第6話 矜持


 一枚の戸を隔てた距離で僕は立ち竦んでいた。

 戸の向こうからはギターやベース、ドラムの奏でる音楽がある。

 それを間近に感じると昨夜のライブとはまた違う緊張と期待とが胸中に生まれた。


 場所は軽音部の活動する教室だった。

 一度、二度と深呼吸をして、背にあるギターの入ったケースのストラップを握り締める。

 手の内には汗が滴る程に浮いていて、一度拭ってみても、時を待たずしてじんわりと汗が湧いてきた。


「なーにをビビってんだかね、あんたは」

「ビ、ビビってないよっ」

「そうかぁ? んじゃアタシが開けちまおうかね、じれったいし」


 そんな僕を見て呆れた風に声をかけてくるのは背後に立つサイコだった。


「だ、大丈夫。扉くらい、開けられるからっ」

「……初めてのおつかいじゃあるまいし。まあいいさ、んじゃ男気を見せてちょうだいな」


 サイコの言葉に強く頷き、いよいよ僕は戸を開いた。

 たった一枚の壁を隔てた距離。

 だのに戸が開かれると、そこには蒸れたような空気と音の渦巻く世界があった。


 空気の壁は厚いように思えた。

 人の数は十数人程あって、各々は各々の楽器を手に取り、ある人物達は楽曲をバンドの単位で演奏し、ある人物達は楽器を手にして練習に励んでいる光景があった。


 それは正しく、思い描いたままの軽音部の様子だった。


 男子のみならず女子の姿もある。アンプ類も複数ある。

 ふと視界に映るギターやベースのそれぞれは、歳に相応だと思える物もあれば、よくぞその歳で手に入れたと感嘆かんたんする程のハイエンド品もあった。


 皆は笑みを浮かべたり顰めた顔をしたり、言葉を交わしているかと思えば、自分の弾くフレーズはどうだろうかと楽器を手に意見を言い合う様子もある。


「わぁ……!」


 阿呆のようだったけれども、それが僕の口から漏れ出た最初の声だった。


 銘々めいめいの様子に視線を忙しなく動かしながら観察する僕は、もしかしたら間抜けのそのものに見えたかもしれない。


 けれども、僕は心底に感動をしていたし、これこそが憧れた環境だとも思った。

 耳に入ってくる楽曲は流行りのポップスで、それを演奏するバンドは見た感じ、未だ楽器を初めて間もない風に聴こえる。


 それでも出力される音は元気がよくて、仮に出来栄えだとか完成度とやらを語るにせよ、そんなものをわざわざ口にするのは見当が違う風にも思える。


 何せ彼等の表情には笑みがある。それだけで十分な程に、僕は自然と拍を取りながら同じような笑みを浮かべてしまった。


「あれ。どうしたの、君?」


 そんな風に、憧れの光景を前に酔いしれていると一名の男子生徒が近寄ってきた。

 どことなく大人びてみえるのはタイの色が由来してか、或いは醸す空気感からか。いずれにせよ、その人物は三年生だった。


 一度僕を見た彼は、背後に立つサイコへと視線を移す。

 そうして何故か眉根を寄せた彼だが、再度視線は僕へとやってきて、僕は一歩を踏み出して震える声で言葉を紡いだ。


「あ、あの、僕、軽音部に入りたくて! それで、その、今日は、あの、見学を、したくて!」


 振り絞るような声量だった。

 それでも確かに思いを口にした僕は、わざわざ身を屈めて視線を合わせてくれるその先輩の表情を伺うように見た。


 彼は最初、驚いた顔だったけれども、少しもせず朗らかな顔になり僕の肩を叩いた。


「ああ、そうだったんだ! というかあれかな、もしかして君が噂の〈女児男子〉なの?」

「じょじっ……あ、あはは、多分、そうです、はい……」


 噂の、といわれて羞恥心が生まれる。

 やはりギターケースを背負って登下校をする僕というのは悪目立ちしていたようだった。

 けれども氷解ひょうかいした顔になった先輩はしきりに頷いて「奇行には意味があったんだ」と笑っている。


「そうかそうか、軽音部にね! 背負ってるギターケースはお飾りじゃなくて、ちゃんとギターが入ってるわけだ!」

