第2話 奇妙な女


 和也は静止画となった彼女と一緒に、黒い軽自動車に乗り込み気怠そうに腰を下ろした。バッグから彼女を取り出し、助手席の背にもたれかけるようにして置いた。彼女が亡くなってから、この助手席は彼女の指定席となっている。


 鍵を回し、車のエンジンの音と振動が車内に響き渡る。昨日から炎天下の下で放置されている飲みかけのアイスコーヒーが、運転席右側のドリンクホルダーに突き刺さったままであった。氷が溶け切り、その水分で上っ面が無色透明になって分離しているようにも見えた。陽が射す場所に長時間置いておいたため、腐敗していることは間違い無いだろう。流石にこんなもの飲めない。和也はそれを捨てるため、そして飢えた胃を潤すために道の駅まで車を走らせた。


 生憎、住んでいる住宅が宮城の中で一番の田舎町であろう禿岳(かむろたけ)の麓にある。東京の高層ビルが立ち並ぶ見慣れた街中とは程遠い、どこを見ても似たような景色が広がる。夏場は青々とした山に見下ろされ、その壮大な貫禄に精神が平伏す。何故わざわざこんな、交通が不便な場所を選んで住んでいるのかと自分でも疑問になるほどである。だが、どんなに愚痴を吐き連ねても、最終的にこの場所を選んだのは自分自身だ。その理由は『彼女を幸せにするため』に他ならなかった。


 畑や田んぼ、呑気に聳える木々に囲まれながら、すっからかんになった廃民家が点々と僅かにあるような集落でコンビニ一店舗探すだけでもとてつもない労力がかかる。だが、一本だけ現代を思わせてくれるアスファルトの道路が跨いでいた。緑豊かな色彩の絨毯に灰色の線が横切り、視界の向こう側にも延々と伸びている。あとものの数分で道の駅に到着する。手間隙をかけてコンビニを探すより効率的だった。毎日そこで朝食を食べて帰ってくるのが日課であった。食材の買い出しにも困らなかった。


 道の駅のパーキングエリアに到着すると、不意にガソリンメーターを横目で覗いた。いつもならグリーンのライトが悠々と照らし出されているが、今日は危機迫る形相で真っ赤に染まっていた。四分の三が空となった車にも、自宅へ走らせるまでの十分な栄養が必要だった。


「クソ……。どこかにスタンドは」


 和也はハンドルの縁を軽く右手で叩くと、まずは視界に入るものを手当たり次第目で追っていく。左手斜め前に駐車している赤い乗用車の側で、キョロキョロしている若い女性がいるのに気がついた。その顔は今にも泣きそうになっており、ふと車に目をやると、微かに車体が斜めになっているのが分かった。


「パンクか?」


 後部左側のタイヤが、彼女の脚と別の車のタイヤの中間から顔をのぞかせていた。そのタイヤは破裂してしまい、空気が抜けてペシャンコになっていた。女性は仕切りにスマホを弄り、どこかに電話をかけようとしている様子であった。その光景を見て、どこか他人事ではない予感がし出した。


 和也は車内から飛び降り、その女性の元へ早歩きで近づいた。


「あの、急にすみません。タイヤがパンクしてるのを見かけて……。もしかして、お困りですか?」


 女性は彼の声に気づきそっと顔を見上げる。どこかで見覚えがあるような、あどけなさが残る独特な顔立ちだったが、そんなことよりこの無惨にも歪んだタイヤを何とかしなければいけない。


「あぁ。あの……、帰ろうとしたらタイヤがパンクしてて。こういう時ってどこに連絡したらいいのか分からなくて。来た時は何ともなかったのに……。また、悪戯されたみたい」


「JAFに連絡してみましょう。タイヤ交換だけなら、なんとかなるかもしれない」


「すみません……」


 女性は和也を見て一瞬安堵の表情を見せるが、どこか恥ずかしげに弱々しく返事をするだけですぐにそっぽを向いてしまった。


 ──シャイなのかな。


 二十三年前に出会った彼女も、最初の頃はただの人見知りのレベルを超え自分から話かけない限りほとんど喋らなかった。彼女の心を開かせるまで約半年ほどはかかったかもしれない。それに加えて漆を塗ったようなつるんとした長い黒髪と、腰のくびれがはっきりした華奢な美貌を持ち合わせており、周囲の平均的な容姿の女性従業員たちは彼女に嫉妬の念を沸き立たせていたのかもしれない。


