第2話 黒影、忍び寄って
正門をくぐったあたりで、後ろから「よっ」と軽いトーンで呼びかけられる。少しだけ安心できる声に僕の胸の憂鬱は少しだけ冷めた。足を止めて、振り返る。
そこに立っていたのは、バイオリンのケースを背負った幼馴染の柴山三弦だ。後ろ頭に手を組んで、あっけらかんとしている。
「この時間に出てくるということは、今日も居残りの説教と見た」
「……あたり。そういう三弦は……、まあ、聞くまでもないか」
何も用事がないのにバイオリンなんか背負って学校に来たりはしない。大方、空き教室を借りて一人で練習でもしていたのだろう。
「こんなところでだらだらしていてもなんだ、さっさと帰ろうぜ」
「そうだね」
三弦とは幼稚園から高校までずっと一緒。当然、家も近いのでよくこうして一緒に帰ることになっている。それが息詰まった僕の心の安寧でもある。
「それで、今日の説教内容は?」
最初の信号にぶつかったところで、自然と三弦が尋ねてくる。あまり傷を掘り起こされるのは好きではないのだが、今僕の鬱憤をぶつけられるのは三弦しかいなかった。向こうも聞くつもりがあるのだろうと判断して、ため息交じりに僕は語る。
「いつものだよ。……また、使えなかった」
「黒色が、って奴だよな。やっぱり、三年前のことを気にしているのか?」
「忘れたいとは思っているんだよ。じゃないと変われないことも、もう十分に理解しているつもり。……なんだけど、ね。やっぱり、美しくないんだ」
もう何度同じような愚痴を三弦に聞いてもらったことだろう。それでいて、こうしてまだうんうんと頷いてくれる三弦のやさしさが、嬉しくて心が痛い。
けれど、今日の三弦は違った。僕の目をじっと見つめたまま、何かを言い出そうと機をうかがっている。
まさか説教ではあるまいと思いつつも先ほどの光景を思い出し、少しだけ背筋を張る。
そんな警戒態勢の僕に三弦がかけた言葉は、だいぶ僕の想像しているものと違った。
「紅晴さ……なんか変わった?」
「え?」
「昔さ、紅晴はよく言ってたよな。誰かの心に届く絵を描きたいって。それを一番にしたいって。けどさ、ここ最近ずっと思ってたんだよ。なんか、自分を納得させる絵に固執していないか、って」
「そんなこと言ったっけ?」
少なくとも、それを表立って言葉にしたことはない。存在しない記憶に、僕は首を傾げた。
ただ、三弦の方は僕に心変わりが生まれていると信じて疑っていないようで、うんと頷いた後、言葉をつづけた。
「直接は言ってないと思う。けど、『自分の中で美と思えない』ってよく言ってるよな。それって、自分を納得させたいって思ってることじゃないのかなって」
「どうなんだろう……。ちょっと分からない」
「もし紅晴が黒を使うのを拒んだとして、それで紅晴は十分納得できるかもしれない。けど、もしそこで黒が描かれたものを周囲の人が美と捉えたら、紅晴はどうするんだ? 当初の目的だった、誰かの心に届く絵が描きたいって思いに矛盾が発生しないか?」
「それは……」
三弦の指摘があまりにも鋭いものだったために、僕はたちまち硬直した。そして、その言葉は間違いなく正しい。
僕は、自分が絵を描く目的を、見失いつつあったのだ。
もともとは、誰かのために絵を描いていたつもりだった。褒められるのは好きだったし、自分の絵を美しいと言ってもらえることは、僕という存在を認められることと同義だと思っていた。それが少しずつ、僕の存在意義にもなっていた。
けれど今僕は、「自分の描く作品において黒という色は美しくない」と割り切って、逃げようとしている。それは間違いなく、僕のための絵となっている。そうすればどうだ、誰かに評価されることもなくなるだろうし、ゆくゆくは存在意義すら失う。
僕が迷っている場所は、そんな絶望の渦中といっても差し支えない場所だった。
そう思うだけで、途端に胸が苦しくなる。まるで自分に存在価値がないのではないかと疑い始めて、頭痛すら起きそうになる。
その時、背中が摩られた。三弦がいち早く僕の異変に気が付いたのだろう。
「……悪い、言い過ぎたか」
「ううん、三弦は悪くない。これは僕自身の問題で、三弦は当たり前のことを言ったまでなんだ。……そうだよ、僕は自分が絵を描く目的を見失っているかもしれない」
「じゃあやめるか、……って訳にもいかないよな」
苦い表情をしながらも、僕は確かに頷く。
こんなところで、逃げたくはない。それこそ僕が生きている意味がなくなってしまう。
目の前のキャンバスに色を塗る目的を見失うような愚かな僕だけど、自分の世界は色で満ち溢れていると信じていたい。それが一生続くものだと信じていたい。
どれだけ最初の一歩を忘れようと、その前の原点にあった「好きだ」という気持ちだけは失いたくなかった。そうでもしないと、僕がある意味全てが無くなってしまう。
そんな悩みは、絶えることなく脳の海を泳いだ。消えたと思っても、すぐに顔を覗かせてくる。いよいよ嫌になりそうだった。
大通りに架かる歩道橋、その真ん中で僕は天を仰いだ。しばらく無言を貫く僕を三弦はじっと見つめたまま待つ。
その末に、僕は口を開いた。
