第3話 悪夢
「あれ?」
運転席のドアを開け助手席の方を見ると、遺影にも見える黒縁の写真立てがうつ伏せになって横たわっていた。出る時は背もたれに寄りかかっているのを確認したはずだ。何かの弾みで倒れてしまったのだろうか。
写真を手に取って妻の後ろ姿を確認した。ガラスフィルムが割れていたり傷ついていたりしないか、表面を顔を顰めて見つめていた。どこも問題ないようだ。だが、そのフィルムに挟まれた妻の頭部が視界に入り、曖昧な違和感を感じた。
頭部右側から肌のようなものがにょきっと飛び出していたのだ。それはどう見ても妻の右頬に当たる部分であった。何度も見慣れている写真だ。見間違えるわけがない。
──違う、こんなんじゃなかったはずだ。
その違和感は的を得ていた。この写真を撮影した時、彼女は後ろをまっすぐ向いていたはずだ。完全に長い黒髪に隠され、顔の部位などひとつも見えるはずがない。彼は恐る恐る妻の頭部を親指の先で軽く擦った。何かゴミがついたのかもしれない。だが、何度擦ってもその部位は消えることはなかった。これは完全に写っているものだ。それ以外に説明しようがない。この写真を撮った時の記憶が蘇る。この写真のシャッターを切る瞬間を。
「ねぇ、本気? 本当に私の写真を撮るつもりなの?」
「いいじゃないか。せっかくの結婚記念日なんだし。今まで僕とは愚か、君の写真を一枚も撮ったことがないんだよ? 君の綺麗な顔をしっかり納めておきたいんだ」
「記憶の中に納めておけばいいじゃない」
どこかへ行く度に何度も撮影をせがむ和也を、彼女は体を捩りながら拒んだ。なぜそんなに嫌がるのだろうか。一緒に写真を撮るだけ。そのくらいのことなら夫婦ならやってもいいはずだ。
夕方のフィレンツェの、レンガ造りの住宅が立ち並ぶ狭い路地でふたりして論争していれば、当然気にかかった通行人がチラチラと自分たちの方に視線を向けてくる。ナンパ系のアジア人と勘違いされて大層不審がられていたに違いない。
「とにかくダメよ。約束したじゃない、私の顔を撮らないって。あなたが承諾したから結婚したのに。約束破るなんて酷いわ、和くん」
「本当にダメなのかい?」
「ダメ……絶対にダメ」
「じゃあ……」
最後に彼が要求したのは、この写真を撮ることだった。後ろ姿だけなら大丈夫だろうと軽い気持ちで考えていた。案の定、彼女から許可が降りた。
「そう。そんな感じ。これなら顔が映らない。じゃ、撮るよー」
「ぷっ、ぷぷ……」
和也がシャッターを切った直後、何かがおかしかったのか彼女は吹き出した。
「どうしたんだよ」
「ううん、何でもないわ。でも、こういう光景ってあまり他の夫婦ではないことでしょう? だから、新鮮だなって」
「君が撮らせてくれないからでしょう……」
散々拒んでおいて、その言い方はないだろうと少し不満に思っていた。だが、そこまでして頑なに拒否するのは、何か理由があるに決まっている。きっと、顔のことで気分悪くなることを沢山言われてきたのだろう。その顔で生きていれば、一度や二度誰かしらに嫉妬されるのも無理ない。世界には、自分の顔が好きになれず鏡や写真を嫌う特殊な症例もあるようだ。今思えば、もう少し彼女に気を遣っても良かったのかもしれない。
「あの……」
写真を見て回想に耽っていると、後ろから柔らかく高い調子の女性の声が聞こえた。後ろを振り向くと、悠子が心配そうに和也を見上げていた。
「ごめんなさい……。調子に乗ったこと言って、怒らせちゃったかなって不安だったの。もう戻ってこないかもと思って、着いてきちゃいました」
眉尻を垂らして、厚くも薄くもない小さな唇は細かく震えていた。最初に出会った時と同じような泣きそうな顔になって謝ってきた。顔を撮られるのを必死に拒んでいた時の妻の顔とそっくりであった。ここまで似るのは相当レアケースだろう。
「ああ、気にしてませんよ。むしろ、色々考えさせられました。写真、撮り続けようと思います」
何故か勝手にこの言葉が口から滑り出てきてしまった。その一言一句が、自分の脳みそで導き出した答えではない感覚があった。実際は彼女にうんざりしていたのに、今この瞬間に本当のことを言うべきだったはずだ。
「本当ですか? 良かった……。そういえば、あなたのお名前聞いてなかったですね」
「岩井和也です」
「岩井さん、ですね……」
