写真
風丘春稀
第1話 後ろ姿
岩井和也(いわい かずや)四十九歳。この二〇二二年の十月二十日で人生の半分を迎えようとしている初老の男が、SONY製の一眼レフを右手に取り、簡素な広原に佇む古びた住宅の玄関を重そうに開け、ニョキっと頭を出して外の様子を伺った。
彼の住居は、奇妙なほど物静かな土地にポツリと佇んでいる。だが、その節々は淡く黒ずみ、塗装が剥がれ落ち、グレーのコンクリートが剥き出しになったまま、その表側から茶褐色の頑丈な蔦が覆っていた。この状況を見ると、今にでもリフォームが必要な状態であることは明確だ。だが、今の彼にはそんな余裕はない。
彼は「はっ」と息を漏らし、何かを思い出したかのように玄関を閉め、再び部屋の中に戻っていった。
起きてすぐに写真を編集できるようにと、何台もの撮影機材とパソコンを備え付け、編集室を兼ねた寝室の扉のドアノブに手をかけた。『ギギィ』という扉の付け根の金属が擦れ合う音が、無音の室内を走り抜けた。
入ってすぐ左手にある純粋無垢な白いデスクの中心には、黒縁の写真立てだけが置かれている。その周りには機材の説明書やヨーロッパで撮影された歴史的建造物や自然の写真集などが散らばっており、向かい側には空のカップラーメンの容器と、それに不釣り合いのワインボトルが横一列に並んで置かれた汚らしい木製デスクが、羨ましそうに写真立てを睨みつけていた。
和也は部屋に入ると、ゆっくりと写真立てに歩みを寄せていった。大事そうにそれを手に取ると、写真立ての脚を閉めて扉の方へ振り返った。その写真は白黒で少し色褪せており、どこか怪しげな髪の長い女性の後ろ姿のみがレンガの建物の前に佇んでいただけであった。
和也は、その女性の服の色だけはすぐに想像できた。彼は彼女の真の姿、そしてこの場所の本当の色を知っているからだ。
喪服のような、光を拒絶する暗黒のワンピースに身を包んだ彼女が、男性の「いいよ」という合図と共に振り向く直前の姿であった。恥ずかしげに顔を俯かせながら、ゆっくりと男の顔を見る。
あの日は、確か三回目の結婚記念日であった。二十六歳の彼は、まだ十九歳であった彼女とアルバイト先の喫茶店で知り合った。始めは他愛もない会話を交わすだけであったが、見る見るうちに彼女の若干低音な声と、年相応ではない大人びた口調、そして丸くふっくらとした頬に惹かれ始め、憧れの写真家への夢を叶えた新人コンテストの入賞と同時期に、彼女からプロポーズを受けた。咄嗟に「イエス」答えたその日から、彼女との生活が始まった。
だが、そんな幸せな生活は長く続くことはなかった。その五年後、若くして彼女に白血病が発覚し、数ヶ月後にはもう病状が悪化した。彼女を蝕む病魔はあっという間に全身を覆い尽くし、それまで生き生きとしていた彼女は、養分を吸い尽くす悪魔のせいで骨の関節が浮き出る程まで痩せこけてしまった。
最後は自力で歩くこともままならなくなり、ベッドで寝たきりの生活を送っていた。彼は動けなくなった彼女の食事や排泄の介助をし、その間彼女はずっと弱々しい声で「ごめんなさい、和也」と泣きながら謝り続けていた。その言葉が、次第に彼にとって重苦しくなり、自らも涙を流してしまったことが幾度とあった。
彼女の命が、この腕の中で消えてしまうのが耐えられなかった。重い薬の副作用と闘いながら、それでも彼女は、彼が撮った写真がぎっしりと貼られたアルバムを手に離さず持っていた。それは彼女のお手製のアルバムで、今まで撮ってきた写真は一枚も漏れることなく、年月日が正確に並んでいて、彼女の神経質な性格を物語っていた。
病気で外に出られなくなった彼女の精神を癒してくれたのは、唯一和也が撮った写真集に映し出された自然豊かな風景だけだった。写真を見るなり今までの記憶を呼び戻し、弱り果てて重くなった体を無理やり起こしてでも思い出話を笑って語ってくれた彼女の顔を、二十年以上経った今でも忘れられなかった。
だが、彼の手元にある彼女の写真はこれ一つだけであった。彼女は初めて出会った時から写真に映るのが嫌いだった。『写真』が嫌いというより、自分の『顔』を自分で見るのが嫌いらしく、鏡を見ることも苦手なようであった。なので、彼女は化粧をほとんどしなかった。けれども、若い子が好むような化粧などというものは、彼女に相応しくないと言っていいほど類稀な整った顔立ちが印象的であった。
だが、それが面白くないのか、おっとりした彼女の態度を嘲笑うバイトの先輩共がいた。彼女の長く艶のある髪を、ホラー映画に出てくる『リング』の貞子みたいだとからかい始めたのだ。初めは彼女も無視していたが、徐々にからかいがエスカレートしていき、それが嫌で次の日はバッサリと髪を切ってショートにしてきた。
いじめていた先輩の女たちはたじろいでいたが、彼女は気にも留めず歩み寄り、「冗談じゃないわよ」と長い間溜め込んでいた憎しみをぶつけるように怒声を放ち泣かせたことがあった。その後、その女共は彼女の顔を見ると何も言わず軽く会釈を返すだけになり、彼女は勝ち誇ったように堂々と二人の間を割って歩いた。その光景を見ておかしくなってしまい、笑いを堪えるのに必死であった。
普段は穏やかで話しかけやすい雰囲気を出していたが、自分を敵視してくる存在に対しては手加減無しの反撃に出る、少し変わった人柄であった。気弱な性格の和也は、その気性に少なからず頼っていた節があった。
この写真を見る度に、レンズとは反対側を向いた彼女の素顔が鮮明に映し出される。まるで昨日出会ったばかりのような、正確で、僅かな造形の狂いもなかった。だが、彼の中に今まで彼女には聞くことができなかった、たった一つの疑問が残っていた。
──なぜ自分の顔を嫌がるのか。
彼女の顔に対して、文句なんてこれっぽっちもなかった。テレビに出てくる有名な女優やモデルと並んでも違和感のない、細い鼻筋と、厚くも薄くもない小さな唇。ぱっちりとした二重で、笑うと薄く涙袋が現れる。一体この顔のどこが気に入らないというのだろうか。
「私を忘れて」
死してもなお、その写真の向こう側の世界に生きる彼女が、彼にこう訴えかけてくる気がした。だが、それとは真逆に、彼を見たいという彼女の願望が背中から滲み出ているのに気がついた。
「なんで、こんな写真撮ったんだろうなぁ」
和也は独り言を呟くと、肩にかけていた仕事用の黒いバッグのファスナーを開き、その写真が傷つかないように優しく入れて部屋を出て行った。
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