鈴鳴りの巫女

竜胆

第一話 『妖と少女』

     ✡ 【壱】 ✡


「はぁ、はぁ、もうすっかり遅くなっちゃった」

 

 周囲が暗闇に染まった夜の九時、私は一人学校からの帰路を疾走していた。

 

 私の名は篠宮穹しのみやそら

 公立しおさい高校に通う高校二年生だ。

 

 部活は吹奏楽部に所属していて、フルートを担当している。

 自分ではよく分からないが、部活のみんなや顧問の先生が言うには、私の肺活量は凄いらしい。

 

 その特技のお陰もあって、大会でもフルートの独奏のパートに抜擢ばってきされた。

 そんな理由から『神の息吹ゴッド・ブレス』なんて変な二つ名までつけられてしまった。

 

 ⋯⋯どうせ付けてもらうなら、もっと可愛い名前にして欲しかった。

 

 そんな訳で、大会も近づいている影響もあって最近は特に練習に熱が入り、この時間の下校に至るのである。

 

 とは言うものの、正直私は暗闇が得意な方ではない。

 だから出来ればこんな時間の帰宅も勘弁していただきたいのだけど。

 

 一緒に帰る友達はいないのかって?

 それはもちろんいるけど、同じ道なのは途中まで。

 後半はやっぱり一人で帰る羽目になるのだ。

 

  私は不安な気持ちを抱えながら闇の広がる路地を駆け抜けた。




 突然の妙な違和感に私は気付いた。

 

 目の前の景色が 

 空気の感触が 

 空気の音が 

 空気の匂いが


 突然知らないものへと変貌した。

 

 目の前に広がるのは、荒廃した殺風景。 

 肌を撫でるのは、嫌な感触が纏わりつく生暖かい空気。 

 耳に入ってくるのは、虫の鳴き声すら聞こえてこない無音。 

 鼻に薫るのは、気分の悪くなる様な異臭。


 私が後退りをすると、地面の砂がジャリッと音を立てた。

 

 私の五感が警告する。 

 ここがいつもの世界でない事を⋯⋯。

 

 私の六感が警告する。

 ここが非常に危険である事を⋯⋯。

 

「こ、ここ⋯⋯どこ⋯⋯?」


 ──ゾクリ

 

 不意に背筋に走った突然の寒気。

 見えなくとも分かるその存在、気配。

 

(な⋯⋯何かが⋯⋯私の後ろに⋯⋯いる!)


 私は目をつぶり、無我夢中で走りだした。

 

 ただ怖かった。


 振り返って、後ろにいるものの正体を確かめてしまったら、もう二度とここから出られないかもしれない、という嫌な直感が働いた。

 

 私は走って、走って、走り続けた。

 

 どこへ続くか分からない道の無い道を⋯⋯。




 ガッ!

 

「わっ!?」

 

 ドシャ!

 

 何かにつまずき、私は派手に転んでしまった。

 

「痛ったぁ⋯⋯」

 

 そこで私は気付いた。

 地面の舗装されたアスファルト感触に。 

 いつもの風の感触、匂い、虫の鳴き声。

 

 私は閉じていた目をゆっくりと開いた。

 目の前に広がるのは、いつもの帰り道。

 

 私はゆっくりと立ち上がると、恐る恐る走り抜けた道を振り返った。 

 そっちも、いつもと変わらない帰り道。 

 先程の荒廃した殺風景はどこにも見当たらない。

 

「な、何だったの⋯⋯今の⋯⋯?」

 

 まるで嫌な夢を見ていたような気分だった。

 

「⋯⋯早く帰ろう」

 

 私はその場に居たくない気持ちで一杯になり、逃げる様に帰宅を急いだ。


 

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 次の日、私は昨日あった不思議な体験を友人達に話した。

 

「それってあれだろ?夜の道を歩いてたら、貼ってあるポスターがこっちを見ている気がする⋯⋯みたいな?要は恐怖から生まれた幻覚だろ」

 

 からかう様に私に話し掛けてくる彼の名は青山雄介あおやまゆうすけ。 

 家も近所で小さい頃よく遊んでいた間柄、いわゆる幼馴染みというやつだ。


 小・中・高と、今年で十一年間同じ学校の同じクラス──ここまで来れば『腐れ縁』という言葉の方がピッタリかもしれない。

 

「そう、なのかな?」

 

 私自身も信じられない体験だったから、あれが現実だったと自信を持っては言えない。

 

「私は本当にあった事だと思うな。穹ちゃん家って神社だし、巫女さんの力でもう一つの世界に行けたのかもしれないよ?」

 

 私をフォローしてくれているこちらの美少女は水沢唯みずさわゆい、私の大親友だ。 

 私とは全くと言っていいほど対称的な性格で、可憐で、奥ゆかしくて、それでいてとっても心優しい。


 私と同じ吹奏楽部に所属していて、サックスを担当している。

 その音は思わずウットリするくらい美しい。

 きっと彼女の心がそのまま音に現れているに違いない。

 

 周りはどうしてあの二人が?と疑問に思っているようだが、それに返答するには今は時間が足りない。

 その件はまた今度話す事にしよう。

 

「俺も唯ちゃんの意見に一票。夢があっていいじゃん」

 

 唯に賛同した彼の名は神崎匠かんざきたくみ

 雄介とよくつるんでいる悪友だ。

 

 金髪と耳にピアスという身なりを見れば一見不良に見えるが、実はテストで不動の学年一位の成績を持つ秀才だ。頭良し、運動良し、ルックス良し、さらに性格は気さくという完璧超人。

 だから女子からモテるモテる。

 去年のバレンタインデーは学校中──いや、放課後には他校からも手作りチョコを貰ってたっけ?

 

「でも意外だよなぁ~」

 

「何が?」

 

「穹ってガサツなくせして幽霊とか怖いんだ」

 

 匠くんとは対称的な雄介の失言に私はカチンときた。 

 繊細な乙女心を傷つけられたんだもの、当然でしょ?

 

「雄介ってホントにデリカシー無さすぎ!そんなんだから、ずっと彼女できないのよ!」

 

「はぁ!?大きなお世話だっつーの!そういうお前こそ、そんなんじゃ一生嫁に貰われねーぞ!」

 

 その発言に私はとうとうキレた。

 

「何で雄介にそこまで言われなきゃいけないのよ!ホント最低!」

 

 私は怒りのオーラを撒き散らしながら、雄介に背を向けた。

 

 そこへバカ雄介の更なる失言が。

 

「何さっきからカリカリしてんだよ? ひょっとして生rゴフッ!?」

 

 雄介の発言を許す間も与えず、腹部に黄金の右フックを炸裂させ、ノックアウトさせる。

 

 丁度そのタイミングで、予鈴が鳴り、担任の先生が入ってきた。

 

「さぁみんな席に着けぇ──ん?青山、何やってるんだ?腹でも下したか?」

 

「⋯⋯や、な⋯⋯んでも⋯⋯ねっす⋯⋯」

 

 唯も匠くんも苦笑いしている。

 

 ま、自業自得ね。




 その日はずっと雄介と会話する事なく、私は早々に唯と一緒に部室へと向かった。

 

 今日一日で溜まったストレスを吐き出すようにフルートを力強く吹く。

 

「おー、荒れてるねぇ」

 

 笑顔で声を掛けてきたのは我らが吹奏楽部の部長。 

 普段は飄々ひょうひょうとしているが、いざとなると部員をしっかりとまとめてくれる、とても頼りがいのある先輩だ。

 

「朝から青山くんと喧嘩してましたから」

 

 唯が部長にそっと耳打ちする。

 

「あーいつもの痴話喧嘩ねー」

 

「ただの口喧嘩です!」

 

 何故、雄介と喧嘩する度にそう言われるのか意味が分からない。

 

「ごめんごめん、アンタ達いつも一緒にいるからそういう風に見えちゃうのよねー」

 

「別に好きで一緒にいる訳じゃありませんよ。アイツを恋愛対象として見た事なんて一度もないですし」

 

 そうズバッと言ってやると、何故か部長と唯は顔を見合わせて苦笑いしていた。

 

「あらら、青山君かわいそうに」

 

 ポツリと呟く部長の声。

 

「は?」

 

「ううん、何でもないよ」

 

 部長はにっこりと笑って首を横に振った。

 

「もぉ、何なんですか?」

 

「さーて練習練習!」

 

 私の疑問も軽く流し、部長はトランペットを吹き始めた。

 

 釈然としない気持ちを抱えながらも、私は練習へ取り組み始めた。




 部活が終わり、私は昨日と同じ様に自宅への帰り道を走っている。

 

 先生よ、練習に力を入れるのは構わないけど、こんな夜に女の子を一人で帰らせるっていうのは教師としてどうなのよ?

