第一章 出会い 3

「おい春蘭! 戸を開けろぉ!」


 野太い声が、小屋の外から響いてくる。


「…………はぁ」


 春蘭が暗い顔をして、ため息を漏らす。


「どうした! 早く出てこい! まだ寝ていないだろう、ごまかしたって無駄だ!」


 それでも戸を開けようとしない春蘭に、声の主は叫んだ。


「俺に従わなければどうなるか、わかってんだろぉが!」


「…………」


 春蘭の顔から、スーッと生気が消えていき、顔色まで真っ白くなる。そして虚ろな目で布団から出て立ち上がり、ゆっくりと戸を開く。

 小屋の外には丸々と太った宦官が立っていた。


「はは、すぐに出てくればいいものを、手間をかけさせやがって」


 宦官が春蘭の手を取ろうとする。春蘭はその手を振り払う。


「き、今日は、帰ってください」


 すると宦官はパシン! と春蘭の頬を叩いた。


「抵抗するな、気分が悪い」


 宦官はぎゅっと春蘭の両手首を力強く握りしめて動きを封じ、その細い体を壁に押しつける。


「やめて……」


 春蘭は絞り出すようにか細い声でそう言った。


 私はその様子をじっと布団から見つめていた。

 胸の奥からぐああと、重たくて暗い感情の塊が湧き上がってくる。


 私の大切な春蘭。

 はかなげで、優しくて、大きな悲しみを抱えていて、だけど生きていくことに決めたばかりの、春蘭。


 彼女が、こんな風に乱暴に扱われていいはずがない。


「みゃあああああ!」


 私は宦官に向かって飛びかかる。

 だがまだ体力の回復していないやせっぽっちの猫である私は、いとも簡単に手で跳ねのけられ、床に体を叩きつけられた。


 い、痛い……。

 頭がぐらぐらして、気持ちが悪い。


 意識を失いかけたその時、ふと、昔見た光景がよみがえってきた。そして私を飼っていたお妃様が女官としていた会話を思い出す。

 

 ねえ、生後三年たった猫が月の光をたっぷり吸うと、人を魅了する化け猫になることがあるんですってよ。


――だったらなってやろうじゃにゃいか。


 怒りが激しく湧き上がり、体は炎のように燃え盛る。

 まるで自分が自分ではなくなってしまいそうに、熱くてドロドロなものが体内で渦巻いている。


「はぁ……はぁ……」


 そして気づけば私は、人間の女の姿になっていた。

 豊かな胸を持ち、白い肌はなめらかで、尻は丸みを帯びて上向き、手足は長くしなやかに伸びている。


「お、おい、お前は誰だ? いつの間にここに……」


 春蘭を抑えつけていた宦官が、目を丸くして私を見つめている。


「こん、ばん、にゃ」


 私は目を見開き、彼に微笑んだ。

 人間の言葉を話すのはこれが初めてのことだったので、微妙に噛んでしまった。

 ちょっと間抜けだったかもしれない。

 だが宦官はそんなことなど気にせず、私に見とれている。


 魅了、できるかもしれない。


 全身からぶわっと気の塊が湧き上がってくるのを感じた。私はそれを本能的に、宦官めがけて放った。

 光の塊が、宦官にぶちあたり、彼を包み込む。


「お、うお、うう……。うぁ……」


 宦官は眩しそうに目を細め……。

 再び目を開いたときには、恍惚とした表情に変わっていた。


「なんて、なんて美しい女だ……」


 よたよたと、宦官は私のほうへ歩み寄ってくる。

 その目つきも声の調子も動きも、なにかに操られているかのようで、まるで憑き物がついたようだった。

 てかまあ、憑いてんだろう。私という憑き物が。


「こっちに来な」


「天女様あ……」


 私は彼と見つめ合い、手招きしながら表へ出た。そして天香城の後宮の大きな通りへと向かう。

 彼はぼーっと私に見惚れ、夢中になった状態のまま、私についてくる。

 大通りで足を止めると、宦官は我慢ができなくなったのか、私に抱きついてきた。


「はぁっ! 天女様あああ!」


 私はすう、と思いきり息を吸い込んだ。


「びゃああああああああ! 誰が助げでえええええええっ! 殺されるうううう!」


 ここぞとばかりにできるかぎりの大声で叫ぶ。

こんな大声出したの初めてだ。キエェ、喉が裂けそう。

しかし私の作戦が功を奏したようで、すぐに夜警にあたっていた宦官たちが駆けつけてきた。


「どうした」


「なにごとだ!?」


 ここ天香城の後宮では、宦官が女官に手を出すことは禁じられている。


 後宮の女官たちは、帝にお仕えするためにここにいる。たとえ下級女官だとしても、帝に見初められれば妃となる可能性だってあるのだ。帝のために生涯をささげるためにここに住む女たちに勝手に手出しすれば、当然罪となる。


 魅了されている宦官は「天女様あ天女様あ」と私を押し倒す。唇を近づけようとしてきたので思わず手をぐいっと伸ばし、宦官の頬を押し潰した。

 お、重い。こいつ、肉付きがいいもんな……。それに宦官といったって元は男なのだから、力は強い。


 一体春蘭が今までこの男からどんな目にあわされてきたのか、考えたくもない。

こんなきたねーやつ、二度と春蘭に触れさせねえ。

 再び怒りがふつふつと湧き上がってくる。


「どうか、どうかお助けくださいっ!」


 ガシガシと宦官を蹴りながらも悲痛な顔でそう叫ぶと、夜警の者たちはすぐに、私にのしかかる宦官を取り押さえてくれた。


「お前、なにをしている」


「自分のしていることがわかっているのか?」


 丸々と太った宦官は、まだ魅了されているようで、二人の宦官に羽交い絞めにされながらもジタバタと暴れて私に近づこうとしている。


「彼女から俺を離すな! あの美しいお方に……! あの美しいお方に触れたい!」


「もうやめろ、あきらめろ」


「気は確かか?」


「天女様あああああ!」


「もういい、縄で縛って連れて行こう」


 太った宦官は縄できつくぐるぐる巻きに縛られ、地面を引きずられながら連れ去られていく。


「ふえんにょひゃまあああ……」


 宦官の叫び声が、徐々に遠くなっていった。


 その様子を見届けて……。思わず私はつぶやいた。


「ケッ。あれじゃあまるで叉焼だな」


 すると心配そうに様子を見ていた春蘭が、プッと吹き出し笑いした。


「うふ、ふふふふふふ。確かに」


 肩を震わせ、涙を流して、春蘭は笑い続けていた。

 私はそんな春蘭に近づき、そっと体を抱きしめた。


「春蘭、大丈夫だったか?」


「私は大丈夫だよ。掴まれた腕が少し痛むくらい。それよりさ……」


 春蘭は私の体をじっと眺める。

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