A級冒険者で宿屋の婿でもあるケンの悩み

小鳥遊 郁

第1話

A級冒険者ケンは悩んでいた。

 妻であるリアへの贈り物のことだ。今日は二年目の結婚記念日。来春には一人目の子供も生まれてくる。いや、これはまだ聞いてはいないことになっている情報だ。多分、今日聞かせてくれるつもりなのだろう。サプライズプレゼントってやつだ。

 何故その情報を知っているか。それは彼女の両親の話をケンがたまたま聞いてしまったからだ。

 リアの両親はこの王都で小さいながらも宿屋をしている。ケンは冒険者をしている時もその宿屋を利用していたが、今はその宿屋の隣の家を買ってそこで暮らしている。婿養子のようなものだ。

 どうやらいずれはその宿屋を継いでほしいようだが、ケンがリアの両親からその話をされたことはない。

「やっぱり花かな。一番無難だしな…」

 懐にはこの間の護衛でもらったお金がある。髪留めなんかも良いかもしれないが、ケンは自分に選べるとは思えなかった。

(センスがないからな……)

 ケンが花屋へと足を向けたとき、行列が目に入った。

(なんの行列だ?)

 ケンはこのあたりを知っている。行列のできるような店はなかったはずだ。

 妙にその行列が気になったケンは、行列の先に目を向ける。

 その店から出たであろう男が持っていたものに衝撃を受けた。それはこの世界で目にするはずがないものだった。

 大げさではない。だってそれはケンが何年も夢に見ていたものだったから見間違うはずがない。

 いったいこの店は何の店なんだろうとケンは看板に目を向けた。そこには

『マジックショップナナミ 十八号店』

と書かれていた。

 ごくりと喉が鳴る。妻への贈り物のことはすっかり頭から消えていた。足早に行列の後ろへ並ぶ。

「あれは間違いなくマヨネーズだった。再現するにしてもおかしい。容器まで同じだなんてあり得ないだろう。いったいどうやって作っているんだ?」

 早くは早くと思うが行列は一向に進まない。落ち着け。慌てたところで時間が早く進むわけではない。

 ケンは今にも雪が降りそうな空を見て、あの日もこんな天気だったなと昔のことを思い出していた。



ケンは異世界転移者である。日本での名前は古田健吾。十五の時にこの世界に転移させられた。学校帰りだったからカバンの中には空の弁当箱とスマホと筆記用具と教科書だけ。財布の中身は日本のお金だからこの世界で全く役に立たない。

 ケンは途方に暮れた。いたずらに歩き回ることしか出来なかった。

 アニメや本の世界で異世界転移はよくある出来だったけど、自分が異世界転移の当事者になるなんて考えたこともなかった。それにアニメや本では召喚されるものだったから、周りには召喚した人がいて、手取り足取り面倒見てくれるものだったはずだ。

 こんな一人きりで、神様にも会わないで置き去りにされるなんてあり得ないとケンは憤る。だが怒ったところで誰も助けてはくれない。

あの時のケンは何もできない子供だった。この世界で十五と言えば一人前だが、日本ではまだ親に庇護されるのが当たり前の子供。

お小遣いだってもらえるのが当たり前で、食事だって作ってもらえるのが当たり前で、感謝なんてしたこともなかった。そんな自分がいきなり別世界で生きていけるはずもなく、寒さに震えて、歩き疲れた後は誰にも声を掛けることすらできずに蹲っていた。夢なら覚めてくれと信じたこともなかった神に祈っていた。