 特に私の家は高台にあるから、海沿いにある学校からだと結構距離がある。 

 せめて家まで送ってくれるとか、そういう配慮もしてもらいたいものだ。


 しばらくして、私は走るスピードを少しずつ緩めた。

 

 私の目の前に続くのは、昨夜奇妙な事が起きたあの暗闇の路地。 

 あの時の恐怖が再び蘇る。しかし家に帰る為には、この路地を通る他ない。

 

 私はゴクリと唾を飲んで、闇の中へと突っ込んだ。




 嫌な予感というものはよく的中するものである。 

 現実は時に残酷だ。 

 何も起きなければいい、という私の幻想を見事に打ち砕いてくれる。

 

 本当についてない。

 

 そう、私はまた来てしまったのだ。 

 あの殺風景な世界へ──


 

「いやぁぁぁ!」

 

 突然の悲鳴が私の耳に届く。

 

(私の他に、誰かいる!?)

 

 咄嗟に悲鳴の聞こえた方へ走り出す。

 

 その最中、私は妙な違和感を覚えた。  

 何かが昨日と違う⋯⋯。  

 何が⋯⋯?

 

 そうか、臭いだ。 

 異臭に混じって、何か別の臭いがする…⋯。 

 この臭いは⋯⋯。


 そこまで考え、私は足を止めた。

 いや、正確には考える必要が無くなったのだ。

 

 私の目に映ったのは、倒れている女性。

 そして、そのかたわらに立っている、口元を赤く染めた『』。

 

 その口から滴したたる赤い液体。

 これは⋯⋯血の臭いだ。

 

(じゃあ、あの人は死んで⋯⋯?)

 

 そこまで理解し、私は恐怖で足がすくんだ。

 

 初めて目にする死体。 

 初めて目にする化け物。

 

 それは今まで感じた事のない、死への恐怖だった。


 突然感じる突き刺さる様な視線。


 私は言葉を失った。

 

 『人ではない何か』の腕、足、胴体、頭──全身に無数の眼が現れ、ギョロリと私へ視線を向けてきた。

 

「ヒヒヒ⋯⋯また餌がかかったようだな」

 

 言葉が交わせるのか、だとかそんな悠長な事を考えている余裕はこの時の私には無かった。

 唇が震えて、声事すら出せない。

 

「今日はツイている」

 

 『人ではない何か』が、血の混じったよだれを垂らしながらゆっくりと近づいてくる。

 

(た⋯⋯助けて!!)

 

 私は目をつむり、祈る事しか出来なかった。


 

 ──シャン

 

 ふと耳に入ってきた不思議な音。

 

 私はそっと目を開けた。

 

 目に飛び込んできたのは、一人の少年の後ろ姿だった。 

 その腰に携えているのは柄に『鈴』の付いた刀。


 ──シャン


 彼が動く度に、鈴の音が辺りに響き渡る。

 

 不思議だ。

 何故だろう⋯⋯?

 この音を聞いてから、さっきまであった恐怖はいつの間にか薄れていた。

 代わりに私の中に生まれたのは心地良い安心感。

 

「お前、百目ひゃくめだな?」

 

 少年が口を開く。

 

 ヒャクメ⋯⋯本で読んだ事ある。

 確か全身に無数の目を持つ妖怪⋯⋯だっけ?

 

「何だ貴様は?邪魔をするなら貴様から食い殺すぞ!」


 百目は食事(餌は私だけど)の邪魔をされてご立腹のご様子。

 

「やってみな」

 

 対して彼は不敵に笑い、余裕たっぷりだ。

 

 百目が標的を彼に変え襲い掛かった。

 少年は難なくそれをかわし、隙を突いて殴る蹴るの反撃を与えた。

 

 格闘技に全然詳しくない私にも分かる。

 力の差が歴然だ。

 

「ぐぅっ⋯⋯」

 

 少年の攻撃が効いているのだろう、百目がよろける。

 

「おとなしく魔界に帰って二度と人間を襲わないと誓え。でないと、お前を『黄泉よみ』へ送らなきゃならなくなる」

 

 ⋯⋯まかい?⋯⋯よみ?⋯⋯何の話?

 

「冗談じゃねぇ⋯⋯!やっとこの『負界ふかい』を手に入れて、これから好きなだけ人間を食えるって時に、魔界なんぞに帰れるか!黄泉行きもゴメンだ!」

 

 ⋯⋯ふかい?

 

 よく分からない単語が交錯して混乱しております。

 

「⋯⋯交渉決裂だな」

 

 少年は溜息を一つ落とすと、腰に携えた刀をゆっくりと抜いた。

 重々しい鋼の刃が露わとなり、不思議な力をまとい始めた。

 これが漫画とかでよく目にする『気』というやつだろうか?

 

 増幅する『気(勝手に私が命名)』に呼応するように、柄に付いている鈴がひとりでにシャン、シャンと音を立てる。

 

「ガアアアア!」

 

 刀を構える少年に向かって、百目が飛び掛かる。

 

「黄泉へ堕ちろ!!」

 

 少年が放った一振りの斬撃は、衝撃波を起こし、百目の体を土塊つちくれの様に砕いた。

 

「ぎざま⋯⋯いっだ⋯⋯い⋯⋯」

 

 最後の言葉を言い終える前に、百目は消滅してしまった。

 

「俺は『鈴鳴すずなり』ヒビキだ。⋯⋯って聞いちゃいないか」


 私はこの時予感した。

 彼──響との出会いが、何かとてつもない出来事に巻き込まれる予兆なのでは、と。




     ✡ 【弐】 ✡


 響と名乗る少年は、刀を鞘へ納めると、ゆっくりと私に近づいて来た。

 

 私は思わずゴクリと喉を鳴らした。

 助けてもらっておいてこんな事を言うのも何だが、彼は得体が知れない。

 油断は、出来ない⋯⋯!

 

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は私との距離をどんどん縮めていく。

 そして、彼はゆっくりと⋯⋯倒れた。

 

「ええええっ!?」

 

 思わず声をあげ、彼の元へ駆け寄った。

 確かに油断は出来ないとは思ったけど、目の前で倒れられると放っておく事も出来ない。


「あ、あの⋯⋯!」

 

「⋯⋯ら⋯⋯った⋯⋯」


「はい?」


「ハラ⋯⋯へった⋯⋯」

 

「⋯⋯は?」

 

 どうやら怪我か何かで倒れた訳じゃ無さそうだ。


 

 ピシッ!


 突然の怪音に、私は周囲を見渡し、ギョッとした。

 

 暗闇の空に亀裂が走っている。


 ピシッ!ピシッ!


 空だけじゃない。

 私がいるこの空間全体に、今にも割れそうな勢いで亀裂が走る。

 

「ちょ⋯⋯これどうなってるの──っ!?」


 パキィィィン!


 私の叫び声に呼応する様に、私がいた空間はまるで硝子ガラスが割れた様な音を立てて砕け散った。




 耳に虫の音が入ってきた事で、私はハッと我に返った。

 

 今立っているのは、いつもの暗い路地。

 しかし昨日とはまるで違う点がある。


 違う点・その一

 私の足下に一人の少年が倒れている。

 ⋯⋯お腹を空かして。


 違う点・その二

 もう一人、女性も倒れている。


 わずかに肩が上下しているのが見えた。

 どうやら死んではいない様で、気絶しているだけの様だ。

 とはいえ衣服は血で紅く染まっており、無事とは言い難い。


 私は消防署に連絡を入れ、救急車で女性が運ばれていくのを見送った。

 救急隊の人に、何があったのか聞かれたが、あの出来事を伝える訳にもいかず、ひとまず「通りがかったら倒れていた」という返答をする他なかった。

 

 一方の少年については、処遇をどうするか悩んだ結果、お腹が空いているだけのようだし、助けてもらった手前、ひとまず家へ連れて行く事にした。

 救急隊の人から突き刺さる不審そうな視線を感じたが、気付かない振りをしてその場を立ち去った。




「ただいまぁ」


 私の声を聞きつけ、パタパタと母が玄関へ駆け寄ってきた。

 

「お帰りなさい穹ちゃん。今日も遅かっ⋯⋯」

 

 笑顔で出迎える母の言葉が途中で止まる。

 その視線は、私の肩で力尽きている少年に向けられている。

 

「そ、穹ちゃんが⋯⋯穹ちゃんが⋯⋯」

 

 母のリアクションを見て、私は何となく嫌な予感を感じた。

 こういう時の私の勘はほぼ百%当たる。

 これも十七年間培ってきた家族の絆といえるのだろうか?

