一章12話「黒い仮面の男」
薄暗いダンジョン通路の先で、赤い双眸がこちらを見つめていた。
それを見て、男は体を震わせる。
「……ガルムかぁ、あんまりいい思い出ねぇんだよなぁ」
黒い仮面に、同色のダウンジャケットとスキニージーンズ。蛍光グリーンのランニングシューズを履いて、男は短剣を構える。
腰には麻の巾着。短剣を収めるための鞘があるだけ。
「まぁ、どうにかなる……か」
男はその赤い芝生のような頭で考える。
目の前のガルムは一頭。しかし生態として集団で行動する魔獣が、ここに一頭だけというのは考えづらい。
他の仲間が駆けつける前に……。
「まじかぁ……」
悠長に作戦を考えている暇はなくなる。
二頭目のガルムが現れたのだ。
よだれを垂らして完全に、男を獲物として認識しているのがわかる。
「ささっと始めるか──」
駆け出した男は、一頭目のガルムに襲いかかった。
左手に握る短剣を走った勢いで刺突。
グルルッ──。
威嚇の喉鳴りと共に、軽くあしらわれる。
地面を強く蹴り出し、間髪入れずに二撃目を振り抜いた。
ガルムの黒い体毛がフワッと舞う
しかしスレスレで避けられる。
着地でよろめいた男に、二頭目の牙が迫っていた。
(やべぇ、このまま後ろに──)
男は片足で飛び退く。
ガチンッ──!
金属を叩きつけたような音と共に、ガルムが口を閉じる。
ダンジョンでガルムが生きていけるのは、その咬合力にあるらしい。
およそ千八百キログラム。地上の狼の三倍と言われる。
地上の狼が、鹿を骨ごと食すらしく、ガルムにとって探索者の身体強化などないに等しいだろう。
「あっぶねぇ……」
間一髪で避けた男は、地面に尻餅をつく。
すぐさま立ち上がると攻勢に転じた。
一撃目、二撃目、三撃目。
短剣でガルムの急所、首元を狙い振り抜いていく。
しかし、狼はその剣の軌道を読んで、交わしていった。
その時だった。
「またか……?」
三頭目、四頭目のガルムがゾロゾロと合流し始めたのだ。
計四頭になった獣の群れは、散らばり連携が生まれていく。
(やばそうだな、せめて一頭……)
焦燥感に駆られた容易い攻撃など、弱肉強食の世界で暮らす魔物に効きはしない。
振り上げた短剣は、大振りでガルムの頭へ直線的な軌道を描いた。
その攻撃をスルリと交わすガルムは、短剣を持たない右手に噛み付く。
そして振り回すようにして壁面へ叩きつける。
「グハッ……」
強い衝撃で、息が途切れる。
同時に、動体視力が人間とは桁外れであることに驚いた。
(まだまだ──!)
隙を作らないために、すぐさま動き出す男。
投げ飛ばしたガルムを見据えて、右手を振るう。
その時、鉄製の右手から、仕込み剣が飛び出し、一頭目のガルムを切り裂く。
喉を鳴らしながら、恨めしそうに睨むガルムは、動きを止めた。
そして砂のように消えていく。
「まず、一頭目ぇ!」
勢いを活かしたまま、二頭目の喉元に仕込み剣を一文字の軌道で振り抜いた。
グルウッガウッ──。
奥にいるガルムの号令で、残った二頭が、飛び退いていく。
右の仕込み剣を振り抜いた反動で、体が横に流れた。
号令を出したガルムが再び、唸りをあげる。
グルウッ──。
合図を受けたガルム達が、左右から飛びかかってくる。
体が横に流れ、さらには振り抜いた影響で開いている状態。
短剣を慌てて振るったとて、一頭、仕留められれば上出来だ。
「オラァッ──!」
声を上げると同時に、飛びかかるガルムに向けて短剣を突き出す。
二頭目をなんとか仕留めると、右から迫っていた三頭目が、右脇腹を凶悪な爪で引き裂く。
「ぐあぁ──!」
痛みを堪えて、後ろに下がる。
ドンッ──。
背中が壁面にぶつかる。
ガルムのいる正面以外を、全て壁に囲まれた状態だった。
そして切り裂かれた衝撃で、二頭目を仕留めた短剣を手放していたらしい。
手が届かない距離で、ガルムに刺さった短剣が見えたのだ。
背後の壁に手を当てて、ひっ迫した状況にあることを理解する。
脇腹を見ると、ダウンジャケットから赤い羽根が飛び出ていた。
出血量はそこまでではない。
しかし思考力を奪い去るのは、失血の恐怖ではなく、痛みだった。
「……あれ?」
腰の麻袋を触って、中身が大幅に減っていると気が付く。
「まあ、いっか」
ガルムはよだれを垂らして、ゆったりと近づいていた。
彼らからすれば、急ぐ必要はない。
逃げ場を封じて、大きいダメージを与えた。あとはトドメを刺すだけなのだから。
だからこそ、気が付かない。些細な変化に。
「かかってこいよ──!」
男が声を張り上げると、二頭のガルムが飛びかかってくる。
「──今ッ!」
タイミングをみて、男は右腕を地面に叩きつける。
地面に落ちた火炎石は、衝撃で砕け散った。
ババババババッ──!
と同時に熱を帯びた爆風が、砕けた火炎石を中心に巻き起こる。
グルウッガウッ──。
一頭だけを巻き込んだ爆発は、統率個体の怒りを買ったらしい。
「痛っ……」
男は爆発の衝撃で、義手の仕込み剣を失っていた。
ガルムは男を見たまま、ゆっくりと後退していく。
アウオォォオン──!
そして遠吠えをした。
鳴き声に反応したガルムが四頭現れる。
状況は振り出しどころか、悪化していた。
メイン武器の短剣を失い、義手に仕込んだ剣さえ壊れ、脇の負傷が思考力を阻害する。
残りの火炎石は、麻袋に二つ。
地面に散らばっていた火炎石は、連鎖して全て粉々になっている。
「……やばいかな」
少しだけ弱きになり始めていた。
残っている麻袋の火炎石を使い、状況を変えるしかない。
男は、火炎石入りの麻袋を、ガルムの群れの中央へ放る。
と同時に、砂となったガルムの元にある短剣を、拾い上げに駆け出した。
視線はまっすぐに短剣を向いている。
「あとちょっと……」
火炎石の麻袋は、群れの真ん中に落ちた。
あとは短剣を拾い上げて、剣の腹を打ち込むだけ。
グルルッ──。
視線を向けていたのが悪かったのかもしれない。
ガルムは、意図してか、無意識か、短剣を弾き飛ばした。
「やるしか、ない……か!」
左手に握られた火炎石。
それを義手に装填する。
(壊れるからやりたくなかったけど……)
右手の義手をガルムの群れに向けた。
ガウガウガウッ──!
統率個体は命令を出したのだろうか。
しかし、もう遅い。
「【
張り上げた声と同時に放たれた火炎砲は、ガルムを一掃した。
次々に魔石へと姿を変える狼達。
焼き切れた義手が地面に落ちる。
黒焦げになった義手を抱えた男は、仮面を外した。
そこには左頬から首元へ流れる火傷の跡がある。
「あっちぃ〜。ささ、かーえろ」
ガルム達の魔石をダウンジャケットのポケットに放り込んで、ダンジョン上層へ足を向けた。
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