 今でも思うがそんな男に声を掛けてきたリラの危機管理は壊滅的だと思う。


「おにいさん、お腹でも痛いの? うちの宿屋はこの近くなの。もうすぐ大雪になるのよ。こんなところで寝ていたら危ないからうちにおいでよ」


 ケンより明らかに年下の子供。それがリアだった。


「…ない」

「え?」

「この世界のお金なんて持ってないんだ。だから宿屋になんて泊まれない」

「ん? この世界? よくわからないけど、おとーさんはお金ならいつでもいいよって言ってくれるわ。ううん。絶対に言わせるから大丈夫よ。ついてきて」


 小さな手がケンの手を握り立たせてくれた。

 この子供は親に叱られるかもしれないとケンは思ったが、情けないけどついていくしかなかった。ケンにはこの手を取る以外にどうしようもなかったからだ。


「私の名前はリア。おにいさんは?」

「古田健吾」

「ふるたけんご? 長い名前ね」

「ケンでいいよ」

「ケンね」



「お金がないんだって?」


 リアの父親はリアとは似ても似つかない大柄で筋肉質な男だった。


「…はい」


 暑くもないのに、ケンの全身から汗が噴き出した。


「服は変わっているが質がよさそうだ。貴族か?」

「え? 貴族? ぜ、全然違います。貴族なんかじゃないです。平民です。一般市民です」

「貴族なんかって、変わってるなお前。あいにくこの雪で部屋はいっぱいだ」

「そ、そうですか」


 やっぱり不審人物に部屋を貸してくれるはずはないかとケンが踵を返そうとしたとき、リアが怒ったような声を出す。


「もう、おとうさん。ケンがかわいそうでしょ。このままじゃあ死んでしまうわ!」

「ああ、わかってるよ。さすがに死なれるのは寝覚めが悪いからな。宿の部屋はいっぱいだが屋根裏なら空いてるからそこを使え。リアが言い出したんだから掃除は任せたぞ」

「うん。さすが私のおとうさんね。大好きよ」


 娘に大好きと言われていかつい顔がゆるむ。何とも締まりのない顔だ。ケンはそっと目をそらした。


「どうした?」

「いえ、ありがとうございます」

「困ったときはお互い様さ」


 娘に甘い父親というだけでなく、面倒見の良い性格なのだろう。ケンがお礼を言うと照れくさそうな顔をしていた。




 屋根裏部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかったが、冬だというのにケンは寒さを感じなかった。不思議に思っているとこの近くに温泉が湧き出ているからその湧き出た熱いお湯を引いている宿屋はそれを各部屋に循環させているために寒さとは無縁なのだとリアが説明してくれた。もちろん宿屋には温泉を利用した浴場もあった。ケンも使い方をリアに習って入らせてもらった。その間に屋根裏部屋も掃除してくれたらしく、ベッドのようなものまで用意されていた。


「うちの宿屋は料理は扱っていないの。こんなものしか用意できなくてごめんなさいね」


 リアの母親が差し出してくれたのはパンに肉をはさんだものと暖かいスープだった。


「いえ、何から何まで本当にありがとうございます。リアちゃんが助けてくれなかったら、寒さで死んでいました」

「そうね。あのままだったらあぶなかったわよ

 リアは偉そうに腕を組んでいる。


「まあ、この子は。口が悪くてすみませんね」

「いえ、本当のことなので」

「これからどうするか考えているの?」

「いえ、全く」


 ケンはもっともらしいことすら口にできなかった。


「そう。…あなた、もしかしたら迷い人なの?」

「迷い人?」

「よその世界から時々迷い人が現れるって昔話できいたことがあるの。変な服装をしているって話だから…」


 ケンの服装はこの世界では珍しかったらしい。今着ているのは父親のお古だとリアから渡されたものだ。


「その迷い人って帰れるのでしょうか?」

「帰るって、故郷へ?」

「はい」


 ケンはごくりと喉を鳴らしていた。ケンは帰りたくて仕方がなかったのだ。


「ここでずっと暮らした話しか聞いたことがないわね」

「そうですか」


 がっくりと項垂れるケンを見たリアの母親は


「でもね。迷い人の多くはスキルを持っているそうよ。魔法で成功した話も聞いたことがあるわ。だから前向きに考えましょう。私たちも協力するわ」


と頭をなでて慰めてくれた。

 ケンの目から涙が流れた。悲しみの涙ではない。優しさが身に沁みたのだ。

 悲観したところで何も変わらない。迷い人の話からすると転移者は自分だけではないのだ。みんなだって苦労したのだ。自分には助けてくれる人がいる。それだけでも運がいいと思おう。ケンはぎゅっとこぶしを握りしめた。




 やっぱり異世界転移と言えば、冒険者だろう。というかそれしかないだろう。身分を証明することもできないし、学歴だってないのだ。学校に通うお金もない。チートもない。

 魔法? まあ確かに魔法が使えることは使えるが、それだけで食べていけるわけでもない。手っ取り早く稼ぐには冒険者しかないとケンは考えた。

 ケンの魔法は水魔法だった。ちょっと練習したら氷魔法も使えるようになった。ケンはこれがチートなのかなと少しだけ思った。

 この魔法はすごいことらしく氷魔法が使えるだけで、夏場はすごく稼ぐことができた。そう戦闘もこなすけど、やっぱり平和な日本で生きてきたケンに戦闘は荷が重い。魔物討伐ならいいが、盗賊退治は苦手だった。もちろんお金のためだから、仕事と割り切って盗賊を殺してしまったこともある。それで落ち込んだケンを慰めてくれるのはいつもリアだった。

