第9話 熱情
「……ううん。そんな訳ないよ、サイコ」
遅れた実感だった。
確かに嫌な思いはしたし、
だがそれらが彼女とセッションした事実を塗りつぶす程の絶望だったかとなれば、そんなのは当然ながらに否だ。
彼女と音を合わせている時間は、それはもう夢心地で、何故に僕の出す音を即座に理解出来るのだろうとか、どうしてこうも居心地がよくて、永遠を願う程に楽器を弾くのが楽しいのだろうかと、そんな気持ちすら抱いた。
その瞬間の気持ちに悲しみが勝るのか――否だ、そんな訳がない。
あれ程に幸福に満ちた瞬間が楽しくなかったなんて嘘だし、薄れる程の濃度だった訳もない。
そう思うだけで僕の中にあった虚しさや悲しさが
馬鹿にされることは、人間、生きていれば必ずある。
理解されないことだってある。
考えの違う人達だって多く存在する。
けれども、まるで心が通ったかのように理解してくれる人もいる。
僕はそんな人物と、今日、僅かな時間でも音を重ねられた。
ギターとベースで互いの距離はもっと近付いた。
僕は己の頬を張る。
じんわりとした痛みは彼女の胸の内にある痛みより幾分も軽いだろうけど、僕は謝罪を口にするよりも、第一に彼女に伝えるべき筈だった言葉を口にした。
「凄く、すっごく楽しかったよサイコ! サイコのベースは本当に凄いよ! あのグルーブ感、なんなんだろう? どうして壁みたいに重圧な音を生み出すんだろう? 何で僕のアドリブに即座に対応出来るんだろう? どうしてだろう、なんでだろう――そんな疑問を抱きながらもね、それをも掻き消すくらい楽しくて、本当に気持ち良くて、最高だった!」
僕は傍目も気にせずに身振り手振りになる。
彼女の動きを再現するような真似をしたり、その瞬間に感じた気持ちを言語化してみるけれども、それらが追いつかないくらいに感動の気持ちばかりが湧いてくる。
「昨日もそうだったけど、凄く丁寧なタッチ感だし、よっぽどベースを大切に思ってるんだろうなとか、音楽が大好きで堪らないんだろうなとか、直で感覚が伝わってくるみたいな不思議な感覚だった! それくらいに、サイコは僕を理解しようとしてくれているんだなっていうのが、強く伝わってきたよ!」
思うままの言葉を彼女に伝えると、最初、彼女はくすぐったいような表情をしていたのに、気がつけば頬が緩んで、口角を上げて、目を細めて、僕を優しい顔で見てくる。
「いっひっひ……本当、歯に衣着せぬ物言いだよねぇ、アキラは。そうも純粋で真っ直ぐだと、やっぱ伝わるもんだねぇ」
先の音楽室でもしてくれたように、彼女は僕の頭に手を置いて、優しい動作で撫でてくる。
「理解したいって気持ちが互いにあるから伝わるんよ、アキラ。疑問に思いつつも笑顔が自然と零れて、ストレスもなく、タイム感すらも気にならなくて、互いの思う通りに演奏出来る最大の理由なんて、実にシンプルなことさぁ。それってのは……信頼関係だとか、愛情に近いものだろうね」
臆面なくいうのは君もだろう、と口にしそうになるけど、彼女の台詞は茶化した風でもなく、言葉のままの意味合いだと僕は受け取る。
「楽しかったねぇ、アキラ。あんたぁ、ギターを手に持つと人が変わるんだねぇ。ああも変貌するとは思わなかったよ」
「へ? 何か変だった?」
「いんや、変じゃあない。その腕前はある程度予想してたっつーか、弾く人の持つ独特の空気感ってのを端から感じてたけども。技量やらよりも、あんたは……〈そっち〉の人間だったんだって、それを知れて最高に嬉しかったよ」
「〈そっち〉?」
自己完結した物言いに疑問符を浮かべるけれども、彼女は「何でもない」とかぶりを振り、自身のケースを担ぎ上げた。
「何にせよ、今日は付き添い出来てよかったよ。いい経験にもなったし」
「あ、もう練習の時間?」
「おうさ。十九時からね」
すっかり彼女の予定を忘れていたが、彼女がバンド活動を外部でする理由というのを本日、何となくのところで察した。
直接に聞いてもいないし、誰かに真実を聞いた訳でもない。
ただ、部長さんの態度や、他の生徒達の反応からして、きっと、彼女は入学してすぐに軽音部に足を運んでいたんだろう。
そうして実態を知り、活動方針に納得が出来ず、軽音部に所属せずに外部のみで活動をしているのかもしれない。
或いは大きな争いでもあったのではないかといった勘繰りすら生まれる。
何せ彼女の態度も部長さんの態度も、宛らに怨敵と対峙したようなものだった。
「ともあれ、今日のことでガッカリしたかもしれねーけど、焦らなくてもいいのよさ。何せ軽音部が全てじゃあない」
「うん、そうだね。一つの憧れというか夢だったけれども、僕も外でバンドを……」
そこまで口にしかけて僕は一度言葉を失った。
それに不思議そうな顔をした彼女だが、僕は実に、あまりにも自然なことのように、それを口にしてしまった。
「サイコとバンド、出来たらいいのになぁ」
「……ほぉ?」
口にしたと同時、僕は僕自身の言葉に驚いてしまう。
