異界古書店‐隙魔堂‐

阿炎快空

異界古書店‐隙魔堂‐

 一人暮らしなのに、わざわざ「ただいま」と口に出す人の気がしれない。

「おかえり」と返事があったら、一体どうするつもりなのだろう?


 ——などと考えてしまうのは、僕がいわゆる〝視たり聴いたり〟することができる人間だからだ。


 僕の名前は守谷もりやおさむ

 中学二年生だ。






 僕は小学生の時に見舞われた自動車事故がきっかけで、未練を残して彷徨さまよう亡者の魂や、夜の闇に潜む得体の知れない何かといった、「この世ならざる者達」の存在を感じ取ることができる。

 それだけでなく——僕のような人間は、その手の存在を引き寄せてしまいやすいらしい。


 そうでなくとも、奴らは常に、生者との〝接点〟ができるのを待っている。

 だから、誰も居ない(ように見える)空間に、迂闊に声などかけてはいけないのだ。


 その辺、僕はかなり慎重だったと思う。

 くだんの事故以降、僕は怪異が絡むと、なぜだか勘が異様に鋭くなるのだ。

 それ故、僕は怪異の接近を敏感に察知することができた。


 食堂で誰もいない席の椅子が引いてあっても、が座っていないか目を凝らした。

 横断歩道の上に巨大な女の顔が浮かんでいても、顔を伏せて通り過ぎた。

 夜中に壁の染みが話しかけてきても、眠ったふりを貫き通した。


 今までは、それで上手くいっていた。

 だから——きっと、僕は油断してしまっていたのだろう。


「まずいよなあ、これ……」


 呟く僕の目の前には、色彩を失った街並みが広がっている。

 建物や地面だけではない。

 空や雲、道行く人々まで——自分以外の全てが、茶褐色のセピア調だ。

 まるで、古い写真の中に迷い込んでしまったかのようだった。


 一体、どうしてこんなことになってしまったのか。

 僕はやれやれと溜息をついた。






 そもそも、その日は朝からついていなかった。


 祝日なので、昼から同級生の蒼梧そうごと遊ぶ予定だったのだが、目覚まし時計が壊れていたらしく、アラームが鳴らずに寝坊。

 慌てて準備をしていた際に、箪笥の角に小指を強打し、爪が割れてしまった。


 その後も、自転車に乗ろうとしたら、サドルには鳥の糞がびっしり。

 雑巾で糞を拭き取り、猛スピードで自転車を漕いでいたところ、落ちていた金属片によってタイヤがパンク。

 修理の為に自転車屋に寄っていた為、待ち合わせの時間に大幅に遅れることとなってしまった。


 厄日というのは、きっとこういう日のことを言うのだろう。

 





 待ち合わせの相手——中村蒼梧は僕の親友である。

 蒼梧は人間離れした身体能力の持ち主であり、特殊な異能を用いることなく、体一つで怪異を撃退できる稀有けうな存在だ。

 ひょんなきっかけで仲良くなった僕らは、学校だけではなく、休日もよく行動を共にしていた。


 何とか蒼梧とと合流した僕は、遅刻を謝った後、二人で地元のショッピングモールへと向かった。 

 施設内には映画館が入っており、僕らの目当ては今日から公開である、海外産ファンタジー小説が原作の実写映画だった。

 ちなみに、セレクトは完全に僕の趣味である。


 上映までまだ少し時間があったので、雑貨屋などを適当に見て回っていた時のことだ。

 急にお腹が痛くなった僕は、アメコミヒーローのフィギュアを手に取って眺めている蒼梧に、


「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」


 と声をかけた。

 フィギュアから目を離さずに「ん」と無愛想に答え、蒼梧が片手を上げる。

 その精悍せいかんな顔つきもあってかよく誤解されるが、別に怒っているわけではない。

 こういう奴なのだ。

 僕は雑貨屋に蒼梧を残し、一番近くのトイレへと足早に向かった。

 






 後からこんなことを言っても仕方ないが。

 トイレに足を踏み入れた時点で、何となく嫌な予感はしていた。

 しかし、違うトイレを探す程の余裕は、その時の僕にはなかった。

 もしかしたら、家を出る前に飲んだ牛乳が原因かもしれない。

 賞味期限を確認しなかったが、長いこと冷蔵庫の中に鎮座していたような気もする。


 

 とにもかくにも。

 無事に用を足し終え、個室から出ようとしたその時だった。

 トイレ内の電気が、ふっ——と消えた。

 停電か?

 不審に思いつつも、鍵を開けようとしていた手が止まる。


 直感でわかった。 

 扉の外に、何かが居る。


 この、全身の毛穴が開くような、いやな感覚。

 間違いなく、何らかの怪異だ。

 確信を持つのと同時に、扉の外から女性の声が聞こえた。


「だぁれぇかぁあ……だぁれぇかぁ、いぃまぁすぅかぁあああ……」

 

 その声はまるで、一度録音したものをスロー再生しているかの様に不自然だった。

 迂闊うかつだった。

 やはり、無理をしてでも別のトイレを探すべきだったか。


「いぃるぅんでぇしょおおお……あぁけぇてぇくぅだぁさぁいぃよぉぉおおおおお……」


 大丈夫だ、心配いらない。

 経験上しばらく無視すれば、この手の奴は自然と消え去る。

 僕はじっと息を殺し、時が過ぎるのをひたすら待った。


「なぁあ……むぅしぃすぅるぅなぁよぉおお……あぁけぇろぉってぇええ……あぁけぇ——グゲェェェェェェッ!?」


 突然、女の声が、苦しげな叫びに変わった。

 続けて、ドサッ、と何かが倒れる音。

 何事かと驚いていると、トイレの電気がつき、聞き慣れた声が僕を呼んだ。


「修、大丈夫か!?」


 ——蒼梧だ。

 きっと、いつまでも戻ってこない僕を心配して、様子を見に来てくれたのだ。

 僕はほっとして、扉を開けた。


「ありがとう。助かったよ、蒼——」


 と、そこまで言って——僕は再び、自分の迂闊さを呪った。

 

 目の前には、おぞましい見た目の化物が立っていた。


 大玉転がしの玉のような丸い肉塊に、細い手足が生えている。

 薄橙うすだいだい色の肌には、無数の目玉や鼻、口、耳などが、規則性なく配置されていた。

 その中でも一際目立つ、体の中央に位置する巨大な口が、愉快そうにニヤリと歪む。


「駄目だよ、修。最後まで油断しちゃあ」

 

 それは先ほど聴こえたのと全く同じ——蒼梧そっくりの声音だった。


 慌てて扉を閉じようとしたが、既に手遅れだった。 

 肉塊の怪物が巨大な口をあんぐりと開け、そこから数本の触手が勢いよく飛び出した。

 粘液まみれの太い触手達が、僕の体に素早く巻き付く。


「ひっ——」


 悲鳴をあげる暇さえなかった。

 僕はそのまま、怪物の口内へと引きずり込まれ、そして——……






「まずいよなあ、これ……」


 ……——そして、冒頭の場面へと戻る。

 化け物に呑み込まれたはずの僕は、色褪せたセピア調の世界に居た。


 どうやら商店街らしく、どこまでも伸びる石畳の両側にずらりと店が並んでいる。

 しかし通りは閑散としており、並ぶ店舗も、シャッターが閉まっているところが目立つ。

 通行人は揃って俯き、ゾンビの様によろよろと歩いていた。


「あの……すいません」


 僕はすぐ近くを通りかかった、チェック柄のシャツを着た青年に声をかけた。

 青年が立ち止まり、ゆっくりと顔をあげる。

 その顔は能面の様に無表情で、一切の感情を読み取ることができなかった。


「ここは、一体どこですか?」

「……」


 青年は無言でこちらを見つめた後、再び俯き、その場からゆっくりと去っていってしまった。

 この調子では、おそらく他の人々も似たようなものだろう。


 念のため、一応スマホを取り出してみる。

 表示は、圏外。

 まあ、予想はしていたが——しかし困った。

 どうしようかと途方にくれていた、その時だった。


 にゃーお。


 それは、猫の鳴き声だった。

 こんなところに、猫?