 

 ──何故だろう、美しい響きのはずなのに、ちっとも嬉しく感じない。 

 理由は簡単、母がこういう大袈裟おおげさなリアクションを取る時は、大抵ろくな目に遭わないと、私の経験が知っているからだ。

 

「穹ちゃんがボーイフレンドを連れて来たわぁ!」

 

「ちょっと待てー!!」

 

 間髪入れずに思わず鋭いツッコミを入れてしまった。

 

 今のやり取りで何となく察した人がいるだろうが、母は頭のネジが何本か緩んでいる。

 この状況で『怪我人を連れて来た』ではなく『ボーイフレンドを連れて来た』とくるか。

 

 さすが我が母、侮れない。


「「何ーっ!?」」

 

 母の声に反応し、家族全員が玄関へ集まって来た。 

 面倒なので、まとめて紹介しようと思う。

 

 血相変えて一番乗りでやってきたのが私の父。

 

「彼氏をいきなり家へ連れてくるとは、父さんは許すぞー!!」

 

 許すんかい!

 口だけでもいいからそこは「父さんは許さないぞー」って言おうよ。

 彼氏じゃないけどね。


 その後ろに続くのが私の祖父。


「ふがっふがふが!」


 おじいちゃん⋯⋯入れ歯を外したままだと、何言っているかさっぱり分からないんですけど。


 最後に二階から駆け降りて来たのが私の弟。名前ははる、十二才。

 

「わーい!僕、お兄ちゃん欲しかったんだー」

 

 陽くん?話がちょっと飛躍しすぎてはいませんか?

 私に出会って三十分しか経っていない男と結婚しろと?

 

 こんな個性豊か過ぎる面々が私の家族。

 篠宮家は今日も平和だ。




 騒がしい外野を背に、私は響を肩に抱え、二階にある自分の部屋へと連れていった。

 

 響をベッドに降ろした後、下へ駆け降り、居間の食卓の上に並べられている夕食をお盆に乗せ、再び自室へと駆け上がった。

 

「⋯⋯この匂い」

 

 空腹で気を失っていた響がうつろげにまぶたを開けた。

 

「ほら、お腹空いてるんでしょ?」

 

 私はお盆の上にある夕食をテーブルに並べた。

 

「いいのか?お前の食事なんだろ?」

 

「私の事は気にしなくていいの!助けてもらったし、そのお礼よ」

 

「お前、いい奴だな」

 

 そんなストレートに言われると何だか気恥ずかしい。

 

 彼は余程お腹が空いていたからだろうか、ペロリと食事を平らげた。

 

「ごちそうさま。すごく旨かった」

 

 母が聞いたらきっと感激のあまり抱きついちゃったりするのだろう。

 ──あぁ、その光景が目に浮かぶ。

 

「それよりも、あなたに色々聞きたい事があるの!」

 

 私はテーブルに手を付き、前のめりになって響に問い掛けた。

 

「あの殺風景な世界は何!?あの化け物は何!?あなたは一体何者なの!?」

 

「そんなに一気に質問されても答えようがない」

 

「そ、そうね⋯⋯」


 響に冷静な指摘を受け、私は反省した。

 思っていた以上に混乱していたようだ。

 

 二、三度深呼吸をして心を落ち着かせると改めて尋ねた。

 

「じゃあ、まずは⋯⋯自己紹介からね。私は篠宮穹。あなたは?」

 

「俺は響。あやかしだ」

 

「あ⋯⋯妖ィ⁉︎」

 

 私は思わず絶叫した。

 

「じゃ、じゃあ⋯⋯あなたは人間じゃないの!?」

 

「ああ」

 

 響はコクリと頷いた。

 

「で、でも見えるよ?触れるよ?何で!?」

 

 私はここぞとばかりに響の体をぺたぺたと触って確かめた。

 

「あっ、ごめんなさい!つい⋯⋯」

 

 私は慌てて手を引っ込めた。

 初対面の相手の体をぺたぺた触るなんて失礼極まりない。

 

「今まで妖とか幽霊とか見た事無かったから⋯⋯」


 何故だろう?

 響には、ずっと心の奥に閉まい込んできた思いを打ち明けたくなった。

 

「⋯⋯私、巫女みこのくせに、霊感無いから⋯⋯」




 そう、私には霊感が無い。

 母も、父も、おじいちゃんも、弟の陽でさえ霊感がある。

 宮司の家系である篠宮家の中でただ一人、私だけが⋯⋯。


『わたし、おかあさんみたいなすごいみこになるの』

 

 そんな夢を持っていた幼い頃の私。

 

 母は普段はあんな感じだが、百年に一人の逸材と呼ばれる天才巫女だ。

 今でも全国から除霊や妖退治の依頼が来る程である。

 

 そんな母に私は憧れた。

 私も母みたいな凄い巫女になって、全国の霊や妖に悩む人達を救いたいと本気で思った。

 

 だけど⋯⋯


『おまえ、みこのさいのうないんだってなー!』

 

『やーい!むのーりょくしゃー!』


『可哀想にねぇ。お母さんが凄い人なだけに⋯⋯』

 

『神様に見放されたのかしら。巫女の素質が無いなんて⋯⋯』


 私は才能に恵まれなかった。

 母の様な巫女になる事はおろか、霊や妖の存在を感知する霊感すら私には与えられなかった。

 

 周りから浴びせられる罵声・嘲笑・同情⋯⋯。


 どうして私だけ⋯⋯?

 私が何か悪い事した⋯⋯?

 

 私は毎晩の様に枕を濡らした。

 

 そして──成長するにつれて、私は辛く厳しい現実を受け止めざるを得なくなった。

 

『私は⋯⋯お母さんの様には⋯⋯なれない。だって、私は⋯⋯霊能力が無いから⋯⋯』

 

 私は心の傷を胸の奥深くに封印し、幼き頃の夢を自ら捨てた。




「私には才能が無いから⋯⋯可笑しいでしょ?霊感の無い巫女なんて、インチキ霊能力者も同然だわ」

 

 私は自嘲気味に笑った。

 これで妖にでも嘲笑されれば、完全に未練を断ち切れるかな⋯⋯?

 

 そんな事を考えていた私に響が言葉を掛ける。

 罵声か嘲笑か同情か⋯⋯。

 

 しかし響の口から出た言葉は、私も予想だにしない言葉だった。

 

「穹ほどの霊力を持っていても才能が無いと言われるのか?」

 

「⋯⋯⋯⋯え?」


 い、今⋯⋯何て言ったの?

 

 わ、私ほどの、霊力・・⋯⋯?

 

「な、何言ってるの!?私にはそんなもの無いわよ!だって、私には霊感が無いんだもの!」

 

「霊感云々うんぬんの事はよく分からないが、穹がデカい霊力を持っているのは事実だぞ?」


 やめてよ⋯⋯

 そんな思わせ振りな事言わないでよ⋯⋯

 じゃないと私⋯⋯


「⋯⋯ほ、本当に⋯⋯?」

 

 私の声が震える。

 嘘だったら、もう立ち直れない⋯⋯

 でも、本当だったら⋯⋯


「俺は霊力の感知には絶対の自信を持っている。確かに何かふたの様なものがされている感じはするが、穹の中に流れている霊力はしっかりと感知できるぞ」

 

 それを聞き、私の涙腺はついに崩壊した。

 今まで押し殺していた感情を一気に吐き出す様に。


「ひぐっ⋯⋯ぅああぁあぁん!!」


 泣き崩れる私を見て、響は何となく私の気持ちを感じ取ったのだろう。

 そっと私に近づき、優しく頭を撫でてくれた。

 

「穹はずっと苦しんでたんだな。でも穹の素質は本物だ。俺が保証する」

 

 響の言葉が私の中に染み入ってくる。


『素質がある』


 それは私が最も欲しかった言葉。

 誕生日のプレゼントも、サンタさんからのプレゼントもいらないから、欲しいとずっと願っていたもの。

 並み外れた肺活量も、『神の息吹ゴッド・ブレス』の二つ名も失って構わないから、与えて欲しいと神様に祈り続けていたもの。

 

 響は私の一番の望みを叶えてくれた。

 

「ひびぎ⋯⋯ありがどぉ⋯⋯」

 

 嗚咽おえつ呂律ろれつの回らなくなった口で、私は精一杯のお礼を響に伝えた。




     ✡ 【参】 ✡


 ようやく涙も収まり、私は目尻に残る雫を指でぬぐった。

 響にはまだ聞きたい事がある。

 

「ねぇ⋯⋯私達がいたあの変な場所は一体何なの?」


 今でも忘れられないあの景色、臭い、空気の感触。

 思い出しただけでも気分が悪くなる。

 ああ、トラウマになりそうだわ。

 

「悪いが言えない」

 

「な、何で!?」

 

 私はつい声を大きくした。

 

「これ以上、穹を巻き込む訳にはいかない。今回あの場所で何があったかくらいは分かっているはずだ」


 響の言葉を聞き、私は今日の出来事を思い返した。

 

 目の前に突然現れ、襲い掛かってきた『人ではない何か』。

 全身に現れた無数の目玉、口から滴る血の混じった涎。

 

 あの恐怖はそう簡単に忘れられるものではない。

 私の体が、私の意思を無視して震え出す。

 どうしよう、止まらない⋯⋯。


 ぽん、と響が私の頭に手を置いた。

 触れられている部分が、温かくて心地良い。

 まるで嫌な気持ちを吸い上げてくれている様だ。

 気が付くと、体の震えは止まっていた。

 

「な?穹は充分怖い思いをしたんだ。わざわざ首を突っ込む事も無いだろ?」

 

 そう言って響の手が私の頭を優しく撫でる。

 まるで愚図ぐずっている子供をあやす様だ。

 でも不思議と嫌な気持ちはしない。

 

「⋯⋯ん」

 

 響に促される様に、私は小さく頷いた。


「じゃあ、俺はそろそろ行くから」

 

 そう言って響は、私の部屋の窓を開け、さんに足を掛けた。

 

 まさか窓から飛び降りるつもりだろうか?

 でも妖なら問題ない⋯⋯のかな?

 

「色々世話かけた。じゃあな」

 

「あ⋯⋯待って!」

 

 気が付くと、私は響の服のすそを掴んでいた。


 何やってんの私っ?

 

「どうした?」

 

「あ、いや、その⋯⋯」

 

 響に視線を向けられ、私は反射的に掴んでいた手を離した。

 

「何でもない」って言うのよ私!

「何でもない」って言いなさい私!

「何でもない」って⋯⋯


「また⋯⋯会えるかな?」

 

 違────う!

 一体何を口走ってるんだ私は!?

 これじゃあまるで⋯⋯


「縁があればな」

 

 響は私の問いかけに小さく笑って返答した。

 

 わ⋯⋯響って笑うと意外と可愛⋯⋯じゃなくて!

 何考えてるんだ、私は!?


 私が悶々もんもんとしている間に、響はもう一度「じゃあな」と言い、窓から飛び降りた。

 

 私は慌てて駆け寄っていき、開いた窓から身を乗り出して暗闇に包まれた神社の敷地を見下ろしたが、もうすでに響の姿はどこにも見当たらなかった。



 深い溜息をつきベッドへ倒れ込む。

 今日は本当に慌ただしい日だった。

 怖い思いもした。

 でもそれ以上に初めて「素質がある」って言ってもらえた。

 しかも妖からのお墨付きだ。

 こんなに幸せな気持ちになった日は今までに無いだろう。

 

 明日からお母さんに修行つけてもらおうかな?

 私が巫女をもう一度目指したいって言ったら、みんな驚くだろうな。

 

 次第に瞼が重くなり、私は意識を手放した。



■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



 翌朝、学校へ行く途中で唯と会い、一緒に登校した。

 

「今日の穹ちゃん、何か上機嫌ね。何か良い事でもあった?」

 

 不意に来た唯からの質問。

 

「そう見える?」

 

「うん。だってずっと顔がニコニコしてるし、たまに鼻歌唄ってるし」

 

 どうやら無意識に感情が表に出ていたようだ。

 ちょっと恥ずかしい。

 

「青山君と仲直りでもした?」

 

 唯の一言で、すっかり忘れていた腐れ縁との昨日のやり取りを思い出す。

 

「あ⋯⋯まだなんだ」

 

 私の顔を見た唯が苦笑いして解釈する。

 きっと今、私は本当に嫌そうな顔をしてるんだろう。

 

「もぉ!せっかく良い気分だったのに、何でアイツの事を言うかなぁ?」

 

 唯に不満をぶつけると、彼女は「ごめんね」と首を傾げながら笑顔で謝った。

 

 もう、可愛いなぁ。

 こんな仕草一つで心臓を撃ち抜かれる男共がウチの学校には山程いるだろう。

 悪い男の毒牙にかからないよう私が守らなくては。

 

「ね、どんな良い事があったの?」

 

「うーん⋯⋯秘密!」

 

 いくら唯が親友でも、これは秘密なの。

 

「えー?教えてよぉ」

 

「あはは!ほら、早く行こう!遅刻しちゃうよ!」

 

 私は笑いながら学校への道を駆け出した。

 唯も「待ってよぉ」と言いながら私の後を追ってくる。

 

 あぁ、なんて平和なんだろう。

 こんな日常がいつまでも続けばいいな。




 昼休みが終わると、私のクラスの生徒は男女に別れ、運動着へと着替える。

 

 午後一発目の授業は体育。

 退屈な午前の授業で溜まったストレスをここで発散するとしよう。

 

 校庭へ向かう廊下を二人並んで歩く私と唯に、後ろから匠くんが声をかける。

 隣には雄介の姿もある。

 

 コイツとはまだケンカ中、かなり気まずい。

 

「ほら、雄介」

 

 匠くんに背中を押され、よろめきながら雄介が私の前に立つ。

 

「⋯⋯何よ?」

 

 近づいてくる雄介に流し目を送る。

 

「その⋯⋯悪かったよ」

 

 視線は合わせず、頭をポリポリとかきながら雄介が謝ってきた。

 

 これには流石の私も驚いた。

 恐らく匠くんの差し金なのだろうが、あの意地っ張りが謝罪の言葉を述べるとは思わなんだ。

 

 しかし今までが今までだけに、素直に対応されると逆に調子が狂う。

 

「珍しく素直じゃない。何か気味悪いわ」

 

「お前、人がせっかく⋯⋯!」

 

「ま、謝ったんだから許してあげる」

 

「何を⋯⋯ムグッ」

 

 何か言い返そうとする雄介の口を匠くんが押さえる。

 

「抑えた、抑えた。すぐカッカするのは雄介の悪い癖だぜ?許してもらえたんだからこれ以上の言い合いは無し!」

 

 匠くんに諭され、雄介は大人しくなった。

 雄介を手懐けるとは、恐るべし神崎匠。


 

「ところでさ、二人とも知ってるか?」

 

 四人で校庭へ向かう途中、匠くんが話題を振ってきた。

 

「何を?」

 

「隣のクラスの古賀拓郎こがたくろうっているだろ?」

 

「あー、あのガリ勉君?」

 

 古賀くんとは、もはや勉強が趣味なのでは?と噂されるほどのガリ勉少年だ。

 それだけ勉強しても、匠くんには及ばないとは、少し彼に同情する。

 

「その古賀くんがどうかしたの?」

 

「何かさ、午前の体育の授業中に突然姿を消したみたいなんだ」

 

「⋯⋯はい?どういう事?」

 

「詳しくは知らないけど、授業中に忽然と消えたらしい。今もまだ教室には戻ってないんだってさ。クラス中、『神隠し』に遭ったんじゃないかって噂で持ちきりだよ」

 

 匠くんの話を聞き、唯が私の背中に隠れる。

 私もさすがにゴクリと喉を鳴らした。

 

「ま、あくまで噂であって、たぶん体調不良で早退したとかだと思うけどね」

 

 匠くんはそう言ったが、私は何となく予感していた。

 これは何か良くない事が起きる前触れなのではないかと。




 校庭へ出てすぐ、私は微かな違和感を覚えた。

 

 目の前に広がるのは見慣れた校庭。

 そこに集まるクラスメイト達。

 何も変わらない日常風景のはずなのに、ただ一つ、『いつもと』違う点に気が付いてしまった。

 

「穹ちゃん?どうしたの?」

 

「唯⋯⋯何か匂わない?」

 

「え?ううん、特に変わった匂いはしないけど⋯⋯」

 

 唯はそう答えたが、私の鼻は、はっきりとその『匂い』を感じ取っていた。

 

 忘れられるはずがない。昨日私が迷い込んだ、あの場所の異臭だ。

 

 私の体が突然震え上がる。

 

「穹ちゃん!?どうしたの!?」

 

 霊感が無いため、霊の気配を感じている訳ではない。

 感じるのは、私にだけ嗅ぎ分ける事ができた異臭だけ。

 それが、私の中で警鐘を鳴らす。

 

「ここ⋯⋯危険な匂いがするの⋯⋯」

 

「危険⋯⋯?」

 

「よく分からないけど⋯⋯怖い⋯⋯」

 

 私は震えを抑えられず、その場にしゃがみこんだ。

 

「せ、先生!穹ちゃんが!」

 

 唯が呼び掛けると先生が駆け寄ってきた。

 他のクラスメイトも怪訝けげんな顔つきで視線を向けている。

 

「篠宮どうした!?具合が悪いのか!?」


 言わなきゃ⋯⋯

 ここは危険だって⋯⋯

 ここからすぐ離れてって⋯⋯


「きゃあああ!」

 

 私が言葉を発しようとしたタイミングで、向こうから突然悲鳴が聞こえた。

 

「今度は何だ!?」

 

 先生が私を気にしつつ悲鳴を出した生徒へ呼び掛けた。

 

「せ、先生!こ、古賀君が⋯⋯」

 

「古賀だと!?」

 

 先生が慌てて駆け寄っていく。

 

「古賀!お前今までどこに⋯⋯って、うわっ!?」

 

 突然聞こえた先生の悲鳴。

 私の位置からは、何が起きているのか見ることができない。

 

「な、何だお前は!?古賀をどうするつも⋯⋯」

 

「こいつを⋯⋯早く⋯⋯手当て⋯⋯して⋯⋯や⋯⋯」


 ドサッ


 そんな声と同時に倒れる音が耳に入ってきた。

 

「今の声⋯⋯まさか⋯⋯」

 

 震えは急に止まった。

 いや、感情が恐怖を越えるものへ上書きされたのだろう。

 

「穹ちゃん!」

 

「おい、穹!動くんじゃねぇよ!」

 

 雄介が私の腕を掴む。

 

「放して!」

 

 その手を私は払いのけ、声の方へ駆け出した。


 野次馬をかき分け、視界に飛び込んできた光景に、私は言葉を失った。

 

 一つは、前の授業中に失踪したという古賀拓郎がそこにいた。

 体をガタガタと震わせながら。

 

 そしてもう一つは⋯⋯

 

「ひ、響⋯⋯?」

 

 目の前に血みどろで倒れている響の姿。

 

「響っ!!」

 

 気が付いたら体が勝手に動き、倒れる響を抱き寄せていた。

 

「響!目を開けて!!」



『また⋯⋯会えるかな?』


 確かに私はそれを望んだ。

 しかし、こんな形での再会を望んでなんかいない。

 

「⋯⋯⋯⋯そ⋯⋯ら?」

 

 響が微かに目を開けて、私の名前を呼んだ。反応してくれた安堵感からか、涙が溢れ出てきた。

 

「そ⋯⋯ら⋯⋯ここ⋯⋯は⋯⋯危⋯⋯険だ⋯⋯すぐ⋯⋯に⋯⋯離れ⋯⋯」

 

 それだけ伝え、響は意識を失った。

 

「響!?ねぇ、返事して!響ーっ!!」


 

 あんなに強かった響がどうして⋯⋯?

 一体何が起きてるの⋯⋯?

 

 私が望んでいた平和な日常は、響との衝撃的な再会によって脆くも崩れ去っていった。




     ✡ 【肆】 ✡


 傷だらけの響を肩に抱えた私は、保健室へ向かって歩き出した。

 

 妖である響を人間の医師に診せていいのか、だとか、人間の治療が通用するのか、だとか、後々考えると疑問に思う事も、この時の私には考える余裕すら無かった。

 耳元に聞こえてくる響の呼吸はか細く、容体の悪さを何となく感じたのだ。 

 とにかく響を助けたい、ただそれが私を突き動かしていた。

 

 体育の授業は中断となり、クラスメイトも先生も状況が飲み込めない、といった表情を私と響へ向けている。

 一手に受ける視線を無視して、やや早足で歩み進むと、群衆の最後尾に立つ雄介と匠くん、そして唯の姿が目に入った。

 

「穹ちゃん⋯⋯」

 

 黙って通り抜けようとする私に、唯が心配そうな表情で呼びかける。 

 私は歩みを止め、唯へ顔を向けた。

 

「⋯⋯ごめん」

 

 それだけしか答えられなかった。

 響の事をどうにも説明できなかったし、何より、私自身も状況を把握できてはいないのだ。

 

 ふと古賀くんへ視線を向ける。

 先生に支えられた古賀くんは、何かに怯えている様にずっと震えていた。


 私には分かる。

 彼は『見た』のだ。

 この世のものではない、あの異質な空間を。

 突然襲いかかってきた『人ではない何か』を──。


 

 突然訪問してきた私と響の姿を見て、保健室の番人・冬月ふゆつき先生はさぞ驚いた事だろう。

 

「酷い怪我⋯⋯一体何があった?」

 

「えっと⋯⋯その⋯⋯」

 

 冬月先生の質問に上手く答えられない。

 響の身に何が起きたのか、私の方が聞きたいのだ。

 

「まぁいいか。今は処置の方が先だな」

 

 返答に困っている私を見て、冬月先生は深くは追及せずにいてくれた。

 

 私が所属する吹奏楽部の顧問で、『彼氏絶賛募集中』を公言しているさっぱりとした性格の先生だ。

 しかし、こういう時、とても融通が聞いて、空気を読んでくれる、とても頼りになる先生でもある。

 だから、学校では男女問わず人気が高い。

 

「とりあえず、応急処置は済ませた」

 

 冬月先生の声を受けて、ベッドをそっと覗き込む。

 そこには、全身の至る所に包帯が巻かれたまま横たわる響の姿があった。


「響⋯⋯」

 

 呼び掛けるが応答はない。

 

「こいつはちゃんと病院で精密検査をした方がいいな。これほどの怪我なんだから、脳や骨に異常が無いか、しっかり調べといた方がいい」

 

 冬月先生の意見はもっともであるが、響は人間ではなく妖なのだ。

 普通の人間と体内の構造が違うかもしれない。

 血液だって人間のものは不適応かもしれない。

 そう考えると、とても病院なんて連れて行けない。

 せめて妖について詳しい人がいれば……。

 

「あっ!!」

 

「な、なんだ?どうした!?」

 

 思った以上に声が大きかったようだ。

 私が突然あげた声に驚き、冬月先生は不意に体を仰け反らせた。

 

 しかし、今の私には、それにリアクションする余裕は無かった。

 

 いるじゃない!

 妖の事に詳しい専門家が!

 身近に!


「先生、すみません!私、彼を病院に連れて行きたいので早退します!」

 

 思い立ったが吉日、私は再び響の腕を肩に抱え、保健室を飛び出した。

 

「お、おい!篠宮!?」

 

 冬月先生の呼び声も右から左に通り抜けていく。

 今の私の頭は、響の事で一杯だった。




 男の子一人を抱えて下校するのは、さすがにしんどかったが、どうにか無事自宅までたどり着く事が出来た。

 日頃、部活動で鍛えられた体力と筋力が、まさかこんな場面で役に立つとは⋯⋯冬月先生に感謝である。


 家の玄関の扉を開け、私は精一杯叫んだ。


「お母さんっ!!」


 私の言う、妖の専門家とは、母の事である。


 私の声を聞き付け、母がパタパタと玄関へとやってきた。

 状況は昨晩とあまり変わっていないが、今度はふざける事も無く、母は真剣な表情で「早く中へ」と私を促した。



 母が敷いてくれた布団に響を横たわらせ、私は改めて母へ事情を説明した。

 流石というべきか、昨晩初めて見た時から、母は響の正体に気がついていたという。


「かなり衰弱している⋯⋯状態はかなり危険よ」


「そんな⋯⋯昨晩まであんなに元気だったのに、一体響はどうしちゃったの!?」


「霊力が枯渇しかけてる⋯⋯このままだと最悪、『黄泉』へく事になりかねないわ」


 ヨミ⋯⋯昨日、響が言っていた単語だ。


「ヨミって、なに?」


「⋯⋯簡単に言えば、妖達にとってのあの世、ね」


 母の言葉に、私は衝撃を覚えた。


「それって⋯⋯響が死んじゃうって⋯⋯こと?」


 母はその問いに答えなかった。


「そ、そんなの嫌!!お母さん、何とかならないの!?」


 それを肯定ととらえ、私は思わず声を荒げてしまった。


 何も出来ない自分が歯痒はがゆい。

 素質があっても、いざという時に使えないのでは、無能と同類だ。


「う⋯⋯」


 意識が戻ったのか、響が苦痛の声を上げながら、起き上がった。


「響っ!!」


「⋯⋯ここは?」


「私の家よ」


 虚ろな目で周囲を見回す響に、私はすかさず声を掛けた。

 何か話し掛けないと、響がいなくなってしまう──そんな恐怖があったからかもしれない。


 そんな私の思いも今の響にはまるで伝わっていない様で、傷だらけの体に鞭打ちながら立ち上がろうとする。


「そうか⋯⋯迷惑かけた⋯⋯」


「ち、ちょっと!まだ無理しちゃダメよ!」


 私が制止に入るも、響の目は私を見てはいなかった。


 どこか鬼気迫るその瞳に、少しだけ怖気おじけ付いてしまった。


「穹ちゃん、ちょっとお水を一杯、汲んできてくれる?」


 不意に母から指示が入る。

 今の私にしてあげられる事といえば、それくらいか⋯⋯。


「⋯⋯うん」


 やや卑屈な思いを抱きながら、私はキッチンへと向かった。



 コップに水を汲むと、足早に部屋へと戻った。


 何故だろう、今はとにかく少しでも長く響の側に居たかった。


 しかし⋯⋯


「あ、あれ⋯⋯?響は⋯⋯?」


 部屋には母の姿しかなかった。

 響が横たわっていたはずの布団はもぬけの殻だ。


「⋯⋯響くんなら、行っちゃったわ」


 淡々とした口調で、母は窓へと視線を向けた。


 先程まで閉まっていたはずの窓が開いており、入り込む風でカーテンがはためいている。


「そんな!!あんな傷で一体どこに⋯⋯」


 言いかけて私は一つの可能性に気がつく。


 響は言った。

 ここは危険だから早く逃げろ、と。


 古賀くんを救出してなお、あそこの脅威がまだ去っていないのだとしたら⋯⋯


「待ちなさい、穹」


 駆け出そうとした私に、母の制止がかかる。


 久々に聞く母の「穹」と呼ぶ声。

 まるで言霊ことだまの様に私の体が止まった。

 振り返り目を向ける。


 普段の『頭の中がお花畑』という雰囲気を微塵にも感じさせない、凛とした姿と圧倒的存在感。


 母のもう一つの顔、天才巫女・篠宮六花りっかがそこにいた。


「どこへ行くつもり?」


「響のトコよ!きっと学校に向かったに違いないわ!」


「行って、どうするつもりなの?」


「どうするって⋯⋯」


 問いただされた言葉に口籠る。


 響の元へ行って⋯⋯私はどうしたいんだ?


 追い討ちをかけるように母が言葉を続ける。


「彼のあの傷⋯⋯あれは妖によるものよ。弱っている今の彼に勝てる相手じゃない。不用意に首を突っ込んだら、怪我だけじゃ済まないのよ?」


「だけどっ⋯⋯」


「それに、彼が一体どういった存在なのか、知ってるの?」


「それはっ⋯⋯」


 言葉に詰まる。


 助けたい思いは本当だ。

 しかし、それの動機付けとなるほど、私は響の事を何も知らなかった。


 そんな私を呆れた様に見つめる母の視線。

 私は逃れる様に視線を逸らした。


 母から「ふぅ」と溜息が漏れたかと思うと、やがてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「響くん──あの子は、式神よ」


「式神って⋯⋯巫女や陰陽師が使役している、あの?」


 言葉くらいなら聞いた事がある。

 有名なとこを言えば、安倍晴明あべのせいめい十二天将じゅうにてんしょうや、役小角えんのおづの前鬼ぜんき後鬼こうきあたりだろうか。


「式神の契約は『一蓮托生の儀式』とも呼ばれていて、契約者と式神は『命の鎖』で繋がれるの」


「命の⋯⋯鎖?」


「契約者の霊力で式神は存在を維持され、契約者が死ぬと式神も死ぬ。霊力も、命も、文字通り契約者の命に繋がるのよ。でも⋯⋯」


 母は一瞬、逡巡するも、すぐに意を決したように言葉を続けた。


「響くんの命の鎖は⋯⋯切れてたわ。それはつまり、契約者はすでに亡くなっているということ。響くんはもう⋯⋯寸分の命よ」


「ち、ちょっと待って!それはおかしいよ!?命の鎖は一蓮托生って言ってたじゃない!契約者が亡くなっているなら、響はどうして生きているの!?矛盾してるよ!!」


 僅かな可能性を信じて、母の発言の穴を指摘する。

 しかし⋯⋯


「式神契約の中には、いくつか術式が存在するの。中でも使用する事を禁じられた禁術の一つが『反魂術式はんごんじゅつしき』──契約者が自らの命と引き換えに、式神へ全霊力を譲渡する術式よ。それによって式神は当面の間、独りでも存在を維持することはできるの。ただし、一度消費した霊力が回復することは無い。あくまで一時的な延命措置に過ぎないの」


「そん⋯⋯な⋯⋯」


 私の心が、絶望に侵されていく。


 響が私を助けてくれた時、百目を倒したあの『気』の様なものは、響の存在を維持するための霊力だったのだ。

 響は文字通り、命を削って私の危機を救ってくれていた。


 古賀くんの件もきっとそうだろう。

 あの異空間に迷い込んだ彼を救い出す為に、自身の霊力を使って、妖と闘ったに違いない。

 そして今、ついにその譲渡された霊力も尽きかけ、存在さえ失いかけているのだ。


 それでも響は闘いに向かった。

 命を削ってまで闘い続ける理由を、私は知らない。


 そう、私は響の事を本当に何も知らないのだ。


 愕然がくぜんとする私に、母が優しい口調で、しかし無情な宣告を言い渡した。


「悪いことは言わないわ。彼のことは忘れなさい」


 今、何て⋯⋯?


「あなたは人間で、彼は妖⋯⋯相容れない者同士、本来関わるべきではないの」


 きっと今まで巫女として多くの妖と関わり、時に危険な目に幾度も遭ってきたのだろう。


「酷な選択かもしれないけど、それでまた、いつもの日常が戻るだけ。だから⋯⋯」


 だからこそ、私の身を案じてくれているのは分かる。


 だけど⋯⋯


「⋯⋯そんなの、ムリだよ」


 忘れるなんて、見過ごすなんて、出来る訳がない。


 だって、私達は⋯⋯出会ってしまったのだから。


「私、響に命を救われたんだよ?」


 百目に襲われた所を命懸けで助けてくれた。


「『素質は本物だ』って言ってくれたんだよ?」


 その言葉にどれだけ心を救われたか。


「私⋯⋯響にたくさん助けられたのに、まだ何も返せてない!」


 こんな気持ちを抱えたまま、『また、いつもの日常』なんて送れるはずがない!!


