相対的自己認識論Ⅱ
清寺伊太郎
とある教室にて
それは小さな暗い部屋だった。真っ黒なカーテンを閉め切り、外部からの光は遮断されていた。月曜三限、秋の晴天を否定する、もの寂しい部屋だった。
しかしそれには理由があった。しんまりと座っている老教授がデスクの脇をこそこそ弄っている。少しすると、上の方から派手な機械音を鳴らしながらスクリーンが堂々と降りてきた。教授の挙動しか見るものがなかった僕は、ハキハキ動くそれに救われたようにその視点を移した。花道を歩く歌舞伎役者のようであった。何やら教授はスクリーンは使って僕らに映像を見せるつもりのようである。だから暗い。学生は僕以外に十数名。皆スマホの画面に夢中であった。青白い光が学生の顔をやけに不健康に見せていた。スクリーンが定位置で止まり、また教授が何やらごそごそと脇の方を弄り始めた。手持無沙汰になった僕は皆のようにスマホを眺めた。うちで飼っている犬の写真がホーム画面に表示された。この画面を友人等に見られると、しばしば「女かよ」などの言葉を受ける。冗談だとは分かっていても、イライラするばかりで何も言い返せない。しかし変えるつもりはない。この画面を変えないことが僕なりの最大の抵抗になっているのである。
スクリーンに光が灯る。いよいよ始まりそうである。学生らも上目遣いで大画面を見やった。しかし途端に画面が暗転し、「ディスクが挿入されていません」の表示。僕は落胆した。
「あれれぁ。おかしいねえ。どうしようかねえ。ええと…分かる方~」
心臓がどきんとした。僕の中に迷いが生まれた。できる…かもしれない。確信はない。でもディスクの挿入なんて別に大した作業ではない。しかし、わざわざ目立ちに行くのも馬鹿らしいような気がした。席は教授のデスクまで近くはない席の横に荷物があって歩きづらそうだ。行くべきか。行ったらどうなる。行かねばどうなる。直せればどうなる。直せなければどうなる。勘定…勘定…脳内、勘定。
「はい!手伝います!」
快活な声が暗い部屋に響いた。背の高いスラっとした女性だ。また心臓が響いた。「やられた…と感じた。」自分が行けばよかったと後悔した。あともう少しで結論が出ていたのに、後三秒もあれば僕は間違いなくこの手を挙げていたのだ。僕がこの教室で抜きんでることができるはずだった。僕は彼女の背中を恨めしくみるだけだった。僕よりも後方に座っていたのに迷いなく行ったのだ。完敗だった。あとできることは彼女にも解決できずに、ついに僕に出番が回ることだった。しかし彼女ができないのであれば、問題は少々複雑かもしれない。であれば僕に解決できるだろうか。彼女の二の舞になるのでは?結局僕にはどうするのがいいのか分からなかった。
彼女は大して間もなく、戻ってきた。表示されないのは単に接続の問題であったらしい。僕は茫然とした。取るに足らない理由。拍子抜けもいいとこだ。こんなものならば行っても行かなくても同値だ。
「ああ、ありがとう。これでできますよ。ほんとに助かりました。」
悔しい。感謝、そうか彼女は感謝に値した。人の窮地を一つ救った。大枠ならばヒーローだ。通路の邪魔な荷物をものともしない闊歩はまるで凱旋だ。一方僕は傍観者、何もしなかった。できたのにしなかった。くそう、今日はなんだか調子が悪い。暗いからか、いやな記憶が浮かびそうだ。そう、あの声だ。あの献血を求める声だ。こっちはただ歩いていただけなのに、その声が聞こえると僕たちは瞬時に判断を迫られる。現実を突きつけられる。
「献血やってます!医療機関で血液が不足しています!どうか協力を!血を分けてあげてください!」
うるさい!やめてくれ!そこを通れないだろう。だって、もしも、そこを無言で通ったら、僕は見捨てることになってしまうではないか。健康で、充分な血液。僕のことだ。僕のことを言っているんだろう!…いや、違う。僕は昔一度手術のためにいっぱい血を抜かれたんだ。そしてその時ふらっとした記憶がある。貧血だ!僕は貧血なんだ。僕の造血幹細胞は僕に似て面倒くさがりだからあれ以来、赤血球やら血小板やらは大して増えてないと思うんだ。ほらみろ、ふらふらり、ふらふらり。この歩みを見ればわかるよね。ようし、これで通過できるぞ。ふらふらり、ふらふらり……。
「ゴホン…ええと、それでは、今日はね、まず動画を見てもらいます。ええと、この映像をご覧ください。…VTRどうぞ。」
教授は仕切り直し、少しユーモアを含めて我々に言った。混濁した僕の脳内にはその渇いたユーモアは新鮮な空気のように感じられた。笑いはしなかったが、僕は落ち着いた。
「皆さんこんにちは。人間心理研究所の
「アシスタントの
なんだこれは。と正直に思った。自動車教習の学科でこんな映像を見せられたような気がした。アップテンポな音楽と、ポップな効果音。頭の中で比較すると、むしろこちらの方がキナ臭くて、チープであった。
「今日は、同調圧力と権威への随従について考えていくよ。みんなにはこんな経験はないかな?五人のグループで旅行先を決めるとする。順番にどこ行きたいかを言う。一人目二人目、三人目まで皆、スイスに行きたいとする。そして自分の番が来た。本当は国内にしたいけどなんか言える空気じゃないし私もスイスにしよう。という風に。」