「は、はい、僕、ギターを弾いているんです!」

「あはは、うんうん。しかし遅いご登場だねぇ、とはいえ入部を打ち切ってるわけでもないし、見学だっていうんなら是非とも楽しんでいってよ!」


 そういう彼は再度、僕の背後に立つサイコへと視線を向けた。


 サイコは先から無言だった。

 不思議に思って振り返ってみれば、何故か彼女の顔には険しいような、或いは不愉快そうな表情があった。

 それに首を傾げつつも、僕は先輩に招かれると部室内へと踏み込む。


 僕の登場と共に生徒達の視線が一斉に集まった。

 皆は興味津々に僕を見るけれども、刹那の後にはサイコを見て険しい顔をしている。


「噂の人物のご登場には驚きだけども、自己紹介といこうか。俺はこの軽音部の部長をしてる高田っていうんだ」

「は、初めまして! 宮本アキラです!」

「ははは、元気がいいねぇ。こうも小さい男子というのも初めてだけど、しかしギターを得意とするってのも、風体に似合わない感じに映るよなぁ」


 サイコへの反応に疑問を抱きつつも、僕も遅れたように自己紹介をした。

 軽く茶化すような台詞には少々戸惑ったけれども、これも距離を縮める為のジョークなんだろうと結論し、釣られるように笑いを浮かべた。


「それで……君はいいとして。何で野間さんがいるんだ?」

「え?」


 先輩の視線は僕に向けるものとは質が違うように見えた。

 それは鋭くて、まるで敵を見るような瞳だった。

 それを向けられたサイコは不機嫌な風に唸ると、一度頭を掻いて呻くように呟いた。


「付き添いだよ、付き添い。アキラが軽音部に入りてーっつーからさ」

「へぇ、それで保護者みたいに背後に立ってるわけね。アキラくんだっけ。君、モテるね?」

「え? あ、はぁ……」


 気がつけば周囲に音はなかった。

 演奏していた人達も手を止めて僕達のやり取りを見ている。

 なんだか不穏な空気だった。

 僕はそれを感じると途端に狼狽えるけれども、先輩の台詞にサイコは舌を打ち、僕の肩に手を置いた。


「あのさぁ、先輩。一々突っかかるような感じ、やめてくんね? 今日はアキラの用だってんだからさ。ウゼエんだわ、そういうの」

「ちょ、サイコ!? いきなり何を――」

「何をじゃねーのよ。アキラ、あんたさっきからおちょくられてんだぜ。こいつによ。腹ぁ立たねえのか?」


 彼女の瞳は鋭い。

 それは昨夜の空気とは違うもので、確かに怒りの色が浮かんでいた。


 けれども、彼女にいわれた僕には馬鹿にされているという実感はなくて、そうも酷いことをいわれたのだろうかと疑問すら浮かぶ。


 そんな僕とサイコのやり取りを見た部長さんは、何故だか肩を竦めて僕へと手を翳した。


「別に馬鹿にしちゃいないよ。見やるに君のお気に入りなんだろうけどさ……アキラくん、多分ギターを始めたばかりか、どころか全然大した風に見えないけど?」

「はっ……アタシだってアキラのギターを聴いちゃいねえけども。だっつってもよ、きっとアキラの出す音は……かっけーよ」

「はあ、聴いてもいないのに? よく分かんないけどさ、君、よく軽音部にきたね。あんだけボロクソいっといて」

「だーかーら。今日はアキラの用事だっつってんだよ。アタシ自身はここに用はねーっての」

「ちょ、サイコ、そうも声を荒げなくても……」


 宥めるように彼女を見上げるけれども、やはり彼女は不機嫌なままだった。。


「何にせよ今日の彼は見学だろう? んじゃ君の役目は終わりだし、もう帰れば――」

「弾かせてやってくんね? アキラにさ。ギターを」


 突然の申し出だった。

 先輩の言葉に割って入り、彼女は一歩と前に出るとそんな言葉を口にした。


 最初、それに室内の皆は呆けた顔になった。僕も同じような顔だった。

 けれども次第に複数の笑いが生まれて、それは堪える程度の音量だったが、いよいよ目の前に立っていた先輩が大きく息を漏らした。