フルネームで答えたのに苗字で呼ぶのか。こういうところが妙に礼儀正しいのがやるせない。少し神経質になりすぎているのだろうか。その直後、荒れ狂うようなロックが空中に響き渡った。スマホの着信だ。
「もしもし……。あ、分かりました。十分後ですね。はい、入り口で待機していればいいんですね?」
レッカー車が間も無く到着するとの連絡だった。ようやく事が動きそうだ。
「あと十分弱で着くみたいです。しばらくここで待ってましょうか」
「あぁ……やっとだわ。本当にすみません。ありがとうございます」
今までの言動が嘘だったかのように、彼女は丁寧に深々と頭を下げて御礼をした。スマホの時計は既に二時半を指していた。そんなに車に長居していたつもりはないのだが、ここのところやけに時間の流れが早く感じる。それほど若い頃は充実した日々を送っていたということだろう。妻が生きていれば、もっとこの時間でさえも有意義に過ごせたはずなのに。
今は妻を思い出す度に、隣にいるこの女性とも少女ともとれない悠子の顔が思い浮かんでくるようになってしまった。生き返った妻との再会、なんていう感動的な場面ではない。まだ彼女と出会うのは早すぎる。写真の中の妻は、別れを告げるかのように目線を合わせることなく佇んでいるのに、悠子は平然と自分の目の前に顔を向かい合わせて立っているのだ。何とも説明できないこの矛盾点に、夢を見ているのではないかと錯覚してしまうほどだ。
駐車場の出入り口の方に顔を向け車の運転席側のドアに寄りかかったまま、特に何の意味もなくスマホをいじっていた。アルバムには、禿岳の山頂付近で撮った初日の出と、彼岸花畑で撮った写真がいくつか保存されている。それ以外の写真は容量の関係でみんなパソコンに送った後削除してしまう。
悠子は彼のスマホの画面を見たくなったのか、そろそろと歩いて首を伸ばした。ちょうど珍しい白い彼岸花の写真を観察していたところだった。
「へー、ここら辺にもあるんですね、『白い彼岸花』。珍しいわねぇ。黒いのはどこかにあるって話を聞いたことがあるんですけど」
白い彼岸花は、遺伝子の異常で色素が形成されず花弁に白化現象が起きてしまった個体。それに加え繁殖能力が低いため、全国で見られる数が限られている。所謂、植物のアルビノ。
だが、和也は悠子の口から出てきた『黒い彼岸花』という個体は初耳だった。というか、今まで聞いたことがない。そんな花が実在しているのか。
「あ、来た来たー!」
悠子が声を張りつめて駐車場の入り口の方を見ながら手招きしていた。巨大なレッカー車が道路の真ん中を堂々と通りかかり、彼女の車の前近くに停車した。
「すみません、遅くなりました。故障されたお車を拝見させていただきます。少しお待ちいただけませんでしょうか?」
「あ、はい、分かりました。すみません、お忙しいところに」
悠子は丁寧に御礼をしたかと思うと、和也の身体に近づいた。近づきたかったわけでもないのに、彼も無意識に自分も体を寄せていってしまっていた。何かの『魔法』にかけられているかのように。
「用が済んだら、スタンド行きますか」
「あ、ああ……。そうだな……」
レッカー車の運転手が真っ赤に塗装された派手な車の後部からこちらへ駆け寄ってきた。
「すみません、終わりました。パンクということであれば、本来はこの場で付け替えさせていただくのですが、最寄りの工場ではこの種類のタイヤがちょうど欠品状態になってまして、今別の工場を探しています。場合によってはお引き取りが夕方になってしまうかと。これから車を乗せるのですが、お客さまはこれからどこかに行かれたりしますか?」
「ええ、急用で。あ、でも台車は結構です。この人に乗せていってもらえることになったので、連絡をいただければ大丈夫です」
「かしこまりました。では、このまま修理に出します」
レッカー車のフックに吊り上げられ、荷台に引き摺られていく。二人はその光景を物珍しそうに黙って見つめていた。運転手は彼らに軽く挨拶すると、運転席に戻りそのまま高速へ消えていった。
「夕方かぁ……。まぁ、そのくらいまではいいか」
「どうかしたんですか?」
悠子が腕を組みながら独り言のようなことを呟いていた。
「あ、いいえ。ちょっと夕方から夜は実家から帰るのは怖いなって……。泊まるっていう手もあるかもしれないけど」
彼女はそう言いながら、和也の目をちらちら見て様子を伺っている。
──まさか泊まるって、俺の家に?