「三弦はさ……、なんで音楽やってるんだっけ」
「ん、俺の音楽の話か? 多分、根幹は紅晴と一緒だよ。好きだから、ってだけ」
「将来仕事にしよう、とか思ったりは」
「してるよ。多分、そこも紅晴と一緒」
もう何度も行ってきた問答。返ってくる答えもいつも通りであることは知っていたが、今日はその先に踏み込みたくなった。
「好きを仕事にすることって、難しくない?」
「難しいとは思うよ。けど、不安はない」
「どうして?」
仕事にしてしまう以上、期待外れが起きてしまうと、聴衆の行動は落胆のため息を越えてしまう。人によっては攻撃を行うだろう。命すら狙ってくるかもしれない。
絵も、音も、言葉も、プロになってしまった以上、美は誰かの期待と隣り合わせになるのだ。その中で結果を出し続けることが仕事となる。その中で僕らは、最初にあった「好き」の気持ちを絶やさずにいられるのだろうか。
その問いに対しての三弦の答えは明快なものだった。
「俺さ、決めてるんだよ。いつだって音は、美は、自分のためにあるって」
沈みゆく太陽の方に目をやって言い放つ三弦の姿は、延々と陰の中でもがいている僕とはまるで対象のように見えた。目の前のそれが、たまらなく美しいと思った。
けれど、それは外から見ているからこそ美しい。三弦が抱えている美の概念を自分のものとして踏襲したとして、僕はどこまでそれを受け入れることが出来るだろうか。
……無理だ。到底、今の僕ではそれを僕のものにすることは出来ない。少なくとも、僕は誰の筆も借りたくないと思っているのだから。
だから、もし三弦のこの言葉を自分のものにしようとするのならば、同じものを「そうである」と心から理解するほかないだろう。
ああ、僕の美は、ただひたすら遅れている。
普段なら楽しいはずの三弦との会話でさえ、憂鬱の紫に塗れてしまっている。それほどまでに、今の僕はダメだった。
せめて出来ることとして、精一杯の作り笑いを浮かべる。歯ぎしりを挟みながら。
「かっこいいな、三弦は」
「素直に受け取っとくよ。……結局、そうなんだよな。自分の好き勝手にやった美が、誰かに美しいって評されることが一番気分がいいんだ。俺はそのために、音楽をやってる」
「もし誰にも美しいと評されなくても?」
「自分がそう思っていたらそれでいいんだよ、俺は」
少しずれたバッグを肩にかけなおして、三弦は何事もなかったかのように伸びをする。それが終わるなり、ゆっくりと歩を進めた。一つ言葉を付け足して。
「さっきの話だけど、あれはあくまで俺のものだからな。世界がこうあるべきだ、とか、紅晴もそうあるべきだ、なんて、絶対に言わないからな」
「うん、助かるよ」
もしそれを全と定義されていたら、僕は今いる奈落より先に突き落とされていたことだろう。それを知っていて、三弦は何も言わない。
三弦の中にある「美」の概念は、完成されていた。
僕はそのオーディエンスだ。憧れこそすれど、手は伸ばさない。
「とりあえず、僕もまだまだ頑張らないとな」
放たれたのは苦し紛れの結論だったが、三弦は素直に肯定する。
「ああ、頑張ってくれよ。結構好きなんだぜ? お前が描く絵がさ」
それは、僕が常々一番欲しがっている言葉。なんの恥じらいもなく三弦は口にしてくれる。
だから僕は前に進みたいと思える。三弦もそうであるように、僕の描く世界を認めてくれる誰かがいることが分かっているから。
今はただ、それだけを思っていたい。
「それじゃ、さっさと帰ろうぜ。もうじき日も暮れる」
「分かった。……あ、でも待って」
三弦の言葉に同意しかけた僕だったが、もう少しだけ足を止め、カバンのポケットからスマホを取り出した。それを橋の向こうに広がる複数車線の道路とその先にある夕日に向けて、カメラのシャッターを切る。
それが終わるなり元の場所にスマホを戻して、三弦の方に向き直った。
「ごめん、お待たせ」
「いいのが撮れたか?」
「まあまあかな。けど、思えばこの場所をいいなって思うの、初めてだったから」
特になんの変哲もない、ただの光景だ。ただ車が行きかっているだけの道路に架かる夕日、所詮この光景はそれまでだ。
けれど、絵に生命は吹き込める。前を向いて走る車の中にはそれぞれの帰りを待つ人がたくさん乗っているだろうし、そこに一つ一つのドラマがある。僕が描きたいのは、そんな日常まで捉えた世界だ。
三弦はよく分からないのだろう。けれど、分からないなりに相槌を打った。
「うまく描けるといいな」
「うん。今日早速家に帰って色鉛筆でやってみるよ。こういうのは鉛筆で描く方が好きなんだ」
「好きだもんな、風景画」
「まあね」
今から先ほど視界に捉えた後悔が僕の手によって絵になると思うと、途端に楽しみに思えてきた。誰の茶々も入ることがない自分だけの世界が、こんなに清々しいとは思わなかった。
「それじゃ、行こうか」
「おう」
少し駆け足で三弦の隣に立ち、同じ速度で歩き始める。僕の美もいずれこの距離にたどり着けたらと願いながら、遅れないように、歩いていく。
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