 いや、少なくとも見た目は商店街なのだから、居てもおかしくはないのかもしれないが——


 にゃーお。


 再び、遠くの方から鳴き声が聴こえた。

 気が付けば、僕は鳴き声のした方に歩き出していた。

 なぜだか、その声が僕を呼んでいる気がしたのだ。

 怪異に騙されるという醜態を晒した後なので説得力には欠けるが、少なくとも——その鳴き声からは、厭な気配は感じなかった。






 数分後。

 定期的に聴こえてくる鳴き声に導かれて辿り着いたのは、とある二階建ての建物だった。

 その建物には、周囲と異なり〝色〟が存在した。


 薄汚れた白い壁面は、大部分が緑のつるに覆われている。

 入り口の上部には、『隙魔堂』と大きく書かれた看板が掲げられていた。

 ——すきまどう、と読むのだろうか?


 中を覗こうとした時、ちょうど入り口のガラス戸が開き、中から二足歩行の猿が出てきた。

 猿は僕と同じくらいの背丈で(ちなみに、僕の身長は165センチだ。せめて蒼梧と同じ、170は欲しかった)、全身が真っ赤な毛で覆われていた。

 ボロボロの和綴じ本を、小脇に数冊抱えている。


「おおっと、邪魔してごめんよお」


 猿はそう言うと、矯正器具のびっしり付いた歯を見せつけるようにニカッと笑った。

 呆然と猿を見送った後、僕は気を取り直して、建物の中へと足を踏み入れた。


 薄暗く、埃っぽい室内には、本棚がびっしりと並んでいた。

 どうやら、ここは古書店らしい。


「ふーむ……」


 声のした方を見ると、おそらくは店主であろう——紺色のベレー帽をかぶり、白い髭をサンタクロースの様に伸ばしたお爺さんが、レジの向こうに座っていた。

 

「あのう——」


 おそるおそる近づき、声をかけた僕だったが、


「タテのカギは、『中世の拷問器具』か……て、つ、の、し、よ、じ、よ……字数が足りんな……」


 店主は机に広げた雑誌を睨みながら、万年筆を手に、うんうんと唸っている。

 どうやら、クロスワードパズルを解いている最中らしい。

 チラリと目をやると、紙面のパズルには、


「ぺすと」

「むらさきかがみ」

「るるいえ」


 などといった単語が書き込まれている。


「ここは一旦、後に回して……『最初の文字が〝ス〟の猛毒』……ス……ス……何かあった気がするんだが……ううむ、年を取ると記憶力が……」


 店主は深々と溜息をつき、


「ご存じありませんか?七文字の単語なんですが」


 そう言って、僕の方に視線を向けた。


「え?えっと——たぶん、ストリキニーネ、ですかね?」

「おお!それです、それです!おかげでスッキリしました!」


 店主はパアッと明るい笑顔を見せると、


「いやあ、博識ですなあ、お客さん」


 と感心しつつ、空欄に「すとりきにーね」と書き込んだ。


「いえ、最近読んだ推理小説に、ちょうど出てきたんで……」

「なるほど、なるほど。推理小説がお好きですか?であれば、私のお薦めは——」


 と、そこまで言って。

 店主はふいに、口を噤んだ。

 物珍しそうに、僕のことをじろじろと眺め回す。 


「ほほう——てっきり、あやかしのたぐいが化けているのかと思いましたが——本物の人間の方でしたか。しかも、まだ〝色〟がある。一体どうしてこんなところへ?」

「えっと——実は——」


 僕は店主に、これまでの経緯をかいつまんで説明した。


「それはそれは、災難でしたなあ。運の悪い日というのはあるものです」

「あのう、ここは一体、どこなんですか?」

「ここは『忘却ぼうきゃく横丁よこちょう』。世界にできた隙間に入り込んでしまった人々が辿り着く場所です」

「世界の、隙間?」


 ええ、と頷き、店主が続ける。


「世界の隙間は、様々なところに現れます。ビルとビルとの間だったり、ベッドと床との間だったり——油断した時に生じる、心の隙だったりね。おそらくその化け物はあなたの、『これで助かった』という油断を利用して、この世界に閉じ込めたのでしょう」


 なるほど、俗に言う『神隠し』というやつか。


「元の世界に戻る方法を知りませんか?」


 僕の質問に、店主は顎髭をさすりながら、ううむと唸った。


「この店には、いろいろな次元からお客様がやってくる。次元間の行き来自体は不可能なことではないが——あなたの場合は、難しいかもしれませんなあ」

「どうしてです?」

「通りを行き交う人々を見ましたか?この世界の住人は、大半が彼らのような存在だ」


 店主の言葉に、僕は先ほどの青年の姿を思い出した。

 うつろな瞳に、亡者の様な足取り——


「あの人達は、何者なんです?」

「あなたと同じく、世界の隙間から迷い込んできた者達です。そうした者達は、この世界に囚われ、〝色〟を奪われる。そうなったが最後、元の世界の記憶すら失い、もはやどこへ帰ればよいのかすらわからなくなる」

「そんな……!」

「大抵の人間は、こちら側に来ると即座に〝色〟を失ってしまうものだが……あなたの〝色〟は、必死にあなたにしがみついている。いやはや、大したものです」


 しかし、それも長くはもたないでしょう——そう言って、店主は沈痛な面持ちで首を振った。

 くそっ、冗談じゃない。

 無駄とは知りつつ、僕はもう一度スマホを取り出した。


「あの――どこか、携帯が繋がる場所とかありませんかね?」

「どこにかけるおつもりです?」

「とりあえずは、蒼梧——友人に相談できればなと。何かいいアイディアをくれるかも——」

「無駄ですな」


 僕の言葉を遮り、店主が非情に告げる。


「携帯の電波だけではありません。世界というものは、それぞれことわりが異なる。世の中には、千里眼やテレパシーと呼ばれる不思議な力を持つ者達も居ますが——そうした力も基本的には、他の次元へは干渉できません」


 要するに。

 僕から助けは求められないし、僕がここに居ることに、誰も気がついてはくれない、ということだ。


 駄目だ——打開策が思いつかない。

 僕が絶望しかけた、その時だった。


 にゃーお。


 僕はビクッとして、すぐ後ろの本棚を振り返った。


「どうかされましたか?」


 店主が怪訝そうな声で、僕に尋ねる。

 どうやら、今の鳴き声が聴こえなかったらしい。

 僕の視線は、本棚に収納された、とある本の背表紙に注がれていた。


「この本……」


 手に取り、表紙を眺める。

 真っ赤なマントをなびかせ、剣を構えた白猫の絵——

 

「その本は——ああ、『ねこねこランドの大冒険』ですか」


 店主が僕の隣りへやってきて、懐かしそうに目を細めた。


「この絵本の作者は、娘を一人亡くしておりましてね。娘さんがよく落書きしていた『にゃははうぺー』という猫のキャラクターを主人公にしたのがこの作品です。作者の念がこもっているからでしょうか。子供の頃、落ち込んでいたら『にゃははうぺー』が夢に出てきて慰めてくれた——などといった逸話が沢山ありますなあ」


 僕はこの絵本に、見覚えがあった。

 遠い昔——まだ幼稚園児だったころの記憶だ。


「これ——昔、読んだことがあります」

「ほう。そうでしたか」

「ええ。正直、話は殆どおぼえてませんけど……」


 そんな僕の呟きに店主は、


「たとえあなたが本の内容を忘れても、本はあなたを憶えているものです」


 そう言って、優しく微笑んだ。

 僕は店主の言葉を噛みしめながら、表紙の猫をじっと見つめた。


「……きっとこの絵本が、僕をこの店まで導いてくれたんだと思います」

「ほう?しかし、なぜこの店に?」

「これは、あくまで僕の勘ですが——」


 僕はそこで一旦言葉を切り、店内をぐるりと見渡した。


「——おそらくこの店内に、僕が帰るための鍵がある」


 怪異が絡むと、僕の勘は異様に鋭くなる。

 今は、その勘に賭けるしかない。


「ふうむ。確かに、この店には曰く付きの本が沢山揃っている。その中には、特殊な力を秘めたものもあります。例えば——」






 この、書物占いの本なんてどうでしょう?

〝ビブリオマンシー〟と言いましてな。

 開いたページに求める答えがある——というやつです。

 記されているのは、あなたの未来だ。

 ただし、守るべきルールが二つ。

 まず一つ目——占いをしていいのは、一日一回まで。

 そして二つ目——何頁にどんな文言が書いてあるか、決して把握してはいけないこと。

 このルールを破ると魔法が解けてしまい、単なる『抽象的な助言』を羅列したつまらない本になってしまいますので、お気をつけて。

 どれ——試しにやってみますか。

 いえいえ、初回に限り、お代は結構。

 さあ、開いて——そこでいいですか?

 どれどれ……

『猫があなたの助けになる』

 これは……先ほどの絵本のことでしょうか?

 おかしいですな……この本は基本的に、未来に関する助言をしてくれるはずなのですが……

 なんにせよ、本日分の占いはこれでお終いですな。

 残念ですが——しかし、諦めるにはまだ早い。

 他の可能性を模索しましょう。






 その、鉄製の鳥籠に入れらている本ですか?

 人間に恋をしてしまった、哀れな書物です。

 ああ——籠には触れないで。

 刺激すると危険ですよ。

 ほら、表紙が黒く汚れているでしょう。

 それは血です。

 そいつはもともと、とある美しい女性の持ち物でして。

 持ち主はこの本を愛し、本もまた、持ち主を愛した。

 しかし、とある晩のことです。

 体調が悪かったのか、はたまた空気の乾燥のせいか。

 持ち主の流した鼻血が一滴、頁に垂れてしまいました。

 そのたった一滴が、本を——彼を狂わせた。

 彼はその全身を、愛する人の血で染め上げたくなったのです。

 翌朝——持ち主の母親が、何者かに撲殺された娘と、血で汚れた書物を発見しました。

 そして、悲劇はそれでは終わらなかった。

 第二の犠牲者は母親です。

 彼はすっかり、血の味を覚えてしまいましてね。

 そうやって閉じ込めておかないと、鳥の様に羽ばたいて、人間を襲ってしまう。

 自らの角を嘴の様に打ちつけ、相手が死ぬまで、何度も、何度も、何度も、何度も……ね。






 この古びた洋式帳簿は、名前を書いた相手を、この世から消し去る力を持っています。

 いえいえ、殺すのではありません。

 そんな人物は、最初から〝居なかった〟ことにしてしまうのです。

 例えば、そうですな……

 あなたが、誰か嫌いな相手の名前を書き込んだとします。

 するとその人物は、世界から完全に消滅する——あなたの記憶の中からも。

 そして手元には、見ず知らずの人の名前が書かれたノートが残る。

 自分の筆跡で間違いないが、いつ書いたのかすら思い出せない。

 どうです、なかなか不気味でしょう?

 頁を開いてみてください。

 大勢の名前が書かれているでしょう?

 今となっては、誰も彼らを憶えていない……

 まあ私の様に、消えてしまった者達を覚えていられる存在もいなくはないですがね。

 え?私が一体、何者かって?

 ふふ——まあいいじゃないですか、そんなことは今はどうでも。

 ああ、そうそう。

 親御さんを消してしまうと、タイムパラドックスで自分も消えるのでご注意を。

 意外と多いんですよ、その手のミスを犯す方が。





 後は、そうですなあ。

 不思議な力を秘めたものですと、そこの真っ赤な表紙の——

 おっと、そんなに勢いよく開かないで!

 あーあー……文字たちがびっくりしてしまった。

 そうです、この黒い染み達は、言わば『生きた文字』。

 よく見ていてください。

 ほら、形を変えて、物語を紡ぎ始めた。

 これは読むたびに内容が変わる、魔法の本なのです。

 つまり——この本一冊で、ありとあらゆるジャンルの物語を楽しむことができるというわけですな。

 どうです、読書好きにはたまらないでしょう?

 とは言っても、欠点もございまして。

 この文字達ですが——彼らの作風は、なかなか癖が強いといいますか。

 とにかく、こう、読んでいて鬱々としてくるんですな。

 最終的には八割方、主人公が自殺して終わります。

 いえ、内容自体は素晴らしいですよ。

 ただ、主人公に感化され、後追い自殺をしてしまう方が殆どで……

 せっかくの魔法にも関わらず、読み返すお客様は殆どいません。

 まあ、作家性と言ってしまえばそれまでなんですが——なるべく、コンディションの良い日に読むのをお勧めしますよ。






「この他にも、『詩才溢れる食人鬼が、毎日かかさずつけていた日記帳の原本』ですとか、『構想段階で監督が死亡したため、この世に存在するはずのない映画パンフレット』ですとか、いろいろ珍しいものを取り揃えてはおりますが……ううむ……あなたを元の世界に帰せものとなると……」


 腕組みをして思い悩む店主に対し、


「いいえ、もう大丈夫です——」


 僕はそう断りを入れると、ニヤリと笑って続けた。


「——大体、見当は付いたんで」

「なんと!?本当ですかな!?」


 はい、と頷き、僕は目当ての本棚へと近づいた。

 そこには、ついさっき店主が紹介してくれた、とある本が収められている。


「僕を救ってくれるのは——きっと、こいつです」


 そう言って僕が手に取ったのは、茶色い表紙の、古びた洋式帳簿だった。


「『存在を消す帳簿』?しかし、それが何故……?」

「それはですね——」


 推理小説の探偵よろしく、得意げに解説しようとした、ちょうどその時——異変は起こった。


「——ひっ!?」


 帳簿を掲げた僕の右手が、指の先から徐々に、セピア調へと変色し始めたのだ。


「ふうむ、〝色〟が奪われ始めましたか。もはや、あまり時間は残されておりませんな」


 なんてこった。ぐずぐずしてはいられない。

 僕は慌てて、店主へと詰め寄った。


「あ、あの――この帳簿って、おいくらですか!?」

「そうですなあ。昔であれば、『寿命の半分』などと吹っ掛けたところでしょうが——私も年を取って、だいぶ丸くなりました。クロスワードパズルのご恩もありますし——」


 にっこりと微笑み、店主が続ける。


「——出血大サービスです。今お手持ちの全財産で良しとしましょう」

「あ、ありがとうございます!——あ、あの――今、財布に、数千円しか入ってなくて——」

「ええ、ええ。構いませんとも」


 店主はお金を受け取りながら、興味津々といった様子で僕に尋ねた。


「それで、その帳簿を一体何に使うんですかな?」

「それはですね——その万年筆、お借りしていいですか?」


 僕は店主からクロスワードパズルに使っていた万年筆を受け取ると、机に帳簿を広げた。


「先ほど、言ってましたよね?『世界はそれぞれ、理が異なる』って」

「ええ。言いましたが——まさか」


 店主が、ハッとした表情で僕を見返す。


「その『まさか』です」


 僕は目を瞑ると、大きく一回、深呼吸をした。

 大丈夫——考え方は間違ってはいないはずだ。


「今ここで、僕が自分の名前を書けば——消えるのはあくまで、だ!」


 目を見開き、頁に万年筆を走らせる。


『守谷修』


 最後の一字を書き終えた瞬間——僕の体は、今度は徐々に透き通り始めた。


「うわっ!?」


 万年筆が手をすり抜け、机の上に転がる。

 僕という存在が、どんどん薄れて、無くなっていく——


「い、今になって、急に不安になってきたんですけど——僕、なんか、間違えちゃいましたかね!?」

「いいえ……おそらく、あなたの読みは正しい」


 店主はそう呟くと、僕の書いた文字をそっと指でなぞった。


「帳簿の力によって、あなたがこの世界にやってきたという事実そのものが帳消しになるはず——いやはや、お見事です」

「だ、だといいんですけど……」

「大丈夫ですよ。先ほどの占いを憶えていますか?」


 占い——書物占いのことか。

