第十章 配膳係の仕事 4
ある日、私たちはいつものように白花妃様の宮へと夕餉を運んでいた。
すっかり日暮れの時間も早くなり、まだ夕餉を運ぶ途中だというのに、既にあたりが暗くなり始めている。
「はあ、寒い寒い」
春蘭は一旦台車から手を放し、かじかんだ手を擦り始めた。
「大丈夫か?」
両手で、春蘭の手を包み込む。その手が氷のように冷えていることに驚いた。私よりも春蘭のほうが痩せているから、きっと体が冷えやすいんだろう。
「こんなに冷たくなって……。しばらく代わりに私が台車を押すよ」
「ありがとう。……思月の手は、あったかいね。どうして?」
そう言うと、春蘭はいかにも楽しげに、クスクスと笑った。
「わかんない。猫だから?」
適当にそう答えると、春蘭の代わりに台車を押して歩き始める。
正直もう、自分が猫だという感覚はほとんどない。
まるで猫だったのは「前世の出来事」みたいに思えている。
猫だった頃とは、世界の感じ方も、自分の考え方も、体の動かし方も、まるでちがう。
たとえ自分の魂は変わっていなくても、人間の体で人間として生きていくことで、確実に私は猫から人間へと、徐々に変わっていっている。
もう、化け猫っていうより、人間だよな……。
魅了の力だって、春蘭を守り、一緒に過ごすために三人の人間に使った時以来、一度も使っていない。
魅了の力を使うとやっかいなことになるから、というのもあるし、魅了された人間に申し訳ないから、というのもあるが、特に使う必要がなかったから使っていない、という感じだ。
どうにか魅了にかかった人を救うために、魅了を解く方法を知りたいとは思っているが、そんな方法は誰も知っているわけがない。もしも同じような化け猫に出会えたらわかるのかもしれないが、化け猫なんてそうそういるわけがないし、いたとしても、私にそいつが化け猫だと見分けられるのかどうかもわからない。
そしてその化け猫が、魅了を解く方法を知っているとも限らない。
そうやって日々色々思うところはあるけれど、私はとりあえず、春蘭と無事に暮らしていけるならそれでいい。
そんなことを考えながらいつも通り白花妃様の宮へ行くと、普段とは違う情景がそこには広がっていた。
白花妃様の宮の前に、数人の女官たちが集まっていたのだ。その上、門の前には金の装飾を施した煌びやかな牛車が止まっている。
「ね、ねえ、あれって……」
春蘭はそう言ったきり言葉を失い、その場に立ちすくんでしまった。
「え、どうした? ん?」
もしかして、と私の脳裏にもある可能性がよぎる。
そして私たちの予想通り、牛車からはお付きの宦官に手を添えられながら、きらきらと金色に輝く
ここ後宮に出入りできる男性。
それも、あんなにも豪華な龍袍に身を包み、冕冠を被った男性といったら、それは帝以外にはあり得ない。
「えっ……」
さすがの私もその事実に気づく。
すると遠くからでも私たちの姿に気づいてくれたのか、女官たちの中から桃美がでてきて、こちらに駆けつけてくれた。
「はあっ! はあっ!」
ふくよかな体を揺さぶりながら懸命に走ってきてくれたものだから、桃美は息をきらしている。
「だ、大丈夫すか?」
「ふあ、うん、うん……。はあっ!」
膝に手を突き、桃美は息を整える。
そして顔を上げ、私たちに手を合わせながら言った。
「ごめんなさい、ちょっと連絡をする間もなかったものだから。見ての通り、今夜は陛下がいらっしゃったのよぉ。夕餉は宮廷料理人が用意したものがたくさん運び込まれて来るみたいだから、申し訳ないけど今夜の夕餉は必要ないわぁ」
「そうだったんですね、かしこまりました。陛下って、急にいらっしゃるものなんですね」
煌びやかな帝の姿に目を奪われたまま、春蘭が答える。
「そうなのよお。陛下もお忙しいから、時間ができた時に急にいらっしゃるのよ」
「承知いたしました……」
正直夕餉のことなどどっちでもよい状態で、私たちはその現実離れした光景に思わず見入ってしまう。
すると女官たちの中から一人の女性が前に出て、帝の手を取り、出迎えた。
彼女は髪を高く盛り、美しい簪をいくつも挿して、質の良い襦裙に身を包んでいる。
そしてとてつもない美人だった。
目の冴えるような鮮やかな真っ赤な紅や、額に施された花鈿(かでん)がより彼女の美しさを華やかに演出しているのかもしれないが、あの化粧を無しにしても、元から美人であることは疑う余地もない。
手足も長く、その立ち姿は柳のようにしなやかで、彼女が微笑むとその場がぱっと明るくなるようだった。
「あのお方が、白花妃様、なんすね?」
桃美にたずねると、彼女はうなずいた。
「そうだよぉ。白花妃様は特別な行事以外の時にはなかなか外にお出にならないから、お姿を目にしたことがある者は少ないけれど、見ての通り、お美しくて華のあるお方なんだ」
「ですねえ」
この美貌と華やかな雰囲気。帝が特別に気に入るのもうなずける。
ちらりと隣に立つ春蘭に目をやると、あまりにも衝撃的な光景だったからなのか、無言のまま、帝と白花妃様の姿を食い入るように見つめている。
「まあ、そういうわけだから、お持ちいただいたお料理はそのまま厨房へお持ち帰りください。はあ、もったいない……。今日の夕餉ってなんだったの?」
桃美にたずねられ、私は答える。
「えーっと、煮豚と青菜の炒め物と、湯餅ですね」
「えーっ! 今日に限って煮豚? 私、煮豚が大好物なのにいいぃ」
桃美は頬を両手で押さえ、悲しそうに叫んだ。
「でも、今夜は宮廷料理人が作った豪華な食事が食べられるんじゃないすか?」
そうたずねると、桃美は肩を落として言った。
「確かに宮廷料理人の料理は、豪華な食材を使った手間暇をかけた品ばかりよ。でもどれも冷めていたり、見た目ばかりが豪華なだけで量はそんなになかったり、健康や美容にはいいんだろうけど味はいまいちだったり……。そもそも女官たちは、陛下と白花妃様がお食事をとられている間は、お世話をして愛想笑いをして、じっと待っていなければならないもの。後になってから残り物を頂戴するだけよ」
ふぅ、といかにも残念そうに、桃美はため息を漏らした。
「でもまあ、陛下がいらっしゃったのに残念がっているなんて、不敬すぎるわよね。じゃ、私、すぐにあっちに戻らなくちゃだから……。また明日ねぇ」
最後にはどうにか笑顔を取り戻し、桃美は手を振り、また女官たちの元へと戻っていく。
「いやー、すげえところに出くわしちまったな。まさか帝を見られる日がくるとは」
隣の春蘭にそう話しかけるが、相変わらずじーっと帝と白花妃に見入っていて、返事さえもしない。
「おいおい、そんなに気になるか? まあ、春蘭は人間だからな。やっぱ帝が気になるか」
猫の私はそこまで価値を感じないけど、と内心思っていると、ようやく春蘭が口を開いた。
そして信じられないことを言った。
「白花妃様……。ちょっと、姉さんに似てる」
「……えっ!?」
私は慌ててもう一度、白花妃に目をやる。
ここからでは遠くてはっきりとその顔立ちがわかるわけではないが、確かにその目鼻立ちは、どこか春蘭にも似ている。
「え、うそ。あ、でも、なんか!」
びっくりしながら私がそう叫ぶ。春蘭は、白花妃にじっと見入ったまま、しばらく動かなかった。
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