが、今はお膳に突っ伏してうたた寝していた。
「お義母さん……お義母さん、帰りましたよ」
「ん…あ、和也さん……。ごめんなさいね、ちょっと疲れちゃって」
今まで義母は寝ていた。だとしたら、あの影は誰のものだったのだろうか。不気味なほど冷たい空気がつま先から顔あたりまで吸い上がる。今までこんな感覚を味わったことは初めてであった。風邪を引く前兆だとしても、こんな感覚は経験したことはない。
「さっきリビングから顔出してた人がいましたけど、誰か来ましたか? 悠子さん?」
「え? 誰も来てないけど……。さっきあなたの電話の後に、悠子さんが向かうからって連絡くれたの」
「そうですか……気のせいだったかな」
ビニール袋をお膳に置くと、中身を出して座布団の上に腰掛けた。先程から自分と義母以外の気配を薄らと感じる。
「お茶、入れてくるわね」
「ありがとうございます」
義母が青い花を模した柄が描かれた急須と、渋い焦茶色の湯呑をお盆に乗せて戻ってきた。
「そういえば、さっきも夢見てね……。真悠がまた帰ってくる夢を見たんだよ。でも、今日は口数が少なかった。ずっと、私の心配しててね──」
義母がお茶を注ぎながら、半分不安と嬉しさが混ざったような表情で話していた。ところが、和也はその話を遮るようにあのブローチについて質問しようとした。
「あの、お義母さん。実はちょっと聞きたいことがありまして……」
一瞬、和也の方をチラッと横目で見ると、何も言わず真顔でお茶を和也の前に差し出した。
「あぁ……さっきのことね……」
義母の表情が曇る。あからさまに動揺しているようにも思えた。目の奥底から、じわじわと不快感が現れているのも分かった。これから際どい質問をする直前で、握り拳の中から手汗が滲み出てきているのを感じた。緊張で荒くなる呼吸を整え、軽い深呼吸を二回繰り返した。
「悠子さんとお墓で出会った時、蜘蛛の装飾がされたブローチを見せてもらったんです。悠子さん、それについて色々聞きたくて、お義母さんのところに来たと言ってました」
義母が一瞬目を丸くし驚愕していたが、深くため息をついた後、不満気にいつもより荒い口調で説明した。
「全てあの男が悪いんだ。あの男があの子を変えてしまったんだ。本当は悠子さんにも会うつもりはなかったし、会いたくもなかった。知らないところで他の女と勝手に子供を作り、挙句の果てには彼女にも「ソレ」を移してしまうとはね……」
「移してしまう……何を…ですか?」
和也は若干引き気味に質問を返した。義母の目つきが変わっていた。それは、深い憎悪に塗れた夜叉か鬼の面にそっくりであった。
「あのブローチは、私が作ったもんじゃないよ。夫の姉から譲られたの。私は、彼の姉から手芸を教わっていたのよ。教室をやっててね。でも、あの一家の裏の顔をずっと私に隠し続けていたのよ」
「裏の顔……」
「あの一家は穢人(けがれびと)だったのよ。その昔、村の掟を破り、禁忌に触れ、神様からも村からも見放された家族がいた」
穢人。いつかそれに纏わる話を義母から直接教えてもらったことがある。だが、その一家が大正時代から昭和の始め頃に村八分にされたということ以外は何も知らされていなかった。もしその話が事実なのだとしたら、その一家は掟を破るほどの目的があったということだろう。
「あの一家はこの国に有数の呪術師だった。でも、私利私欲に呪術を使う罰当たりなことをしててね……。気に入らない人間を呪殺するような人たちだった。とはいえども、相手は国の中で最も身分も力も強い『大和三貴族(やまとさんきぞく)』の中の一族、神津(かんづ)家。あの男の家系はその分家にあたる。例え分家であっても呪力は衰えていない。自分たちを不当に扱った者たちへの仕返しに、妖魔を取り憑かせたこのブローチを作って、村の人間に呪いをかけた。それをあの男の姉が持っていたのよ。まだ一家の復讐は続いてる」
「それがなぜ真悠にも影響を及ぼしたのですか? 真悠も、神津家の血が入ってるってことでは? 同じ血筋でも、影響を受けるものなんですか?」
突如尖った表情が変わり、真悠の葬式の時にも見た叫び出しそうになるのを理性で抑えるような複雑な表情をしていた。和也の追い討ちをかけるような質問に困り果てていたが、固唾を飲むと覚悟を決めて話し始めた。
「神様からのしっぺ返しよ。人を呪わば穴二つという諺があるでしょ。私はあの子を助けたかったの。でも、普通の人間にできることは何もない。あの力は強すぎた。どこの神社にお祓いに行っても何も変わらなかった。私はなるべくブローチからあの子を遠ざけることしか考えなかった。いくら直接的な関係がなくても、血は繋がっている。これは因果なの。でも、あの子が鏡を怖がり始めてから、もう手の施しようがないことに気がついた」
真悠が鏡を怖がる理由。その最も近い原因がこの一家にある。その一家と血が繋がってる存在は悠子、そして本家の人間しかいないという訳だ。
──真悠が夢に出てきたのは、同じ因子を受け取った悠子を助けてほしいからか?
《私を見て》
夢で見た、真悠のあの言葉の真意は何なのだろうか。
『ピンポーン』
部屋のインターホンがリビングを駆け抜けていく。
「悠子さんが来たわね。私が出るわ。でも、和也さん……この話をしたことを彼女に言わないでほしいの。もしその時が来たら、私の口からちゃんと説明しなきゃいけないから。悠子さんも、あのブローチが何なのか半分解ってるんだと思うわ。だから、あなたに聞いてきた」
義母はそれから何も言わずリビングを離れ玄関まで歩いて行った。今までの理解し難い内容が脳の奥底で理論と葛藤しているのが分かった。『呪術師』『因果』『大和三貴族』。通常の精神ならば信じようがないことなのだろうが、今の和也は違う。真悠の人生を狂わせた元凶かもしれない。ぶつけようのない怒りが込み上げる。今まで二十数年間、気付きもしなかった存在。真悠は死ぬまでずっとこれに脅かされていたのだ。さぞかし怖かっただろう。
この不幸の輪廻を断ち切る方法があるならば、その因子を植え付けられてしまった石嶋悠子という女を救う方法があるならば、それを見つければ真悠はきっと呪縛から解放されるのであろう。
──本家を探すしかないな。
和也にそれ以外の選択肢はなかった。
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