 ケンは稼ぐようになってからもリアのいる宿屋から出ていかなかった。もちろん宿賃は払っている。初めは居心地が良いからだったが、いつしかリアのいる宿屋が、ケンの帰る場所になっていた。

 ケンがリアにプロポーズしたのはリアが十八になったときだ。ケンも異世界に来て七年が過ぎていた。あっという間の七年だった。初めの頃はいつか帰れるのではないかと図書館で迷い人について書かれている本を探したり、魔王を倒した勇者に連絡を取ろうとしたこともある。だが魔王を倒した勇者も帰れなかったと噂で聞いたとき、ケンはようやく諦めることにした。そして周りを見て、リアがいつも自分を見ていることに気づいた。リアのことは妹のようにしか思っていなかったケンだったが、いつの間にか一人の女として見るようになったのもこのころからだった。

 いまでもケンは思う。リアが声を掛けてくれなかったらどうなっていたのかと。もしかしたら他の誰かが助けてくれたのかもしれない。この国は豊かだから救護施設だってある。そこを紹介されていたかもしれない。それでもやっぱりリアの家族とリアがいたから生きてこられたのだとケンはいつも感謝していた。




 昔を思い出していたケンは少しずつ進んでいく行列にため息をつきたくなった。どうやらかなり時間がかかりそうだ。結婚記念日だから妻はきっと待っているだろう。

 ケンは昨夜聞いたリアの両親の話を思いだすと、早く帰りたい気持ちもあるが、どうすればいいかまだ悩んでいるので帰りたくない気持ちも生まれていた。

ケンは昨夜、偶然リアの両親の話を立ち聞きしてしまったのだ。

「リアも来春には母親になるのね」

 水を飲みに台所に入ろうとしたところで、そんな声が聞こえてきて慌てたケンは中に入れなくなってしまったのだ。宿屋の方で暮らしているリアの両親は度々二人の家に遊びに来ていた。その間の宿屋の方は泊っている冒険者を短時間雇ったりしているようだった。

リアが出産ということは自分に子供ができたということだ。何故自分に知らせてくれなかったのだろうかとケンは不安になる。

 だがそんなケンに気づくことなく二人の会話は続いていた。


「そうだな。ケンを連れてきたときは、まさかこんなことになるとは思わなかったがな」

「ふふ、そうかしら。私はあの頃からわかっていたわ。リアがあれほど私たちにわがままを言ったことがあったかしら」

「そんなこともあったな。いくらなんでも迷い人を泊めるのは躊躇したからな。リアがどうしてもと言わなかったら救護施設に連れて行ってたさ」

「ええ、迷い人は悪い人もいると聞くもの。悩んで当然よ。でもケンを一目見たら悪い子じゃないってわかったわ」

「ああ、純粋な目をしていた。悪い人間じゃないとすぐにわかった。だが迷い人だからいつかはどこかに行ってしまうだろうと思っていたよ。まさかリアの旦那になるとは。あれほどの魔法使いがこんな宿屋の娘と結婚するなんてな。リアと結婚しなければS級冒険者にだってなれたんじゃないか」

「そうね。リアと結婚するときに辞めたパーティーはS級になったそうだから」

「リアを連れていくんじゃないかって不安だったがケンはここに残ってくれた。できればこの宿屋を継いでほしいが……」

「まあ、それは言わない約束でしょ」

「ああ、わかっている。リアに絶対に言うなって言われているからな。だが冒険者はいつ死ぬかわからないだろう。私たちだっていつまでもリアのそばにいれるかわからないんだ。できればリアと子供のためにも安全な仕事をしてほしい。まだまだ若いつもりだが孫ができるって聞くと色々と気になってきてな」


 ケンはそれ以上聞くことが出来なくなったので、そっと離れた。冒険者として培ってきた忍び足が役に立ったようで、二人には気づかれなかった。



 そして今日、ケンは冒険者の仕事をさぼってずっと悩んでいた。結婚記念日のプレゼントも悩みの種だったけど、二人の話の方が気になっていた。魔法の腕には自信はあるが、ソロでやる分、危険は常にある。ヒヤッとしたこともリアには言ってないが何回かあった。