「お願い、お母さん!私に出来る事なら何だってするから⋯⋯だから、もし響を助けられる方法があるなら⋯⋯どうか教えて下さいっ!!」


 恐らく母に土下座するなど、私の生きてきた十七年間の中で初めての事だろう。


 しばらくの間の後、母から二度目の溜息が聞こえてきた。


「頭を上げて、穹」


 言われて視線を上げると、やはり呆れながらも穏やかに微笑んでいる母の表情があった。


「穹⋯⋯本気なのね?」


「うん⋯⋯!」


 もちろん、怖くないと言ったら嘘になる。

 でも、迷いはない。


 そんな私の覚悟を悟ったのか、母は小さく頷いた。


「本当はね、あなたには危険な目に遭ってほしくないんだけど⋯⋯やっぱり、お母さんの子ね。血は争えないって事かぁ」


 母は一人納得し、残念そうなニャアンスで語りながら、どこか嬉しそうでもある。


 何なのよ、全く。


 改めて私に顔を向けた時には、すでに先程の真剣な表情に戻っており、私はゴクリと喉を鳴らした。


「響くんを助ける方法だけど⋯⋯一つだけ、あるわ」


「本当っ!?」


 提示された微かな希望に、思わず身を乗り出す。


「あなたが響くんと、式神の契約を結ぶの」


「⋯⋯⋯⋯へ?」


 ⋯⋯マジで?




     ✡ 【伍】 ✡


 学校へ続く海沿いの道を、全力疾走する。


 太陽が水平線の彼方かなたに沈んでいくこの絶景スポットも、申し訳ないが今の私には眼中にない。


 響を助けられるかもしれないのだ。

 余所見などしてられるものか。


 しかし、そんな気持ちとは対照的に体の方は限界だった。

 部活で体力作りのためにマラソンはしているが、あくまで自分のペースで走るのであって、今のように全力疾走する事はない。


 酸欠で呼吸が苦しい。

 ローファーでアスファルトを駆けたせいで、足の裏が痛い。

 ふくらはぎはパンパンでつりそうだ。


 弱気になるな、篠宮穹!

 響の命が懸かってるんだぞ!


 そんな精神論を脳内で復唱し続け、疲労困憊こんぱいの体に鞭打ちながら、どうにか校庭まで辿り着いた。


 グラウンドにいる運動部が私を不審な目で見ている。


 それはそうだろう。

 制服姿の女子生徒が、汗だくになって、息を切らしながらヨロヨロと校庭に入ってきているのだ。

 私が彼らの立場だったとしても不審に思う。


 だけど、今は体裁などに構っている時間はない。


 ここに、響がいる!


 そんな根拠の無い確信を持って、肩を上下させながら校庭の一点に向かう。


 そこに響の姿は無い。

 しかし、私には分かる。

 目に見えなくとも、変わらずあの異空間の悪臭が私の鼻を突く。


 あれほどまでに嫌悪していたこの匂いが、今では響のもとへと辿り着く為の唯一の頼み綱なのだから、何とも皮肉である。


 お願い⋯⋯私を響の所へ連れて行って!


 そうこいねがい、目を閉じながら私はあの異空間へ繋がるであろう地点に向かって突っ込んだ。




 バキッ!


 何かを踏み砕く感触に、そっと目を開ける。


 黒い空、生温かい空気、漂う悪臭──

 疑いようもない、あの異空間だ。


 本来ならば、二度と来たくなかった場所であるが、今日だけはお礼を述べるとしよう。


 連れて来てくれて、ありがとう。

 そういえば、さっき何かを踏んだような⋯⋯


 足下の物体に視線を落とす。


「─────っ!!」


 目の前に広がるのは無数の散乱した骨。

 それが人間のものなのか、それともそれ以外の動物のものなのか、判断する事は出来ない。

 それ以上に、あまり直視したくない。


 なるべく下を見ないようにして、不安定な足場を慎重に進む事にした。


「響──っ!」


 大声で呼んでみるが、応答は無い。

 骨以外何も無いこの空間を、あてもなくただひたすら歩き続ける。


 次第に不安が募ってきた。

 自信満々に飛び込んだはいいが、本当に響はここにいるのだろうか⋯⋯?

 今更になって、そんな考えが浮かんできた。


 思えば、百目の時とは随分と雰囲気が違う。

 あの時は砂地の殺風景だったが、ここはまるで地獄の様だ。


 ──まぁ、地獄なんて行った事は無いから、あくまでイメージだけど。


 本当に、ここは一体何なのだろう?




 ガシャァン!


 不意に何かが砕ける様な音が遠くから聴こえた。


 もしかしたら響かもしれない!


 私は音のした方へ向かって駆け出した。


「響っ!」


 辿り着いた先には、骨の山に倒れている響の姿があった。

 行く手を阻む骨を構わず踏み砕きながら、響の元へ駆け寄る。


「穹⋯⋯!何故来たっ!あれほど危険だと⋯⋯」


「それは響もじゃない!どれだけ心配したと思ってるの!?」


「早く、ここから逃げろ⋯⋯!今ならまだ間に合──」


「誰から逃げるって?」


「え────」


 突如聞こえてきた声に反応し、顔を上げた。


 もっと正確に言うならば、真上を見た。


 そこには、私達を見下ろす巨大な骸骨がいこつの姿があった。


「折角来たのにつれないじゃない。順番に喰ってやるから、もう少しゆっくりしていきなさいな」


 動くたびに関節部分がガシャガシャと音を立てている。


 私はこの妖の名前を知っている。


 ──がしゃどくろ


 そのインパクトのある容貌は一度見たら忘れられず、かの歌川国芳うだがわくによしが描いた浮世絵はあまりにも有名だ。



「穹⋯⋯さがってろ」


 がしゃどくろに目を向けたまま、響は刀を構える。

 満身創痍で息も切れ切れだ。

 意識が朦朧としているのか、立っているのも辛そうである。

 

 それでも響は臆さない。

 がしゃどくろを睨むその眼光は、死にかけているとは到底思えない覇気を放っていた。


 響を助けに来たはずなのに、止めなきゃいけないのに、その迫力に気圧され、私は小さく頷いて従う事しか出来なかった。


 響が、がしゃどくろへと特攻する。


 しかし、がしゃどくろは響を躱すと、あろうことか私の方へと突っ込んできた。


「なっ!?」


「悪いねぇ、鈴鳴りィ!やっぱり先に小娘から喰うことにしたよォ!」


 がしゃどくろの突然の行動に脳内処理が上手く出来ず、体が硬直してしまった。


 がしゃどくろの巨大な腕が、ぐんと私に襲いかかる。

 私は反射的に目を瞑ることしか出来なかった。


ガキィン!


 突如耳に響く鍔迫り合いの様な音。


 そっと目を開けると、そこにはがしゃどくろの巨大な手を刀一本で受け止める響の姿があった。


しかし⋯⋯


「死に損ないがァ!邪魔をするんじゃないよ!」


 がしゃどくろの掌底を受け止めきれず、遠方へと吹き飛ばされた響は、骨の残骸に埋もれてしまった。


「あ⋯⋯あぁ⋯⋯」


 足の力が急に抜け、その場に崩れ落ちる。


 私のせいだ⋯⋯⋯。

 私が足を引っ張ったせいで、響が⋯⋯。


「いいねぇ、その絶望した顔。最高のスパイスだよ」


 がしゃどくろがジワリジワリと近づいてくる。


 人間とは、絶望感が強くなると死に対する恐怖が薄れるのだろうか。

 その場から逃げるという選択肢すら今の私の頭には浮かばなかった。


 愕然とする私の元へ、がしゃどくろの巨大な手がゆっくりと迫る───。



バギャッ!


 突然の轟音に思わず顔を上げた。

 見ると、がしゃどくろの腕が僅かに砕けている。


「⋯⋯まだ黄泉に逝ってなかったのかい」


 がしゃどくろが向ける視線の先には、膝を着きながら立ち上がろうとする響の姿があった。


 先程の轟音は、響の刀から放たれた霊力の斬撃だ。

 私を助けるために、残り少ない霊力を消費したに違いない。


 響は渾身の力を振りしぼる様に、ヨロヨロと立ち上がり、刀を構えた。

 でも、その手に持つ刀は、真ん中からポッキリと折れてしまっている。


「そんな折れた刀で、まだやる気かい?」


「お前を⋯⋯野放しに⋯⋯できない⋯⋯からな⋯⋯!」


「くっ⋯⋯アハハハハッ!虫の息で虚勢だけは立派だね!」


 がしゃどくろは再び標的を響へと変更し、ゆっくりと彼の元へと向かっていった。


 ──また命を救われた。


 さっき放った霊力の斬撃も、今の言葉も、全てがしゃどくろの意識を私から逸らさせるための行動だ。


 例え自分が消滅してしまったとしても。


 そんなの⋯⋯絶対に嫌っ!!