 今目の前にいる女性もそうであった。あまりにも彼女と性格や身体の特徴が一致するのだ。お互い初見の間なのにも関わらずどこかで見たことがあると思ったのは、その容姿のせいなのか。彼女とこの女性を重ね合わせていただけなのかもしれない。


 和也は薄汚れたジーンズのポケットからボロボロの布製カバーを纏ったスマートフォンを取り出すと、手際良くJAF(日本自動車連盟)に電話を繋げ、レッカー車を手配するように依頼した。だが、ここは田舎町の特に中心部なだけあってか、パーキングに到着するのは二時間半もかかると案内役から説明を受けた。


 その間女性を一人ぼっちにするのは気が引けたので、とりあえず休憩がてらホールまで彼女を連れて行った。彼女は和也の様子を伺いながらゆっくりと椅子に腰をかけた。 

「何か飲みますか?」


「あ、じゃあ、お茶で……」


 気がつけば正午近い。飲食店内は昼食を取ろうとする客がカウンター前に列を作っていた。流石に飲み物を買うためだけに並ぶのは他の客の迷惑だろう。和也は彼女の要望を受けると一度外に出て、出入り口付近の自販機で冷たいペットボトルの綾鷹と冷えた缶コーヒーを選び再びホールに戻った。


 遠目で丸いテーブルと角ばった椅子に挟まるようにぽつりと座る彼女を見た。その面影は、やはり二十三年前に生きていた彼女と良く似ている、いや、それ以上に瓜二つと言っても過言ではなかった。こんな偶然があるのだろうか。あり得ない。彼女はもうとっくにこの世にはいないのだから。何らかの遺伝子の偶然の一致で赤の他人同士でも顔の造形やスタイルが似るのはよくあることだろう。


「すみません。店が混んでたのでこんなものしか買えなくて」


 和也は軽く頭を下げ、彼女の前にペットボトルを差し出した。彼女も軽く頭を下げた後両手でボトルを手に取った。彼は彼女と向かい合わせになって椅子に座り、「ふぅ」と一息つきながら缶コーヒーのタブを引き上げた。


「いいんです。ありがとうございます。他人なのにわざわざ助けて頂いて。まだ免許取って日が浅くて、ここにも車では始めて来るんですよ。少し背伸びしすぎました。もっと慎重になれば良かったわ」


 彼女は物悲しげに深くため息をつくと、甲に軽い擦り傷ができた右手で白いキャップを覆い手首を回す。「ピキッ」という蓋を開ける音が耳に入る。グルグルとキャップを回し、さほど喉が渇いていたのか二、三回喉を鳴らしながらお茶を口内に注いだ。


「まあまあ。僕だって若い頃は買ったばかりの新車をガードレールにぶつけて、親父に怒られたことありますよ。お前は運転に向いてない! って……。慣れですよ、慣れ。ちなみに、あのタイヤのパンクですが、よくされるんですか? ああいう悪戯。さっき会った時、悪戯されたみたいって……」


 和也はただ彼女の気分を和ませるために何の恥じらいもなく失敗談を語り、その後に疑問に思っていたことを彼女に尋ねた。


「はい。実はこれが三回目で……。家の駐車場にも一応防犯カメラは取り付けているんですけどね。いつも知らないうちにやられてるみたいで。でも、出かけてる時にやられたのは初めてですよ。ほんと、運が悪いなぁ……私」 


「この田舎まで、旅行で? ナンバー見たら習志野だったので、ずいぶん遠くから来るなぁと思ったんですが」


「父親が危篤になったと母親から電話が来て、実家に帰る途中だったんです。でも、車が壊れるとは思ってもなかったわ。まったく、ついてないことばっかり……。きっと、呪われてるんだわ」 


 彼女は最後の一言を小声でボソッと言ったが、耳の効く彼は何を言ってるのか聞き取れてしまった。和也が真剣に聞き入る様子を見たのか、彼女は軽く慌てた様子で再びお茶を口に含んだ。


「すみません、変なこと言ってしまって。で、これから……どうするんですか?」


 彼女は柔らかく首を傾げて和也に尋ねた。これといって予定はないが、彼女にとって今日は生死の境を彷徨う父親に会いに行くという、人生で最も重大な日であった。今日を逃してしまえば、彼女はもう二度と父親に会うことはできなくなるかもしれない。彼女を今にでも実家へ送り届けてやりたい。今日会ったばかりの他人であるにも関わらず、手汗握るような感情の波に唆られ始めていた。


 だが、同時に大きな問題を抱えていた。レッカー車で彼女の車を引き取ってもらった後、彼女を自分の車で実家まで送ることも考えたが、その間に車が駄々をこねて動かなくなるのは目に見えていた。


「どうするかなぁ……。僕の車ももうすぐガス欠しそうで。一番近いスタンドで三キロもあって、間に合わないかもなぁ。持って二十分ってところか」


「あ、そういえば、カーナビには実家の近くにENEOSがあった気がするんですけど……。潰れてなければ、そこまでなら間に合うかも。この近くなんです。もし良かったら、助けてくれたお礼に案内しましょうか?」


 和也を見る彼女の潤った瞳は輝きを放っていた。子供が大好物の甘いお菓子を見るような目付きで、彼女は上半身をテーブルの上に突き出して、彼の返答を待っていた。彼女の目を見つめていると思わず笑みが溢れそうになった。彼の心の奥底に潜む性的な関心が、彼女の眼差しに侵されていく。まるで彼女の方からその気にさせるように誘導されている気分だった。


 だが、彼女の態度がどこか腑に落ちなかった。父親が危篤だというのに妙に落ち着いていたのだ。車が故障して切羽詰まっている様子もない。元々親子関係がそこまで親密ではなかったのだろうか。今はそんなプライベートなことを聞ける間柄ではない。


「大丈夫なんですか? お父さん」


 この質問をするだけで精一杯だった。彼女の手の手の間でゴロゴロと転がされていたペットボトルがピタリと止まり、「何故そんなこと聞くの?」と言わんばかりの上目遣いで鋭い視線を向けてきた。


 ──やらかしたか。


 そう思い、和也は彼女の顔から目を逸らした。怒られるのを覚悟で身構えていたが、その予感を裏切り彼女は薄く笑みを浮かべた。


「あまり父のことは知らないんです。小さい頃に両親は離婚して、父だけこの町に残りました。私と母は千葉に移って、物心ついた時は向こうでの生活しか覚えてなかったんです。でも、最近また連絡を取り合ってるみたい。もしかしたら、父とも一緒に暮らせるのかなって、期待してたんですけど……。もう、叶わないのかもしれない……。あまり実感がないんですよ。自分の親だっていう……。思ってたでしょう? 父が危ない状況なのに、何でこんな冷静になれるのかって」


 まるでサイキックだ。だが、偶然かもしれない可能性はまだ残っている。自分が思っていたことをピンポイントで当てに来る人間に今まで出会ったことがない。和也は口に溜まった苦い唾を喉奥に押し込むと、その上から缶コーヒーをグイッと流し込み、額の毛穴から滲み出る脂汗を左腕の袖口で拭った。


「ふふふ。そんなこと聞いたくらいで、機嫌悪くなったりしませんよ。ごめんなさいね。変に勘が鋭いのは私の悪い癖なんです。考えないようにしてるけど、どうにも頭が変に動いてしまうみたいで。よく男性に嫌な思いをさせてしまうんです」


「あ、はぁ……」


 和也は浅く上下に首を振ると、彼女はペットボトルをテーブルに置いて席を立ち、彼の隣の椅子に座り直した。


「私、石嶋悠子(いしじま ゆうこ)って言います。こうやって、男性と二人きりで話すのは何年振りかしら。最初はちょっと緊張したけど、そこまで悪い人ではなさそうだし……」


 そう言うと、彼女は意味深な笑みを浮かべて彼の目を覗いた。明らかに彼が動揺しているのを理解できるはずだ。だが、悠子はわざとらしく視線を詰めて来る。


 もう時期五十歳の、頭頂部に十数本の白髪を蓄えた男を前にして唐突な彼女のアピールに困惑していた和也であったが、いずれこのような状況になるということはどこかで予期していたはずだ。彼女は、悠子はむしろこれが目的だったのではないかと、ちんけな脳みそで妄想を繰り広げていた。


「なんてね……冗談ですよ。大層な魅力もない世間知らずの小娘が、こんなにご立派な紳士と肩を並べて歩くのは恐れ多くてできませんわ」


 ──ご立派な紳士だと?