和也は感情を隠せず「えっ」と素っ頓狂な声を漏らした。
「あ…ち、違いますよ。『実家』に……です」
悠子は頬を赤らめ組んでいた腕を緩めた。その直後、右手で口を覆いながら和也から視線を離し後ろを向いた。垂れ下がった左手は腹の前で揉むような仕草をしていた。
「大丈夫ですか? もしかして、暑くて具合悪くなっちゃいました?」
「いいえ……何でもないんです……。ちょっと、前からの病気で……」
──嘘だ……まさか、彼女まで。
彼の脳裏に咄嗟に思い浮かんだ言葉は『癌』だった。妻の死と、癌という病気そのものが彼にとってトラウマだった。あの宣告を受けた時と同じような緊張感を、今この場で味わうとは思わなかった。
「なんか、緊張するとお腹が緩くなることがあるんですよね。こういう状況、あんまり慣れてなくて。一人で出掛けたこと、あまりなかったし……」
──何だ、ただの腹痛か……。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥底に詰まった異物が取れてほっと胸を撫で下ろした。
「そうなんですか……。大丈夫なんですか? もうそろそろ行こうかと思って……」
「あ、大丈夫ですよ。もう、こういうのには慣れてるんで……」
さっきの仕草は慣れてるとは言えないだろう。あからさまにいきなり痛みが襲ってきて、口を押さえた。痛みの鋭さに声が出かかっていたのか、あるいは吐き気。重い病気じゃないとはいえ、普通じゃないのは明確だ。
「行きましょうか」
「あ……あぁ」
和也は悠子の肩を支えながら自分の車に戻った。助手席には、倒れて直した妻の写真が背もたれにもたれかかったままであった。
「あ、ごめんね。ここ、座って」
和也は慌ててドアを開け、その写真を後部座席に投げ込んだ。ついさっきまで丁寧に扱っていたのだが、そんなことよりも今生きてる彼女が具合悪そうにしているのを見て、久しぶりに顔を出した負の感情を堪えることができなかった。つい咄嗟に出た行動だった。その時、妻に対して申し訳ないとはこれっぽっちも思っていなかった。写真立ては、うつ伏せになったまま後部座席に横たわったままだ。
「あれは、大事なものじゃないんですか?」
「え? なんで?」
「いえ……わざわざ、写真を隣に飾るなんて、よっぽどのことじゃないとしないから」
悠子は額から冷や汗を垂らしていた。だが、その瞳は虚なものではなく、真っ直ぐと和也の顔を捉えていた。
「僕の『大事なもの』ですよ。いや、物っていうか、人だけど」
「大切な人がいたの?」
悠子は突如人が変わったように、和也に顔を近づけた。その瞳を見た瞬間、彼はまるで金縛りにかかったかのように、全身に力が入り石のように固まってしまった。悠子は真夏なのに冷えた手をゆっくりと肘掛けに置かれた和也の腕をなぞりながら、彼の頬に当てた。それと共に、少ししんどそうな呼吸を繰り返した。
「な……なんだ……」
「ねぇ、聞かせて……。その人は、どんな人なの? どんな姿をしているの? どんな顔を
しているの?」
「……どういう……意味だ?」
「見せて……その顔、見せて……」
丸く見開いた瞳は次第に黄金色に染まっていき、眩しいほどの光を放った。
「うっ……」
和也は体を仰け反り両目を擦る。
『バサッ……』
後部座席から異音が聞こえた。だが、それと同時に気配を感じた。人がそこに座っている気配が。恐る恐る目をやると、あの写真を撮った時と同じ姿で、黒のワンピースを着た妻の姿だけがあった。
「なんで、君が……」
隣に座っていたはずの悠子の姿はなかった。いや、最初からいなかったのだ。これは、全部……『夢』。そう確信した時、体が徐々に熱くなっていく。生温い汗が衣服を湿らせていく感触があった。
──覚めろ……覚めろ!
