21グラムの絵画
入賀ルイ
第1話 光無き筆先
「お疲れ様、今日はここで終了よ」
換気のためと少しばかり開けられた窓から吹き込む秋風に紛れ、顧問の長岡朱莉の声が部室に響く。それを境にして、ざわざわと聞き取れないセリフとともに、ぞろぞろと生徒が部屋を後にしていく。
僕もまたカバンを肩にかけ、部屋を去ろうとする。その時、肩に冷たい手が触れた。
「横谷君、あなたは少し残って」
「……またですか」
こうしていつも帰ろうとするたびに、長岡先生は僕を呼び止める。今日もまた説教だろう。思い当たる節がある僕は首をすくめ、目が合った仲の良い部員に手を振った。
数分もしないうちに教室は空になる。最初に漏れたのは、長岡先生のため息だった。
「……はぁ。どうしてまた、あそこで終わったの?」
「どうしても、って言われても……」
僕は、僕の思うままの絵を描いていた。今日は久方ぶりに筆が乗っていたし、やりつくすことはできたと思っていた。
ただ、僕は目の前の絵画に、黒色を塗ることが出来なかった。出来上がった光の世界に影を落とすことが出来なかったのだ。これが今の僕の特徴ではあるが、同時に欠点でもあると言われている。こうして説教されているのもそのためだ。
「人の作品にあまり口出しはしたくないけれど……。私は、あの作品は黒色に塗られてこそ初めて出来上がると思ってるの。こう、輪郭線とかだけじゃなくて……」
「なんで、そう思うんですか?」
「……今日のあなたの絵は、底抜けに明るすぎるのよ。影がないと人はそこに入り込めない。あなたも思っているんでしょう? 誰かに認められる絵を描きたいって」
「それは……そうですけど」
痛い点を突かれて、思わず苦い顔をする。少なくとも美の道を進む人間として、目の前の長岡先生は僕の先を行っているのだ。言っていることは、間違いではないのだろう。
間違いではない。……分かっている、けど。
「僕は、これが全てだと思って描いたんです。中途半端に塗られた黒は、作品を壊しかねません」
「だからここで練習しているんでしょう? それに、あなたが美術部に入ってもう二年は経っている。美の道を進むなら、もう言い訳する時間なんてないのよ? 今日、進路希望調査だってもらっているはずよ」
長岡先生は、バッグの中に入っている一枚の紙を口にする。
進路希望。これまでは美に熱中していたし、これから先など気にしたこともなかった。しかし、もうそんな甘えたことは言っていられない。僕はこれからの僕が進む道をもうじき決めなければならないのだ。
美術は好きだ。幼き日、母に頭を撫でられたかの日から、それだけが僕の生きがいとなっている。今更これを人生から切り離すことなど到底出来はしないだろう。
だからこそ、長岡先生は結果を欲しがっている。彼女なりの応援であることは、僕も理解しているのだ。
しばらくの間だんまりを決め込む僕に、長岡先生はこれまで一度も口にすることのなかった僕の核心を突く言葉を繰り出した。
「そんなに、黒が嫌いなの?」
「……そういう、わけじゃ」
分が悪くなり、徐に目をそらす。
「じゃあ、何がダメなの? どうしてそこまで、筆先に黒をつけることを拒むの?」
怒ってはいないが、言葉は厳しい。それがこれまでため込んできた鬱憤の結晶であることを理解するのに、そう時間はかからなかった。
だからせめて、僕は最大限の言い訳を語る。自分の胸の内の言葉を、ありのまま。
「黒は、破壊の色です。使い方を誤ることが無ければ確かにその先の世界を引き出すと思いますが、それ一つで、かつての世界を壊すことが出来る、そんな色なんです」
「自分の作った世界が壊されるのが嫌というわけ?」
「はい。三年前、僕の作品が幼い妹の黒いクレヨンで落書きされた時、僕はあの色に美を見出すことが出来ませんでした。それが僕の全てなんです」
色鉛筆を用いて、欧州の古風な街並みを描いていた。会心の出来だった。
それが、一度筆を止めて学校に行き、帰ってみればべったりと黒色が塗られていた。
破壊もまた美という者がこの世にはいる。もちろん、それも間違いではないのだろう。
ただ、少なくとも、僕は破壊されたあの街並みを美と捉えることが出来なかったのだ。
それが、僕の世界の限界だった。
僕の言い訳の全てを聞いて、長岡先生は神妙な面持ちで二度ほど頷いた。けれど、そこから繰り出される言葉は僕を肯定するものではなく。
「あなたの言い分は分かったわ。……だけど、それを理由にして逃げていては、多分誰かの心には届かない。美の道を進むなら、越えるべき壁なの」
「……」
「少なくとも、あなたがその進路希望調査に美への挑戦を書くのなら、私はこの言葉を言い続けるわ。……全ての色に価値を見出し、受け入れ、進まないと、あなたはもう何も描けなくなる、自分の心に届くものすら」
「……分かりました、善処します」
「次はその言葉が嘘じゃないことを祈ってるわ」
長岡先生は僕がかたくなに黒を使わない信念が折れることを信じていないのか、そう吐き捨てて先に教室を後にした。施錠担当が来るまで、この教室には僕一人だ。
あと二十分ほどだろうか。どこまでいける?
僕はキャンバスに立てかけられた自分の作品を見つめる。少なくとも、僕はこれで完成だと思っている。極力黒を使わない技法も相まって出来上がった曖昧な輪郭線がこの作品に味を出している。
鉢に植わった有象無象の花たちの絵。皆、太陽という光明に向けて背を伸ばしている。まっすぐに生きようとしている生を捉えたものだからこそ、影を落とすのが実に惜しい。
けれど、もしそこにもっと深い影がいるというのなら。
まだ放置されたままのパレットと筆を両手に持つ。もう何色に染まることもできないであろう黒色を、筆先にべったりとつけ……。
筆を持つ右手が震える。それでもなんとかとキャンバスの方に腕を伸ばしてみるが、震えの止まらない指はそこに色を付けることを拒んだ。
「……やっぱり、無理だ」
またなすすべもなく筆を置く。
一つでも誤ってしまえば、僕はこの作品を無に帰してしまう。歪んでしまった絵画に、僕はまだ美を見出すことが出来ない。かの偉人が描いた「ゲルニカ」でさえ、僕の美ではない。
僕の美は純真無垢すぎるのだろうか。ただ明るいものが好きなだけの、子供の落書きの延長戦なのだろうか。
その答えを、目の前の絵画は語ってくれない。誰かが語っても、僕はそれを受け入れない。つまるところ……。
「僕は僕の美を、まだ見いだせていないってことか」
自分の力量の至らなさに、苦笑いも出ない。
そして、分かってしまう。僕の世界は、三年前に壊されたきり、まだもとに戻っていないのだと。……そして多分、それはもとに戻ることはないのだろうと。
上り続けた階段が壊れ、叩き落された奈落の底。僕はそこで今、新しい道を探さなければならない。しかし三年間、ずっと右往左往してみては同じ場所に帰っている。
もちろん、この奈落をゴールにすることだって可能なのだろう。僕が、今の僕の全てに納得しさえすれば。
けれど、それは出来ない。だから今、苦しみ、もがき続けているのだ。
「……帰ろ」
一度今日の全てを諦めて、最後まで絵の具のついた道具の一式を丁寧に洗う。それが終わるなり、僕は少し急ぎ気味に教室を逃げ出した。
白い長方形、キャンバスの前。ずっと僕の居場所だった場所が、だんだん遠く感じる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます