第3話 夜逃げ?

 その夜。


 夜勤だった私は、昼間のことを思い出してイライラしながらナースステーションに詰めていた。


 ったく、あの昭和世代め。

 いい感じでやり過ごしつつ、優しく接し、かつ逃げられないよう見張るって、一体どうすりゃいいのよ!


 この4月にナースになったばかりの私にとって、慣れない夜間勤務は戦いだ。普段は睡魔と格闘している時間だが、幸か不幸か、今夜は怒りのアドレナリンで、目がギンギンに冴えてやがる。


 くそぉ、元はと言えば、ヤマダタロウ、きやつのせいだ。

 確かに、持ち物といえば手にしていたラノベだけ、己のルーツを全く失っている彼に、多少は同情せんでもない。


 だが、大人厨二病に罹患しているアイツのことだ。

 どうせ、『俺だけチートでラッキースケベな異世界』への転生を夢見て、自ら車に飛び込んだに違いない。


 そんな夢見がちな男が、大病院のナースとして、先輩方の訳分からん指示に従いつつ、日々実直に働いている私の夢を壊していいはずがない。


 私だって、イケメンドクターの溺愛が重すぎて死にかけてみたい。イケメン医療技師(実は御曹司)に壁ドンされてみたい。交通事故で入院してきたイケメン経営者に一目惚れされ、ベッドに押し倒されてみたい!

 だが、実際にそんなことは起こらないのだと、この半年間で思い知らされた……


 私と奴との大きな違い。

それは私の方が、きちんと夢と現実の区別がついていること。

 つまり、私の勝ちだ!


 力を込めて立ち上がった瞬間、ナースコールを示す赤いランプが視界を掠めた。


 ピーピピピ…


 まずい、警戒音がなりだした。

早く点滴換えなくちゃ!


 ペアの先輩にどやされる前に、私は駆け足で病室へと向かった。


  

 先輩に教えられたとおり、お薬の間違いがないことを2、3度繰り返し確認して、患者さんの点滴液を換える。

 ついでに病室の見回りを済ませてしまうことにして、私は端から順に病室を覗いていった。

 今のところ異常はなく、皆、ベッドで眠っている。

 8つ目の部屋に差し掛かったところで、ふと私は思わず歩みを止めた。


 203号室。


 わが鬼門、ヤマダの部屋だ。


 (よし!)

 謎の気合いを入れながら、私はそおっと引き戸を引いた。


 203号室は4人部屋だが、今、患者さんは市橋さんとヤマダだけ。


 まずは市橋さん。カーテンの間からチラッと覗くと、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。


 私はウンウンと二度頷き、次に、斜向かいのヤマダへと向かった。


 と……

 最悪だ!

 ベッドはもぬけの殻で、車椅子も消えているではないか。


“逃げられないように見張っといてよね。

入院費踏み倒されても困るんだから”


 昼間の師長さんの諌言がチラッと頭を過ぎった。


 あのヤロウ!

 案の定、奴はトラブルメーカーだ。


 くそー、くそーっ!


 私は走った。

 前回の見回りは1時間前で、ペアの先輩が担当している。

 奴は車椅子でしか移動できないから、まだそう遠くへは行けてないはず。


 病室を出て、廊下の隅から隅まで歩いて、奴の痕跡を探してみる。


 と、


 (あった!)


 東側エレベーターの前に、奴が栞がわりに挟んでいたらしきラノベの帯が落ちている。


 エレベーターの階層は「R」。

 屋上だ!


 取り敢えず夜逃げでないことに安堵しながらも、ふと更なる悪い想像が浮かんで、私は慌てて「↑」のボタンを押した。

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