彼が心の中で連呼すると、それをかき消すように妻の声が頭の中を覆ってゆく。
『忘れ……て………忘れないで………。見て………私を……見て』
「うわっ!!」
飛び起きた場所は車の中。間違いなく、彼はあのパーキングにいた。だが、時計は午前十一時前を指していた。ちょうどここに到着した時間と同じ時刻、そして、彼女の赤い車を見つける直前である。
──どういうことだ? 寝てた訳じゃない?
ふと気になり、目の前に並んでいる車を確認した。だが、赤い車など一台も停まっていなかった。悠子の姿もどこにもない。存在すらしていなかったというのか。
──『石嶋 悠子』
妻と瓜二つの顔をした彼女は一体何者だったのか。彼女は自分から何を聞き出そうとしていたのか。そして、なぜ妻もそこにいたのか。
「あ、写真!」
助手席にはうつ伏せになったままの黒縁の写真立てがあった。恐る恐るそれを裏返す。何も変わらない。背を向けたままの妻の姿がそこにあった。だが、また別の違和感が薄く浮かび上がってきた。
彼女が目視している壁の隣にあった窓ガラスに反射して、別のワンピースを着た妻に酷似した女が佇んでいた。白黒だったが、よく見るとそのワンピースは、悠子が着ていた花柄とよく似ていた。
「ゆう……こ?」
熱中症になりかけているのか、ガンガンと波打つ頭痛に耐えながら彼女を凝視した。
彼女は笑っていた。それは歯を見せるような笑みではなく、穏やかで、まるで幼子を見るような優しい笑みだった。それは妻そのものだった。似ているのではない。彼女だったのだ。本当は見たかったのだろうか。自分が持っていたカメラに顔を写したかったのだろうか。だとしても、なぜ、あんなに頑なに拒んだのだろうか。
あれこれ考えるうちに、悠子の言葉が頭をよぎった。
『どんな顔をしているの?』
『その顔、みせて……』
あれがもし妻自身だとしたら、そんなこと言うのはおかしい。生前、妻は自分の顔を見るのが嫌いだった。だが、本当に嫌いだったのだろうか。少なくとも『夢』で見た妻(悠子)は、顔を嫌うような言動はしていない。
──自分の顔が『分からない』のだとしたら?
そうであれば、当然鏡を見ても自分の顔を認知できない。だから、鏡や自分を写すものに対して恐怖を感じるのだろう。みんなに見えるものが自分には見えていない。自分の顔を正しく認識できないため、他人に自分の顔を見られた時にどう反応されるのか怖い。そう思いながら、二十数年の人生を生きてきたというのか。あまりにも過酷すぎる。
だが、彼女は負けじと外に出たのだろう。そしてバイトもやりこなした。その目的は、ただ『生きる』ために。これは憶測でしかないが、彼女は自分と出会う遥か前から、既に自分の命が絶えてしまうことを予期していたのかもしれない。
それでも自分を認めてくれる人、『愛してくれる人』を探すためにコンプレックスを隠して生き抜いてきた。和也が出会った悠子という存在は、妻が生み出したコンプレックスの塊だったのだろうか。
彼にはもう一つ疑問があった。なぜ今になって彼女の夢を見たのだろうか。生前から今まで、どんなに思っても夢に現れることがなかった彼女が何故今になって現れたのか。あれは本当に夢だったのだろうか。
──冷たいコーヒーが飲みたい。
頭を冷やし、やることをやってじっくり考えたい。今は混乱していてこれ以上正確に答えを出すことはできないだろう。
和也は放置されて温かくなったコーヒーを手に持ち車から出て行った。
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