 和也の胸板が熱くなり始めているのに気がついた。それは、彼女に対する僅かな怒りを繊細に感じ取っているからだろう。背中に小さな虫食い跡がある淡いブルーのTシャツと、この貧乏そうな、今にも膝小僧が擦れて穴が開きそうになっているジーンズを履いた中年の男のどこが立派だと言うのだろうか。写真家として名を馳せる夢を追いかけ続けたこの男が、たった一人の愛する人の死で堕落していった内情を知れば、容姿端麗で、微かに鼻をつく独特な香水が香る黄色い花柄のワンピースを着た彼女だったら逃げていくに違いない。


 服装は、その人の性格と経済的な差を表現するには相応しい。人の人生は、大方見た目で決まっているようなものだ。顔の造形が醜ければ醜いといわれ、汚い服を着れば汚い人間だと罵られるだけだ。きっと彼女は、そんなことを言って心情は自分を嘲り回しているに違いない。


「本当ですよ。馬鹿にしてません。あなたの顔を見れば分かるんです。あなたは素敵な人。それに、もし嫌な人だったら、あの時私のことを助けたりしなかったでしょう。厄介事に巻き込まれたくなくて逃げていきますよ」


「そういうもんなんでしょうかねぇ……」


「ええ、今まで私と付き合った男性はみんなそうでした。都合が悪くなるとみんな逃げ出すんです。ほとんどは、私の秘密を知った直後でしたけどね」


 秘密か。それは興味深いものだ。一体、彼女のその完璧ともいえる容姿にどんな秘密があるというのだろうか。それとも、身体とは関係のない別のところにあるのだろうか。


「ご職業は、何をされているの?」


 悠子は話を切り替えて彼の職業を聞いてきた。本格的に彼のことを気になり始めたのだろう。


「一応、フリーランスの写真家をしています。昔はよく全国を飛び回って写真集を出していたのですが、妻が亡くなってからどうもそんな気にはなれなくてね。仕事の受注以外はカメラに触らないことにしているんです」


「……その理由だけで?」


「はい?」


 悠子は、何か物申したげな態度で首を傾げた。和也は不機嫌そうに空になった缶の口の中を覗き込んでいた。缶の内部は闇に包まれ底が見えない。まるで自分の今の人生とそっくりだ。そこに人差し指を入れたら二度と抜けなくなってしまいそうだ。


 そんな意味のない恐怖感を味わった後、ふと気になって悠子の顔を見上げた。


 悠子は気不味そうに俯いていた。性格上、思っていたことが咄嗟に口に出てしまうタイプなのだろう。その申し訳なさそうな表情を見て、彼女に悪気がないことは一目瞭然だった。


「ごめんなさい……。でも、なんか勿体無いと思います。奥さんを亡くされて、それはとても悲しいことだと思いますが、好きなことを我慢してまで自分の殻に閉じ籠ってばかりの人生は、つまらなくないですか? そういう出来事があったからこそ、自分の生き方を見出すべきだと思うんです。その、奥さんの……分まで」


 ──自分の生き方か。


 写真家としての道を諦めたわけではない。今も仕事は続けている。だが、彼女が亡くなってから仕事以外は写真と距離を置いていたのは事実であった。彼女を思い起こさせる何かが紙一枚に広がった世界のどこかに現れそうな、起きるはずもない不可能なことなのに漠然とした不安感を抱えていた。たった一度だけ写すことを許された彼女の写真を取っておけば、それで十分であった。


 それはそうと、その写真は今車の助手席に置き去りにされている。まだレッカー車が来るまでの時間は十分にあった。和也は仕切りに何かを探すふりをして彼女の気を逸らした。


「何か探し物ですか?」


「あぁ、煙草を車に置いてきたみたいだ。取ってくるよ」


「そうですか……。じゃ、待ってますから」


 何か思い詰めたような喋り方だった。和也は席を立って、出口に向かって急ぎ足で二、三メートル歩いたが、冷たいものが背中の中心から腰にかけて撫でるような感覚に陥った。てっきり、悠子がペットボトルのお茶で悪戯を仕掛けているのかと思いため息混じりに振り返ったが、彼女はあれから人が変わったように席に座ったまま俯いて微動だにしていなかった。


 ──奇妙な女だなぁ。


 妻に良く似た容姿といい、まるで心を読まれているような言動といい、どこか人離れした異質なものを見ているような気がした。ついさっきまでお互い平気で喋っていたのに、徐々に重苦しい雰囲気に変わっていく。そこにただ座っているだけの彼女を、なぜか不気味に感じてしまうのだ。


 この気持ちは何なのだろうか。相手が女性だからか。それに加えてまるで妻の生き写しのような彼女を、どうしても憎むことはできなかった。赤の他人だったら「大きなお世話だ」と喧嘩が始まっているかもしれない。だが、彼女の目の前で、そんな野蛮な負の感情を表に出す気にはなれなかった。


 彼はもう一度表に出て、新鮮な自然の空気を吸いに行った。気持ちの整理がついたところで、写真を取りに車まで戻った。

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