「あー!よくあります!自分の意見はあるけども、何というか~全体の流れを切ってまで言うことでもないのかなーって思って、無難にみんなに合わせるって時、ありますねー。」
「これを見てください。ある研究では一人のサブジェクトと何人かのサクラを用意して、簡単な選択問題を数十問をやらせます。この問題は一人でやれば9割方全問正解できます。しかし、サクラにすべて同じ間違った選択肢を選ぶように指示すると、全問正解したサブジェクトは僅か3割ほどになってしまいます。これが同調性の強力さです。」
カチッ。
「はあい、一旦止めます。どうでしょうか皆さん。誰もが経験したことあるんじゃないでしょうかねえ。では、少し聞いてみますか。あるよーと言いう方は挙手をお願いします。」
この話をされた後だからこそ、僕はいち早く手を挙げた。できるだけ前を見続けて。それでも高さに少しの躊躇いが顕れてしまった。自信なさそうに周囲を見ながら手を挙げた人間は阿呆なのかと思った。こっちが恥ずかしくなるようだった。結果的には全員が挙げたようである。すでに何か試されているような変な予感がした。
「やはりそうですか、全員ですね。では、一番早く手を挙げた、手前の、はい。そちらの方ー、この同調圧力というものについて何か意見はありますかな。」
僕は自分よりも早く手を挙げた人間がいることに驚いた。少なからず高さが影響したようにも思う。
「僕は、そうっすね。逆かなって思います。実際の空気感にもよりますけど、ある意見が出たら基本的に違うのだしたくなるんすよね。まあこういうの逆張りっていうのかもしれないですけど。でも、やっぱ意見のすり合わせとか、ほかの視点って重要だと思うんで、あえてほかのことを言うことの方が多いと思います。なんで、結局その個人がいろいろ考えて圧力に屈するかどうかだと思いますよ。どっちがいいとか言うつもりはないっす。」
基本的には僕も同意だった。だからこそ逆を突くために、何か反論の余地を探した。しかしそもそも何か自分の考えを主張しているわけではないために、議論の余地はあまりなかった。形式として、最後を曖昧にして決定するのを嫌う、逃げに走ったな、と軽く鼻で笑った。
「そうですか。確かにそうかもしれませんねえ。ええと、では、そちらの、男性の方もいいですか?少し迷っていたようだったので。その理由とともにお願いしますね。」
「え、…は、はあ。」
彼はこの老教授に見られていたのだ。思いのほか油断ならないようである。僕は、背筋を伸ばした。
「もしも嫌なら断ってもらって構いませんよ。その際ははっきりと申してくださいねえ。大学生ですから、自分の意見くらい言ってもらえるとありがたいです。」
「…大丈夫です。はい。い、言います。」
「ではどうぞ。」
「すぐに挙げられなかったのは、自信がなかったからです。あと…別に挙げる必要もないのかなと思ったからです。見られてないだろうし、さして影響ないと思ってて……」
思いのほか正直に自分の悪いところをしゃべるのだなと意外に思った。ただ言っていることはまさに無責任の体系そのものであると、あまりに典型過ぎて感心した。そしてこれまた終わり方がよくない。というか終わってない。自分の言葉さえも人任せに終えようとしている。
「…同調圧力についてもお願いします。」
しばし沈黙。
「…僕は、圧力が嫌いです。」
興味を引く一節に僕は振り向いた。
「プレッシャーに弱いんです。僕はピアノを高校までやってたんですけど、ピアノのコンテストの時も失敗してはいけないと思うと手が震えるんです。それで失敗してしまって自信を無くすんです。本当はそれ以前からですけど分かるようにそっからはそのループですよね。結局は圧力に勝つには、圧力に勝っていないといけないんですよ、僕にはこれの意味が分からない。だから極力リスクは侵さないんです。合わせるっていうのは僕にとってそういうことです。」
始めのフレーズ以外は大して興味がなかったが、心の内で理解している自分もいた。できるだけ強くいようとするが自信がない時は必ずある。そこで転べば確かに痛手となる。しかし、そこはチャンスにもなるのだ。彼は勝負所を理解していない。自信を取り戻すには戦わないといけない。
「素晴らしいですねえ。ありがとうございますう。あーと、それでは続きを…流しますねえ。」
カチッ
そこからは再現VTRが流れた。退屈な映像と言えばそうだった。しかし、丁度話したりした同調圧力についての例がやけに具体的で、リアルに映し出されていた。予算がドラマの内容に持っていかれたのだろうか。映像の途中で何人かが退席したような気がした。開いた扉から漏れ出る光はとても眩しくて、僕の黒いパーカーがそれを吸収して背中が温かかった。何故か涙が出そうだった。
相対的自己認識論Ⅱ 清寺伊太郎 @etuoetuoduema
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