第3話 死をもたらす一筆
家に帰って十数分。親からの呼び出しは夕食の連絡だった。
普段と変わり映えのしない、鮮やかな食卓。それをちゃんと四人で囲んで食べるのがうちのルールだ。
一つ一つの咀嚼を丁寧に行い、食事が終わったのは二十分後。さっきスマホに収めた光景をさあ描こうと席から立ち上がろうとした瞬間、僕は呼び止められた。
「紅晴、ちょっと座りなさい」
「え? うん、分かった」
あまり表情を変えない父親の表情は、今日に限って少し歪んでいた。それも、あまりよくない方向に。
「清菜はお部屋、戻っていてくれる?」
母さんの声は妹の清菜に向けられる。清菜は「えー」と不満を漏らしながらも、聞き分けよく階段を上っていった。リビングには三人だけになる、
おそらくこれが僕にとって良くない話だと高をくくって、僕は椅子に座りなおす。
結果から言うとそれはあたりだったようで、すぅ、と小さく息を吸った父さんが少し冷めた声音で僕に問いかける。
「進路希望調査、今日貰ったらしいな」
「ああ、うん。あとで出すつもりだったんだけど」
「……なんて書くつもりだ?」
その答えを分かっていながら、父さんは僕に質問を投げかけた。少し嫌な気持ちになりながらも、僕ははっきりと今の意志を答える。
「進学するつもりだよ。……芸術科のある大学に」
「……そう言うだろうとは思っていた」
放たれるため息の色は深い青、落胆の色だ。無理もないだろう、父さんは僕がこの道に進むことに反対しているのだから。
最初は純粋に僕の描く作品を褒めてくれていた。けれどそれが未来を纏い始めた時、途端に色を変えたのだ。
「考え直す気はないのか?」
「今のところは、全く」
「……その割には結果が伴っていないと、この間顧問の先生から聞いたが?」
どうやら僕の知らないうちに長岡先生が余計なことを喋っていたようで、父さんの目はたちまち鋭くなった。僕のレールに一本の釘を刺す。
僕が黙り込んでいると、もう一つため息をついて少し話をそらした。
「どうして、絵を仕事にしたいと考えるんだ?」
「好きだからだよ、それ以上もそれ以下もない」
「それで挫折していく人間がどれだけいるか、知らないお前じゃないだろう?」
次第に父さんの語気が強まっていく。火が付くかどうかの境界線のところで、母さんが横から「まあまあ」と宥めた。場の空気を一度緩和させ、自分のターンに持ち込む。
「ちょっと賢生さん、詰めすぎじゃないですか?」
「けど、もう高校二年生の十月だ。悠長なことを言っている時間はない」
「それは分かっています。……けど、紅晴の人生は紅晴のもの。私たちの願いと要求で雁字搦めにしてしまってはいけないって思いませんか?」
「……それはまあ、そうだが」
母さんの言葉に思うところがあったようで、父さんは一度ヒートアップしていた心を落ち着かせる。僕はすかさずその助け舟に乗った。
「もちろん、父さんの思いも分かるんだよ。絵なんて稼げる仕事じゃないって、そう思っているんでしょ?」
「ああ。俺は、そんな世界で行き詰って路頭に迷うお前を見たくはない」
「……そうだよね」
相槌こそ打つが、納得してなどいない。どころか腹を立ててしまいそうにもなる。
確かに聞こえのいいことは言っている。僕の未来の安全を願ってくれているのだろう。
けれど、父さんは僕が絵で成功するなどと全く信じてくれていない。真正面からそれを否定している。実の息子のことを。
せめて二人には僕の味方であって欲しい。だからこうして自分の息子のことを信じない父親という肖像を、僕は認めたくなかった。
だが、言い返すことは出来ない。なぜなら僕は、信じてもらえるだけの結果を出せていないのだから。
昔はもう少し二人に希望を与えることが出来ていた。中学生の頃は、市のコンクールはおろか、県単位でも僕の絵は高い評価を受けていた。
それが、清菜の手によってすべてが歪んだあの日から、そういった結果が付いてくることはなくなった。黒色を忌避し始めた僕の絵は、評価されなくなった。
もしそうなら、あの頃の絵さえ取り戻すことが出来れば、僕はまた認めてもらえるかもしれない。自惚れではなく、積み上げてきた賞賛の歴史を信じている。
でも……あの頃の絵を模倣するだけの美では、もう僕は満足できないのだ。
しばらくの無言。その間に父さんの方も言いたいことの整理がついたようで、さっきよりずいぶんと落ち着いた声音で僕に尋ねてきた。
「なあ紅晴、何も絵を描くなと言いたいわけじゃないんだ、俺も。お前が絵を好きなことも理解している。……だからこそ、趣味で留めることが出来ないかと思うんだ」
「趣味で、か……」
「好きなことで食っていくことは難しい。それは食い扶持の問題だけじゃなくて、好きなことが義務になってしまうこともそうだ。仕事になってしまうと、お前も自由気ままじゃいられなくなる。果たしてそうなったら、お前は絵を好きなままでいられるのか?」
