第3話 軽い絶望

「ねえ。顔色悪いけど大丈夫? はやてくん」


 そう言って心配そうに俺の顔を覗き込んできたのは斎藤さいとう菜々美ななみ。小学校からの幼馴染である。

 丸眼鏡に緩く編んだ三つ編みがよく似合う、おっとりした雰囲気の女子だ。


「昨日、ちょっと寝不足で」

「そうなの? もしかして勉強してたとか!?」


 期待に満ちた目で菜々美が俺を見つめるが、申し訳ないことに理由は勉強ではない。俺が寝不足の理由は『るな』のアカウントでリプ返をしていたからである。


「……いや、そうじゃなくて」

「そうなの? でも颯くん、テストも近いし勉強しなきゃダメだからね」


 少しだけむっとした顔で菜々美が俺を叱る。ほんの少し鬱陶しいが、それを言うわけにはいかない。

 高校入試の時も定期テストの時も、菜々美には散々世話になっているのだから。


「今日だって3限目、英単語の小テストだよ? ちゃんと勉強した?」


 もちろんしていない。とはいえ正直に答えてもまた叱られそうだな……と俺が内心溜息を吐いた瞬間、教室の扉が大きな音を立てて開いた。


 相良だ。

 学校指定の制服をびしっと着こなしていて、長い髪には癖一つない。まさに完璧美少女、としか言いようのない相良である。


 昨日、興奮しながら俺を撮ってた時とは別人みたいだな。

 てか、相良がなんでこのクラスに? 友達とかいたのか?


 今まで相良が俺のクラスにやってきたことはない。そもそも相良はどうやらあまり友達が多くないタイプだ。

 入学当初は可愛い! 美人! と男女問わず多くの連中が相良に近づこうとしたが、クールな相良と会話を続けるのは困難だったらしい。


「わ、相良さんだ。やっぱり綺麗だねぇ」


 菜々美がうっとりしたような声で呟く。曖昧に頷いておくと、相良が俺の目の前に歩いてきた。


「佐倉くん」


 相良が俺の名前を呼んだ瞬間、教室中がざわつく。


「ねえ、佐倉くん。聞こえてるでしょ」


 相良は俺の右手をいきなり掴み、にっこりと笑いかけてきた。


「ちょっときてよ」

「……もうすぐ、ホームルーム始まるけど」


 ホームルーム開始まであと5分ちょっとしかない。しかし相良はそれがなに? という顔をする。

 そして俺の耳元に顔を近づけて、一言。


「佐倉くんに拒否権、ないからね?」





「はい、ジュース。奢ってあげる」


 そう言うと相良は、自販機で買ったばかりの炭酸を投げてよこした。

 炭酸を投げるな、炭酸を。


「……で、俺に何の用なんだよ」


 今の俺は完全に男の姿だ。相良が好きな『るな』の格好じゃない。


「酷いじゃない。ジュース奢ってあげたのに」

「……それはありがとな」

「お礼が言えて偉い」


 適当な褒め言葉を口にし、相良はじっと俺を見つめた。

 こんな風に見つめられると、昨日の撮影のことを思い出してしまう。


「佐倉くん」

「……なんだよ」

「可愛い顔してる。もしかして昨日のこと思い出して、えっちな気分になっちゃった?」


 ふふっ、と笑いながら相良は俺の顔を覗き込んだ。そして俺の前髪に触れる。


「可愛い顔、隠すのもったいないのに」

「……俺の勝手だろ」


 俺は女っぽい顔をしている。女装の時はもちろん役に立つが、普段はそうとは限らない。特に小さい頃は女みたいだと馬鹿にされることもあった。


 年を重ねるにつれてそんなことはなくなったし、むしろ可愛い顔、ということが武器になることも知っている。


 それでもなんとなく前髪で顔を隠しているのは、昔の名残だ。


「佐倉くんのこと可愛いなって入学当初から思ってたの。るなちゃんに似てるな、って」

「……なんでそう思ったんだよ」

「たとえば、ここ」


 相良がいきなり俺の鼻先をつついた。


「それから、ここ」


 頬、瞼の上、唇……と順番に指でなぞられる。触り方がねっとりとしていて落ち着かない。それに相良からはなんだか甘い香りもする。


「前髪でちょっと隠したって、可愛いのはバレバレだよ?」

「……相良」

「ふふ。可愛いって言われたら興奮するのは、るなちゃんの時も今も一緒なんだ?」


 軽やかに笑うと、相良はブレザーのポケットからリップを取り出した。いきなりどうしたのかと思っていると、顎をくいっと持ち上げられる。


「動かないで」

「はっ? いや、なに……」

「だから、動かないで。拒否権ないから」


 そう言われたら俺は何もできない。黙って唇を閉じると、丁寧にリップを塗られた。

 鏡がないから、唇がどんな色になったのかも分からない。


「うん。ばっちり」

「……俺今、女装してないんだけど」

「無色の保湿用リップだから。日頃からケアしてないとだめでしょ」


 確かにそうだ。俺が反論できずにいると、ねえ、と相良が俺をからかうような笑みを浮かべた。


「学校抜け出して、またうちにくる?」

「は?」

「それともこのまま、学校のどこかで撮影する? 男の子のままの佐倉くんのことも、可愛くえっちに撮ってあげようか?」


 ふふ、と楽しそうに笑う相良が本気なのかどうか、俺にはよく分からない。

 ただ一つ分かるのは、ふざけるな! とすぐに言えなかった俺の弱さだ。


 男のままエロい写真を撮るなんて、考えたこともなかった。そもそもネットでちやほやされたのも、俺が女のふりをしたからだ。

 でも、相良なら? こいつなら今の俺のことだって、可愛いって言うのか?


「ね、佐倉くん? どう?」


 それは……と言いかけたところで、颯くん! と菜々美の声が聞こえた。

 慌てて振り向くと、菜々美がこちらへ走ってきている。


「もう授業始まるよ! 遅刻するつもりなの?」


 菜々美は俺の手を掴み、相良に対して深く頭を下げた。


「すいません。でももう時間なので、颯くん連れて帰りますね」


 菜々美が俺を引っ張って歩き出した瞬間、がしっ、と相良が俺の手を掴んだ。


「ねえ佐倉くん。この子、佐倉くんの彼女?」

「……いや、違うけど……」

「ふーん。じゃあ、またね」


 なにか言うと思ったのに、相良はそれ以上なにも言わなかった。


「行くよ、颯くん」

「……ああ」


 なんで相良、拒否権ないから、って言わなかったんだよ。


 ついそう思ってしまって、俺は、そう思った自分に軽く絶望した。

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