 子供もできるのなら確かに辞め時なのかもしれないとケンだって思う。

 だがケンは宿屋をやっていける自信がなかった。力仕事は今のところリアの父親がやっているからそのうち自分がやっても良い。だが今ケンができることは氷や水が出せることくらいだ。用心棒くらいはできるが、そんなに暴れるような奴はいない。ヒモのような生活はしたくないから、冒険者をやめるにしても何か仕事がほしい。


「いらっしゃいませ。カゴをどうぞ」


 ケンが悩んでいるうちに店先にまで来ていた。行列はケンの後ろにしかない。

 ケンは渡されたカゴに、目を見張った。

(これはあの世界のものだ。プラスティックだ)


「お客様、どうぞお入りください」


 オオカミの獣人が店の売り子だった。とても丁寧なあいさつの仕方だ。これはどうみても日本人が関わっているなとケンは思った。庶民の店でここまで丁寧な扱いをするところはない。

 カゴを握る手に力を入れて、店に入ったケンは圧倒された。

 日本だ。ここは日本だ。まさか日本に帰ってきたのかと思ったとき、ケンが感じたのは歓喜ではなく、絶望だった。思わず踵を返そうとして、オオカミの獣人を見て冷静さを取り戻した。

(ここは日本じゃない。リアのいる世界だ)

 ここへ転移されたときあれほど帰りたかった日本だけど、今はリアがいない日本へ帰りたいとは露ほども思えなくなっていた。

 ケンはふっと息をついてから先ほど見たマヨネーズを探すことにした。


「あった!」


 やはり見間違いではなかった。ということは、これは日本製ということだ。この形に赤いキャップ。間違いなく日本で作られたものだ。

 よくある異世界転生の小説で、日本のものをこの世界に持ってこれるチートスキル。ケンが一番欲しかったスキルを持っているものがいたってことだ。

 あの魔王を倒したという勇者タケルでさえ持っていないスキルを持っているなんて、なんて羨ましい奴だ。ちなみに何故勇者が持っていないのを知っているのかというと勇者新聞に書かれていたからだ。魔王を倒すまで毎月発行されていた勇者新聞で魔王を倒したときにインタビューを受けていたタケルが、「今一番食べたいものは?」と聞かれて「カレーが食べたい。納豆が食べたい。味噌汁が食べたい。あ~とにかく日本食が食べたいです」と応えていたからだ。ケンはそれを見て思わず笑ってしまった。同じ日本人とはいえ遠い存在だった勇者がとても身近に感じられた出来事だった。


「それにしてもこれはすごいな。塩や砂糖に塩コショウ。あっ味ぽんじゃないか。ああっ醤油と味噌。もう死んでもいい。いやまだ死ねないか」

「お客様、もしかしてニホンジンですか?」


 先ほどの店員に声を掛けられたケンは目を丸くする。まさかニホンジンですかと聞かれることがあるとは考えたこともなかったからだ。


「え? ニホンジン?」


 ケンは首を捻る。


「あれ? 違いましたか? ナナミさんやタケルさんと同じ感じがしたのですが」

「タケルさんってもしかして勇者の?」

「そうです。やっぱりニホンジンでしょ? ニホンジンじゃない人は初めてで醤油や味噌を見てそんなに感激しないですよ」


 ケンはなるほどと納得する。確かに初見で味噌や醤油の魅力が分かるわけがない。周りを見てもカゴに沢山買い込んでいるのはケンしかいなかった。皆、塩や砂糖といったありきたりの物を手にしている。マヨネーズを買っている人がいるというのは勘違いだったようで、何か買った人にはマヨネーズを一本おまけにしているようだった。上手い商売だなとケンは思った。一回でもマヨネーズを使えばきっとまた買ってくれるはずだ。それだけの魅力がマヨネーズにはある。


「君が言う通り、俺は日本人だ」

「やっぱり! ナナミさんが喜びます。この世界に転移されたニホンジンのために色々な場所に支店を出してるんです。初めは支店を出すのを目立つから嫌だって言ってたんですけど、タケルさんのような人がこの世界にはまだまだいるって気づいてからは積極的に支店を増やすようになったんですよ」