それは確かに己の内にあった願望だったし、彼女とバンドを組む人々に羨望を抱いたり嫉妬心を抱いていたのも事実だ。
けれども現状、自分のバンドを持つ彼女に対して己の要望を口にするのは厚かましい気がしていて、胸中に仕舞っていた言葉だった。
ところがそれが漏れ出た。それもするりと、呆気無くだ。
僕の言葉に彼女は驚いた顔をしていて、尚更に恥ずかしくなった僕は、ただただ阿呆のように首を振りまくる。
「ご、ごめん! 確かに憧れはあるし出来たらいいなって! 思ってるんだけども!」
「だけども?」
「いやあの、だってサイコはバンドを組んでるもんね! 一つだけとは限らないしさ!」
「今、組んでて、かつ、活動してるのは三つだねぇ」
「ね! 三つも! だったら、とてもじゃないけど! 誘うだなんてこと、するのは迷惑だろうしさ! 忘れて忘れて! うん、本当に――」
「忘れていいのかい、本当に?」
それは試すような言葉だった。
彼女は笑っている。
いつものようにお道化た風だが、瞳の奥には違う何かが浮かんでいる。
それは火炎だ。
未だ静かなものだが、それはいつしか大きくなり、全てを呑み込み燃やし尽くすことを予感させるような、静かな熱だった。
僕は彼女の言葉を聞いて口を噤む。
思わせぶりな台詞は冗談かもしれない。
だが少なかれ彼女の性格というのはこの二日間で凡そ把握出来た。
彼女は確かに冗談を口にするし人を茶化しもする。
だがこの瞳だ。
彼女が火炎を抱き、化け物のように静かな笑みを浮かべる時、そこには嘘も糞もなく、純粋なものしかなくなる。
「恐れずにもう一度口にしてみろ」――それが彼女の口にした言葉の真意であり、僕はそれを突きつけられると、今一度彼女を真っ直ぐに見つめる。
「……サイコ。よかったら、僕と、バンドを――」
だのに、そんな瞬間に、唐突に僕の携帯電話が鳴り響いた。
張りつめていたような空気が一気に緩和し、見つめ合っていた筈のサイコは、どうやら間抜けにも響く着信音がツボに入ったらしくて、抱腹する勢いで大笑いをした。
「あーっはっはっは! いやはや、やっぱあんたは最高だわ、アキラ! もってんねー!」
「何も可笑しくないよ、もう! 折角こっちは一大決心する勢いだっていうのに!」
「まあまあ、いいから。それよりも応答しなくていいのかい、多分電話じゃねえの?」
「むうぅ、少し待ってねサイコ、まだ時間はある?」
「ああ、いいよ、大丈夫」
「本当にごめんね、ったくもう――はいはいどちら様ですか!」
僕は怒り心頭のまま通話先の人物の名前すら確認せずに応答する。
取り繕いもせずに言葉を叩きつける訳だが、次の瞬間、僕は己の過ちを心底後悔する羽目になった。
『ほおぉ、なんだアキラ……いつからそうも生意気な態度を取れるようになったんだ?』
「――……ふぇ?」
血の気が引くとは正しくで、僕は耳元に響くその声の持ち主を理解すると同時に、全身の血液が引き返す
そうして震える手で一度携帯端末を目前に持ってくると、そこには想像通りの人物の名前があり、再度僕は耳に端末を押し当てる。
『折角、せぇっかく、二カ月ぶりに我が家に帰宅したぞーって、朗らかぁーに、和やかぁーに、和気藹々とした空気を、それこそ仲睦まじき空気を楽しみに帰参したってのに――』
息を大きく吸い込む音が聞こえて、僕はサイコが不思議そうにするのも他所に、目を瞑り、次にくる轟音に備える。
『なんちゅー悲しい態度をとるんだアキラ、それでも我が弟かね! お姉ちゃんに対してぇ! いよいよ反抗期か!? お姉ちゃん泣くぞ! おぎゃあああ! おんぎゃあああ!』
「だからその泣き声やめてよ! いつまで赤ん坊の気分なのさ、お姉ちゃん!」
轟音――轟音だった。
道行く人々は誰もが僕を見て、傍にいるサイコですら仰天する程の音量で、僕といえば、如何に慣れているとはいえ「相も変わらず人の吐き出す声量じゃない」と呆れつつも宥めるように通話先の人物を叱る。
その人物こそは僕とは六つ歳の離れた姉であり、そんな彼女は現状、忙しくも奔走する日々を送っている。
そんな姉が久しく帰郷したことを聞かされた僕だが――
『いいからとっとと帰ってこいアキラぁ……お前なんだ、ギターないじゃないか。どこにいる? よもや遊んでるのか? あぁ!? さっさと帰ってこんかい! 外に出るのは友達がいなくなるまでギターに熱を注ぎ鍛錬を続けた者のみに与えられる権利だボケが!』
「ああ、やっぱりな」と姉の口にした台詞に肩を落とし、そんな僕と姉の会話を聞いていたサイコといえば、何故か再度爆笑をしている。
「や、やっぱり最高だわ、アキラ! あんたぁ姉弟でぶっ飛んでるわ! ぎゃっははは!」
これは一度場を改める必要がありそうだと悟り、決心を他所に、家で待っているであろう姉を思い浮かべると、本日何度目かも分からない大きな溜息を吐いた。
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