「……分からない」
今でさえ、美への好意にヒビが入ろうとしているのだ。とてもじゃないが、大丈夫などと言い切ることは出来ない。
「だったら、なおのこと認められん。やっぱり俺は、お前のことを応援できない」
「っ……」
分かってはいたが、今の父さんを説得するのは無理な話だろう。勝ち目のない提案を長々と続けるほど、僕は愚かではない。
なら、今の僕には何が必要か。父さんを説得できるだけのカードがあれば、すべては覆るはずだ。
今の僕に必要なものは……結果だ。
「だったらさ、父さん。今度の絵画コンクールで考えてよ」
「コンクールか。何回ある?」
「あと、二回かな。そのうち一つは来週末にあるから、そこで結果を出す。そうすれば父さんも少しは納得できるでしょ?」
「……少しは、か。そうだな。少しはそう思えるかもしれん」
それで十分だ。橋は一夜にして成らず、積み重ねたレンガが組み合わさってようやく形を成す。
対岸は僕の夢だ。今いる位置からは霞みこそしているが、見えてはいる。そこに向けて僕はレンガを積み続ければいいのだ。
だから、今は少しでいい。
父さんはようやく深く頷いてくれた。その一方で、僕の語る未来への展望を否定する言葉も吐く。
「これだけ啖呵を切ったんだ。もし達成できなかった時のことは、……分かっているな?」
「……そうなる未来は見ないよ」
失敗することは考えたくない。考えてしまうと、失敗したときの言い訳を考え、逃げるような思考になってしまうから。
いつだって美術家の脳裏にあるのは出来上がった絵のビジョンだけだ。崩れた世界も、歪んだ世界も必要ない。
そこで張り詰めた糸が切れたのか、父さんは、ふっ、と短い息を吐いて笑った。
「とはいえど、お前が納得できる絵を描けることを、俺は信じているからな」
「ありがと、父さん。……今はその言葉だけで十分だよ」
僕の全てを否定しているわけでないという父さんの言葉。きっとその言葉の裏には抱え込んだ複雑な気持ちがあるのだろう。作り笑いの向こう側を見る術を、僕は知っている。
それを全部胸の奥の方へ押し込んで、父さんは僕にこの言葉を託したのだ。それに突っかかるのは野暮でしかない。
「じゃあ、プリント後で出すから」
今度こそ席を立って、僕は自分の部屋へと帰る。ドアの前のプレートを『作業中につき立ち入り禁止』にひっくり返して。
一呼吸の後、ひとしきり机の上のごちゃついだもの一式をまとめて、そこに画用紙を広げる。隣に置いてあるスマホの中に写された景色は、まだ美しかった。
缶ケースにしまわれた色鉛筆を卓上に転がし、まずは太陽を司る赤、橙を取り出す。
続いて地を描く灰と、……黒。
掴もうと伸ばした指先は震えたが、何もこの色で全てを塗りつぶすわけじゃない。自分に言い聞かせて、筆を寝かせて薄く広く足元を作る。
避けたかった作業を何とかこなして、あとは無数に生える建物を作り上げていく。影はグラデーションなんかを用いればうまく作れるし、これ以上黒は必要ない。
描き始めて一時間半、先ほど瞳が捉えた世界が、僕の手によって描かれる。
……けれど、おかしい。僕は違和感に気が付いた。
この絵には、生気が吹き込まれていなかった。あの時感じた一つ一つのドラマが、ここでは皆死に絶えている。ただ淡々と光景が写されただけであって、それは動かないただの絵だ。僕が作りたかったものは、こんなものではない。
「なんで……、どうしてだよ……?」
先ほど捉えた光景に、そんなドラマなどなかったとでも言うのだろうか。……いや、違う。僕がこれまで見てきた世界に生気がないことなど一度もなかった。
だとしたら……これは、僕が至らないからか?
昼間から、いや、三年前から思うように描けなくなっていることに、いよいよ焦燥感が募りだす。僕の絵の迷子はもはや重病なようで、衝動などでそう簡単に抜け出せるものではなかった。
「……くそっ!」
いよいよ腹が立って、机に拳をぶつける。ゴンという鈍い音とともに痛みがやってきても、僕の興奮はまだ冷めることはなかった。
僕は、なんのために絵を描いている?
最初の問いが脳裏によぎると、ますます気持ちが悪くなった。長岡先生の言った通り、僕の絵はだんだんと虚無を彷徨うものとなり始めている。
そんな絵が、誰かに届くことはない。僕にも。
でも、描かなければならない。僕は絵が好きで、これを仕事にしたいと思っているし、そのための結果が必要なのだから。
やり直すと言わんばかりに新しい白紙の画用紙を持ち出して、もう一度あの光景を脳裏に映し出す。再現などではなく、今度は自分の筆で描こう。
手元に転がっていた黒鉛筆を端の方にはじき出して、僕の手は再び走り出す。
21グラムの絵画 入賀ルイ @asui2008
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