「ナナミさんにありがとうございますってお伝えください。ずっと悩んでいたことも解決できそうです」

「それは良かったです。もしかしてそれで解決されるんですか?」


 店員はケンが二つ目のカゴに大量に入れている物を指さしている。


「これだけじゃないですが、きっとここにあるもので解決できると思うんです」

「そうですか。お役に立てて良かったです」


 店員はにっこりとほほ笑んでくれた。この店員がいればこの店は安泰だなとケンは感じた。



 ケンはマジックシップナナミで大量の買い物をして、ホクホクとして家へ戻った。

 今日が結婚記念日であると知っているリアの両親は気を利かせてか、昼過ぎにはリアの仕事は終わらせてくれていたようで、ケンの帰りをずっと待っていたようだった。


「その荷物、どうしたの?」

「これは日本の物なんだ」

「ニホン?」


 ケンはプロポーズした時に日本人であることを全部話している。そのせいかニホンと聞いて不安そうな顔をした。


「うん。日本の物を売る店が開店したみたいで買ってきたんだ」

「これがニホンのものなの?」

「そう。それで今からカレーライスを作るから食べてほしい」


 今日は結婚記念日だからどこかで食べようと約束していたけど、ケンはどうしても今日カレーライスを食べてほしかった。


「ケンの故郷の味ね。楽しみだわ」

「ちょっと癖があるけど、日本じゃあ誰もが好きな食べ物なんだよ」


 ケンはジャガイモに似たポテポテに日本の玉ねぎとは色が違うタマネギ、そしてコッコウ鳥のお肉を市場で買ってきていた。

 マジックショップナナミで買ったピーラーでポテポテの皮むきをしているケンを見たリアは目を丸くした。


「な、何? それなんなの? ポテポテの皮が薄く切れてるわ」

「ピーラーだよ。便利だろ」

「便利なんてものじゃないわ。革命よ! 母さんにも教えなくちゃ」


 どこかに飛んでいきそうなリアをケンは止めた。


「待って。後で義父さんと義母さんにも食べてもらうけど、とりあえずはじめにリアに食べてほしいから二人を呼ぶのは後にして」

「わかったわ」


 ケンの真剣な目を見たリアは頷いて、そこから動くのをやめた。

 けれどケンが塩コショウを出して味付けをすれば、「それは何?」と尋ね、真空パックされたごはんを茹でていると「それは茹でても硬いままよ。本当に食べるつもりなの?」とパックごと食べるのだと勘違いしたのか不安そうな顔をしている。