 頁に書かれていたのは、たしか——



「あれはやはり、未来で起こる事象についての記述だ。こととなるはずです」

「は、はあ……」


 いまいちピンと来ていない僕に、店主が続ける。


「理屈で言えば、あなたがこの帳簿を書いとったという事実も消えてしまうわけですが——丸くなったとはいえ、これも商売だ。代金は、キチンと頂いておきますよ」


 そう言って微笑む店主の影が、ゆらり——と床を離れ、自らの主人の横へと並び立った。

 店主とその影が、二人揃って僕に手を振る。

 次第に薄れていく意識の中、僕は確かに見た。

 店主の影に、蝙蝠コウモリの様な大きな両翼と、山羊ヤギにそっくりな二本の角が生えているのを——……







 ……——気がつけば。

 目の前には、おぞましい見た目の化物が立っていた。


 大玉転がしの玉のような丸い肉塊に、細い手足が生えている。

 薄橙色の肌には、無数の目玉や鼻、口、耳などが、規則性なく配置されていた。

 その中でも一際目立つ、体の中央に位置する巨大な口が、愉快そうにニヤリと歪む。


「駄目だよ、修。最後まで油断しち——」

「——おっらあああああ!」


 怪物の声真似を遮り、本物の蒼梧の雄たけびがトイレに響き渡る。

 呆然と立ち尽くす僕の目の前で、蒼梧はグロテスクな肉塊を思いっきり足蹴にした。


「ギェェェェェェェ!?」


 怪物が悲鳴をあげながら吹き飛び、小便器の並んだトイレの奥へゴロゴロと転がる。

 見ていて惚れ惚れする、見事なドロップキックだった。


「ったく——油断してんじゃねえよ、修」

「あ、ああ……」


 曖昧に頷きながら、僕は必死に記憶を辿った。


 ここは……ショッピングモール内のトイレか?

 そうだ——僕はたしか、急にお腹が痛くなって——そして、怪物に襲われたのだ。

 特に、記憶に抜けはない。

 しかし、何故だろう。

 何かを忘れてしまっているような——


「おい、大丈夫か?」


 眉根を寄せて、蒼梧が僕の顔を覗き込む。


「う、うん、大丈夫——でも、よくわかったね。僕が襲われてるって」

「偶然だよ、偶然。映画の前に、念のためトイレに行っておこうかと思ってさ。まだ少し時間もあるし、直前でいい気もしたけど——来て正解だったな」


 蒼梧はそう言うと、倒れて痙攣している怪物に歩み寄り、


「俺の——友達に——手を——出すなッ!」


 馬乗りになって、ひたすらに殴り始めた。


「ギェッ——ギェッ——ギェ——」


 拳が体にめり込むたびに、肉塊が短い悲鳴をあげる。

 毎度のことながら、何だか怪異が可哀そうになってしまう光景だ。


 やがて——怪物の体はドロドロと炎天下のアイスのように溶け始め、そのまま床に染み込んでいき、跡形もなく消えてしまった。

 フン、と鼻を鳴らし、蒼梧がひらひらと手を振る。


「あいつには、少し前に襲われてさ。一発殴ったら逃げちまったんだけど、どうやら根に持ってたらしい」

「で、腹いせに友人の僕を襲った、ってこと?蒼梧の声真似までして?」


 なんだそりゃ。完全にとばっちりじゃないか。

 僕は深々と溜息をついた。


「まったく、とんだ厄日だよ……」

「そう言うなって。こっから巻き返してこうぜ」


 小便器で用を足しながら、蒼梧が軽い調子で言う。

 まあ、確かに蒼梧の言う通りだ。

 せっかくの休日なのだし、楽しまなければ損だろう。


「それもそうだね」


 洗面所で手を洗いつつ、僕は気を取り直し、笑顔をつくった。


「とりあえず——今日はこれ以上、酷いことが起こらない様に願っておくよ」






 ——などという僕のささやかな願いは聞き届けられず。

 映画館でチケットを発券しようとしたらなぜか財布の中身が空っぽで、仕方なく蒼梧からチケット代を借りることとなった上、映画は普通にイマイチだった。


 まったく、やれやれだ。

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