「あ、あーあー、別にいいんじゃない? 何、もしかして大きな音を出して弾く環境がないからここで練習させたいの? どう見ても初心者だもんなぁ、この子……ふふっ」

「……何を笑ってんだ、テメェ?」

「いや別に? そうだよねぇ、君のお気に入りの子がどんくらい弾けるかを知りたい訳だ。見た目は君の好みだけども、とはいえ、せめてコードを押さえられるくらいは出来なきゃ心配だもんな! そりぁそうだ、天下のサイコさんのお気に入りだものなぁ!」

「テメェ、意味不明なことさえずってんじゃあ――」


 はっきりいって僕には先輩とサイコの関係性というのは分からない。

 何故、先輩が挑発するようにサイコに無礼な態度を取るのかも、サイコが終始不機嫌なのかも分からない。


 ただ、今の台詞と、周囲の反応というのは、よく分かった。


 それは僕に向けられたものだ。


 それを値踏みと呼ぶも見下されたと呼ぶも、言葉はなんでもいいと思える。

 ただ、自然と僕の胸の内に火炎が生まれた。


 それは闘争本能に近い物で、僕は僕自身に向けられた蔑みの数多を理解すると同時、先輩の胸倉を掴もうとしたサイコの手を握った。


「落ち着いてよ、サイコ! 別に僕は何とも思っちゃいないから、ね?」

「でもよアキラ! こいつ、糞程に生意気な態度をよぉ!」

「大丈夫だよ、大丈夫」


 僕は怒るのが苦手だ。

 それを言語化したりするのが不得意だし、手を出そうという気にもならない。

 大した腕力もないし暴力なんてものとは遠い環境で育ってきたことも大きな理由にあるだろう。


 けれども、僕にはたった一つ……一つだけ芯となるものがある。


 それは教育の果てに根付いた戒律と呼んでもいい。

 僕には、ある人物に幼い頃からずっといわれてきた言葉がある。


『いいか、アキラ。そりゃお前は幼女みたいに小っちゃくて可愛らしくて、臆病で直ぐに泣いて蹲るような、不甲斐ない風に思える人間に見えるかもしれない。それでもお前はな、誰よりも熱を持つ、男の中の男なんだ』


 僕は背負っていたギターケースを降ろす。

 手慣れた動作のままにジッパーを開き、解放されたケース内から、それを手に取って引きずり出した。


 それは僕の相棒だった。


 僕の手元にきたのは中学一年生の頃。

 僕が尊敬してやまない、ある人物がそれを手放す際に「これで全身全霊になれ」という一言と共に手渡されたギターだった。


『お前の思うように音楽は競争じゃないし競技でもない。けれども、もし、お前の手の内に〈そいつ〉がある時に値踏みをされたのなら――』


 長く酷使された為に数多の傷を抱えるソリッドブラックの外観。

 ピックガードには無数のピック痕が走り、ボディバックには地肌が伺える程のバックル傷が刻まれている。


 特徴的なチャンバード構造に立体的なシルバーカラーのテールピースにはキャデラックの銘が与えられる。

 エルボーガードも同様にシルバーで、その外観は恐らく、誰が見ても分かる程に派手で、古臭くて、凡そ小僧の好むギターではないと思う筈だ。


 けれども僕にとっては何よりも優美で、何よりも勇ましくて、何よりも信頼のおける、絶対的なギターだった。


『全身全霊でギターを掻き鳴らしてやれ。そうすりゃ分かるだろう。ああ、なんてこった、このガキは化け物だ……ってな!』


 僕は手慣れたようにギターを構える。


 相棒の名前はデュオジェット改。

 本来ならば装備される筈のないエルボーガードやキャデラックテールピースに、中身――電装類――もある程度の改造を施した、この世に二本と存在しない唯一のギターだった。


 足元に配置したエフェクターはディストーションとディレイの二基のみ。

 組んであるボードはあれども、このメイン二基さえあれば僕の生む音はある程度伝わる筈だった。

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