「と、とても刺激的な香りだけど、なんというか微妙な色合いね」


リアはカレーのルーを入れた鍋を見て首を傾げる。


「え? そうかな。俺はいつも食べていたから何とも思わないけど見た目が微妙に見えるの?」


 ケンにとってカレーはソウルフード。匂いだけで食欲を刺激されるがリアには微妙に映っているというのだから不思議だ。

 茹でたパックからご飯を取り出して、皿にうつし出来立てのカレーをかける。


「その皿もニホンのものなのね。このあたりでは見たことのない柄だわ」

「うん。カレーライスに丁度良いのがこの皿なんだ。スプーンも買ったからこれで食べて」


 マヨネーズも食べてほしいからレタスやトマトのような野菜も並べている。


「「いただきます」」


 食べる前にいうこの言葉はケンの真似をしてリアも言うようになったものだ。

 ケンは自分が食べたいのを我慢して、リアの食べるのを待っていた。どうしても感想が聞きたかった。

 微妙そうな顔でスプーンにカレーをのせたリアは目をつぶったまま口に入れた。


「んー。もぐもぐ。ん、辛い!」

「え? 辛い? 甘口にしたのにな。え? だ、駄目だった?」

「あっ、でも美味しい?」

「なんで疑問形なの?」

「んー、ちょっと待って」


 もう一口食べると、またもぐもぐと口を動かす。


「これは癖になる味だわ。うん、美味しい。美味しいわ。でも水が欲しくなるわね」

「そう思って、はい氷水をどうぞ」


 氷を浮かべた水を差しだす。こういう時、自分の魔法は便利だなとケンは思う。


「ん、ありがとう」


 ケンはさっそく自分もカレーを食べることにした。

 あ~、やっぱりこの味は最高だ。思わず涙ぐんでしまう。ケンはもう食べることなどないだろうと思っていたカレーライスの味を堪能した。


「はぁ。美味かった」


 一気に三皿食べてようやく一息つく。マヨネーズのサラダも全部食べていた。リアの皿も空になっている。


「やっとこっちに戻ってきたのね。話しかけても全然だったわよ」


 リアが呆れたような顔をしてケンを見ている。


「ごめん。久しぶりだったから食べるのに夢中になってたよ」

「夢中になるのもわかるわ。サラダの上にかかってた白いものも初めての味だった。これなら沢山の野菜が食べられそうよ」

「リアはこの料理を食べてどう思った? リア以外の人も気に入ってくれるかな」

「そうね。少し辛いって感じる人もいるかもしれないけど、きっと気に入ってくれると思うわ。でも気に入ってくれるかどうかがどうして気になるの?」

「リア、今日は二年目の結婚記念日だ。その節目として俺は冒険者をやめることにした」

「どうしたの? もしかして両親に何か言われたの?」


 リアはケンの言葉に目を見張った。そのあと不安そうな顔になる。それを見たケンは不思議に思う。てっきり喜んでくれるものと思っていたからだ。


「喜んでくれないのか?」

「冒険者は危ない仕事だしやめてくれたら嬉しいわよ。でもケンは冒険者以外できないからやめるつもりはないってプロポーズしてくれた時に言ってたじゃない。急にやめるからって言われても素直に喜べないわ」


 ケンは確かにそんなことを言ったような気がする。あの時のケンは冒険者をやめてリアに養ってもらうつもりはないって意味で宣言しただけだった。

(まさかリアに絶対に辞めたくない職業だと勘違いさせてしまっていたとは…)


「俺はこの宿屋にいてもすることもないし、ぶらぶらしていたらご近所さんに変に思われるだろうから、結婚してからも冒険者をやめなかったんだ。でもこのカレーでその何かができるんじゃないかって考えている」

「このカレーで?」

「そう。このカレーはマジックショップナナミで売っているカレーを作る素で簡単に作れる。作り方も箱に書かれているから誰にでも作れるようになるだろう。でも日本人である俺にしかできないこともあると思うんだ。カレーうどんを作ってもいいしね。いやカレーにこだわらなくてもうどんを提供してもいいかもしれないな。乾麺も売っていたから作れると思う」

「ち、ちょっと待って。それってうちの宿屋で食事を提供するってこと?」

「俺たちの住んでいるこの下が倉庫になっているだろ? 冒険者もやめるしあそこを整理したら小さいけど食事処ができると思う。簡単な料理になるから朝と昼だけの食事処で、隣にあるうちの宿屋の人は格安で食べれるってことにしたらどうだろう? うちの宿屋は食事がないのが不便だなって言われてるだろ。俺もリアと結婚する前は夕食は色々食べれるところがあるから良いけど朝は空いてない所も多いから少し不便だったんだよね」

「本当にいいの? 冒険者のA級ってすごいんでしょ。後悔するかもよ」

「しないよ。俺はここで妻と子供と一緒に生活したい」

「こ、子供って! まだ話してないのにどうして知ってるのよ。やっぱり母か父に何か言われたんでしょ?」


 リアは顔を赤らめてケンを追及してくる。ケンもつい口を滑らしてしまって慌ててしまう。


「い、いや、ちょっと小耳にはさんだだけだよ。それより俺としては君の両親より先に知らせてほしかったんだけどね」

「そ、それは仕方なかったのよ。この間、短期の護衛依頼でいなかったでしょ? そのとき悪阻があってそれで母さんに知られたんだもの。本当は結婚記念日の今日、一番にあなたに話す予定だったのよ」

「そう。それならいいけど。でもこれからはそういう大事なことはすぐに話してほしい」

「ん。これからは気を付けるわ。でも本当にいいの?」

「君のいるここが俺の幸せだよ」

「もう照れるでしょ」


 ケンにリアが抱き着くとケンもぎゅっと抱きしめる。いい雰囲気になったところで、ドンドンと叩く音がする。


「リア? とても良い匂いがするけどなんの匂いなの?」


 リアの母の声で二人はパッと離れる。思春期の子供じゃないから気にしなくてもよさそうなものなのに、どうも昔の癖が抜けないようだ。結婚が決まるまでなんとなく隠して付き合っていたせいか、今でもリアの両親の声には反応してしまう二人だった。


「母さん、父さんも呼んできて! とても良い話があるの」


 リアが照れくさそうな顔で叫んでいる。

 両親が近くに住んでいるのは頼もしい限りだが、結婚記念日なのだからちょっとだけ遠慮してくれてもいいのにと思うケンだった。

 その後元A級冒険者が作る変わったカレーを出す宿屋として有名になったそうだが、それはまた別の話である。

 

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