人生、落差は最小限に。

渡貫とゐち

成功者は油断できない


「人生は落ちるものだと思っておいた方がいい」


 欲のない人間だった。

 その男は孫の代まで遊んで暮らせるほどの資産があり、今もなお増え続けている。

 人生の成功者、と呼ぶべき男だった。


 しかし、たんまりと金を持つ男は、増え続ける金を使わず、身の丈に合わない貧相な生活をしている。

 大豪邸に住んでいて当然なのだが……、周りも、男の顔は世間に知れ渡っているのだから警備の問題もあるため、大豪邸でなくともせめてオートロック付きのマンションに住むべきだとアドバイスをしているのだが、男は頑なに首を縦に振らなかった。

 何度言っても、たくさんの友人が説得しても、彼は左右にしか振ってくれない。


 未だに、十年前、初めてひとり暮らしをした時の若者向けアパートに住んでいる。

 冷蔵庫付きのワンルームだ。

 家具類は自分で揃える必要があったが、冷房も備え付けられていた。家賃は今の彼の資産を考えれば雀の涙ほどである。

 セキュリティは甘く(ないようなものだ)、壁も薄いので、隣の住人の声が聞こえてくるほどだ。大金持ちがメインの住居として使うにはあまりにもグレードが低過ぎる。


 それでも、ここにまだ住んでいるのは、彼なりの理由があるのだ。


「私はあの家で成功したのだよ。つまり、あの部屋から引っ越してしまえば、まるで成功を自分から捨てたような感覚になってしまう……。恩知らずのことを、神様はよく見ているよ。神に見離された私は失敗続きで転落するかもしれない。そう考えると、なかなか引っ越そうとは思えないわけだな」


 狭い一室から生まれたものばかりだ。

 そこで生まれたものが、彼を成功者へ導いた。

 今も現在進行形で技術が求められている以上、昔からの慣れた環境を変えるのは得策ではないと判断した。仕事部屋として残しておいてもいいが、男からすれば「違う」のだ。その手もあるが、しかしそうではない。理屈ではなく、感覚の問題だった。


 この部屋でなければいけなかった。


 百歩譲って引っ越したとしても、恐らく同じような部屋にするだろう。グレードアップさせることはきっとないだろう。

 男にとって、部屋が広くなることは重要なことではない。狭い方が落ち着く、と染みついてしまっていると、これ以上広くしても逆にストレスになってしまうだろう。

 住めば都とはよく言うが……、都と感じるまでの期間を、男は惜しんでいる。慣れるまで不自由するなら、最初から引っ越すべきではない、と。


 家を重要視していなかった。

 ならなんでもいい、となるのだが、少なくともグレードアップした部屋ではない。

 敷地から玄関まで。

 玄関から部屋までのアクセスが最短で済むところこそ、男の理想の部屋だ。


 つまり今の部屋で充分なのである。


「それに、人生、いつ転落するか分からないだろう? 転落はするものだ。誰だって、いつどこで起きるか分からないだけで、必ず落ちる――。落ちないまま死んだ人間もいるだろうが、死んだことが落ちたことになるのではないか? どうせ落ちるのだ、落差はできるだけ0にしたいだろう?」


 0、となると、落下する隙間もないくらいに地面を這っていた方がいいが、さすがに人間らしい生活を送りたい男には譲れない部分があった。

 最低限でも、壁と屋根は欲しい……、贅沢ではなく普通のことではあるものの、転落後の最悪のケースを考えるなら、地面を這うことも想定しておかなければならない。


「たとえばタワーマンション最上階で、人生の成功者として満喫していたとしよう……しかし仕事で失敗し、全てを失い転落したとすれば、高い位置のタワーマンションから落ちれば、地面までの差はエグいほどだ。落下した時にはもう、肉体は爆発四散するだろうな。そして、一度タワーマンションを知ってしまえば、陸橋下での生活に堪えられると思うか?」


 レジャーシートを敷いて横になるような……。

 壁がなければ屋根もなく、寒さに震え暑さに苦しみ、雨に濡れて人に見下される生活。

 一度でも上の味を知ってしまえば、もう最下層では満足できない。

 できるわけがなかったのだ。……だから、男は言うのだ。


「できるだけ、落下した時の落差は最小限に、だ」


 タワーマンションに住むからこそ、落差が増えるのだ。

 これが風呂トイレ共用のアパートだったらどうだろう。風が吹けば軋むような不安定な木造アパートに住んでいながら、仕事で失敗し、全てを失ったとしても――落下した時の落差は大したことない。

 自身の身長よりも低い段差から落ちたところで、驚くだけで痛くもない。贅沢な生活をしていたわけでもなかったのだから、風呂トイレ共用だったのが、そもそもなくなったとしても大差はない。もちろん、あった方がいいのだが……ないものは仕方ない。

 ないならないなりになんとかする……金で解決をしてこなかった、知恵の使い方で、全てを失った男はその位置でも楽しんで生活できるだろう。


 成功に安心して、一気に高く上がった者だけが味わう落差がある。

 成功し続けていれば考える必要がないことかもしれないが、人間、そう上手くはいかないものだ。天才だって、ミスをする。凡才と同じ失敗を、天才だってするのだから――――天才だけが免除されているわけではない。


 早いか遅いかの違いだ。

 人間は落下する。いつでもどこでも、必ずだ。


「生活水準は上げないことをおすすめしよう。身の回りのことをグレードアップをさせるなら、自己の研鑽に使った方が有意義ではないかな。それとも、部屋を広くすれば仕事が回るとでも? ……ないとも言えないが」


 成功にはメンタルが強く影響する。

 生活のグレードが上がることで成功率が上がることも、当然あるのだ。


 男の言うことが全面的に正しいというわけではない。間違ってはいないが、全員がするべき模範ではないのだ……。成功者が贅沢をしなければ、社会は回らなくなってしまう。

 なによりも、夢がないと、後進が育たない。


「と言ったが、好きに生きた方がいい。無理をして落差を失くしても楽しくないだろう。楽しくなければ人生ではないよ。成功者は豪遊したらいいさ、大豪邸に住むも自由、女遊びを繰り返すも自由だ。制限などない。誰も止めないし、全ての責任は自分にある。その上で、繰り返し言っておくが――――」





 遅かれ早かれ、どこかのタイミングで、絶対に人間は一度、どん底まで落ちるのだから。



 …了

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人生、落差は最小限に。 渡貫とゐち @josho

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