 私は自分の両頬をパァンと叩いて気合いを入れ、響の元へと駆けて行った。



「さっさとくたばりなァ!」


 もはや避ける力すら残っていないのか、がしゃどくろの拳を正面から受けてしまった響は、骨で埋め尽くされた地面に倒れ込んでいた。


「響っ!!」


 響の元へ駆け寄り、肩を抱く。

 脱力しているのに、響の体からは重さがほとんど感じられない。


これが母の言う『存在を保てていない』状態なのだ、と実感した。


「響っ!」


「そ⋯⋯ら⋯⋯はや⋯⋯く⋯⋯にげ⋯⋯」


 響の状態を見て確信する。

 もはや、一刻の猶予も残されていない。


「おやおや、わざわざ喰われに戻ってくるなんて殊勝な事だねぇ」


 がしゃどくろが嘲りながら巨大な腕を伸ばす。

 死が近づいている状況なのに、心は不思議と冷静だった。


 がしゃどくろには目もくれず、響をぎゅっと抱きしめながら囁く。


「大丈夫だよ。響は絶対に死なせない。今度は私が助けるから」


 小さく深呼吸をして、顔を近づける。


「な⋯⋯に⋯⋯」


 そして、消え入りそうな響の言葉を、唇で塞いた。


 正真正銘、篠宮穹のファーストキスである。



 ────ドクン


 体の内から何か熱いものが湧き上がっていく。


 体全体がその『何か』で満ちて膨張する様な感覚。


「二人仲良く喰ってやるよォ!」


 がしゃどくろの巨大な手が私と響を握り潰すか否かの刹那、私の体内で『何か』が弾け、まるで温泉を掘り当てたかのようにその『何か』が一気に噴き出した。


「ア⋯⋯アアアアアーッ!?」


 その噴き出した力に触れ、がしゃどくろが絶叫した。


「ウ⋯⋯腕がぁーっ!?」


 がしゃどくろの腕は、アイスクリームの様に溶け、跡形もなく消滅していた。


「な⋯⋯なんだ貴様っ!?小娘っ!何だその霊力はっ!?今まで、どこに隠していたァ!!」


「え?わ、私っ!?」


 何故、がしゃどくろさんは私めに怒っているのでせうか?


「餌の分際で⋯⋯このアタシに何をしたァーッ!!」


 残された片腕で私に襲いかかるも、


「穹に触るなっ!」


 突然目の前に現れた響に顔面を殴り飛ばされ、地へと伏した。


 あの巨大ながしゃどくろをパンチ一発で吹き飛ばした響の力に思わず唖然とした。

 響って⋯⋯強いのは知ってたけど、こんなに凄かったの⋯⋯?


「力が⋯⋯」


 何故か響も驚いた様子で殴った自分の拳を見つめている。


「スゴいよ、響っ!」


 私は響に駆け寄り、賞賛の言葉を述べるも、響は淡々とした口調で首を横に振った。


「スゴいのは穹の方だ」


「え⋯⋯?」


「式神の強さは契約者の霊力に比例する。今の俺の力は、穹の力そのものだ」


「私の⋯⋯?」


「素質があるとは思っていたが、まさかこれほどとは⋯⋯」


 そう呟きながら、響は手に持っていた刀を見つめた。

 刀身が真っ二つに折れ、最早使い物にならなそうだ。


 と、突然刀全体に亀裂が走り、粉々に砕け散った。

 柄に付いていた鈴だけは壊れる事もなく、音を立てて地面へと落ちた。


「⋯⋯今まで、ありがとな」


 そう呟くと、響は落ちた鈴を拾い、ギュっと握りしめた。


 すると、響の手中の鈴が輝き始め、その輝きは次第に形を成していく。


 これは刀?

 だけど⋯⋯


「あれ?さっきまで使ってた刀と形が違うよ?」


 確か鋼で出来ていて、重々しい感じだったような⋯⋯。


「霊力で作られた刀だからな。契約者が違えば形状も変わるさ」


 響の持つ刀は、刀身が硝子のように透けている。

 今までのと比較すると、うーむ、何というか⋯⋯正直言ってしまえば、随分と脆そうだ。


 そんな事を考えているうちに、倒れていたがしゃどくろがムクリと起き上がった。


 響に殴られた頬骨は無残にも割れて砕けてしまっている。


 新たな刀を構えた響が話しかける。


「最終警告だ。このまま魔界へ帰れ。拒否するなら黄泉へ逝ってもらう」


「死に損ないがァー!!黄泉に逝くのは貴様の方だァー!!」


 がしゃどくろが大きな口を開け、突進してくる。


 対する響は、刀へと霊力を集中させ始めた。

 でも、今までとは違って、刀の柄に付いた鈴がひとりでに鳴ったりはしない。

 ⋯⋯これって、不良品って事じゃないよね?


 そんな私の心配を他所に、響は刀を構える。

 そして、歯をむき出しにして襲いかかるがしゃどくろに向かって刀を振るった──。



 私は目を疑った。


 響の放った太刀筋は、がしゃどくろの頭蓋ずがいを越えて、空間そのものをも両断していたのだから。


「ァアカ゚ァヴァ───ッ!?」


 断末魔を挙げながら、がしゃどくろの体が粉々に砕け散っていった。


 そして、斬り裂いた空間もまた、亀裂が走り、百目の時と同様、硝子の様に砕け散ったのであった。




 我に返ると、私と響は校庭の真ん中に立っていた。

 周囲は変わらず部活動をしている生徒で活気立っている。


 ひとつ付け加えるならば、私達を不審な目で見ており、かなり気まずい。

 ひとまず私は響の手を引き、人気の無い校舎裏へと逃げる事にした。



 案の定、校舎裏は人気も無く、静まり返っていた。


 ホッと安堵の息を漏らしたのも束の間、響が不意に私の肩を掴み、怒鳴った。


「何であんな危険な事をした!」


 恐らく式神の契約の事を言っているのだろう。


 契約の方法については、全て母から聞いている。


 式神との契約は、自らの霊力を妖へと吹き込む事で交わされる。

 その際、妖が持つ『妖力』は『霊力』へと変換され、『命の鎖』が生成されるのだ。


 しかし、問題はここからだ。

 両者の相性が悪く拒絶反応を起こしたり、契約者と妖の霊力の容量が釣り合わず一方へ極端に霊力が流れてしまったり、そもそも霊力への変換が上手くできなかったりと、そういった不確定要素により命を落とす事もあるらしい。


「死んでたかもしれないんだぞ!」


 肩を掴む響の手の力が強くなる。


 こんな時に不謹慎かもしれないけど、本気で私を叱ってくれる響が堪らなく愛しく感じられ、私は思わず響に抱きついた。


 不意の行動に、響は言葉を詰まらせていた。


「よかった⋯⋯響が死ななくて」


 もし死んでしまったら、こうして叱られる事も、温もりを感じる事も二度と出来なくなってしまうのだから。


「お願いだから⋯⋯自分の命を軽く見ないで。響が死んじゃうかもって⋯⋯すごく⋯⋯すごく⋯⋯怖かったんだからぁ!」


 緊張が解けた反動か、目から涙が溢れ出てきて止まらない。


「⋯⋯悪かった。覚悟が足りなかったのは、俺の方だった」


 響から出た謝罪の言葉を耳にしながら、私は響の胸に顔を埋めた。



 しばらくして抱擁を解き、改めて響と顔を向き合わせる。

 

 少し冷静になって思い返すと、何だか急に恥ずかしくなってきた。

 式神の契約という儀式とはいえ、男の人とキスをしてしまったのだ。


 ──無数の骨が積まれた異空間という、恐らく歴史上類を見ない最悪なシチュエーションで。

 ファーストキスはロマンチックな場所でっていう夢があったのに⋯⋯。

 

 ⋯⋯儀式という事で、ノーカンにできないかな?


 そうよ!

 ノーカンにして、ちゃんとしたシチュエーションでやり直せば⋯⋯。

 いや、別にもう一度響とキスしたいとか、そういう意味じゃなくて⋯⋯。

 つまり⋯⋯そう!

 これは人工呼吸みたいなもので、救命措置なのよ!

 だから、その、決してやましい思いなんかじゃなくて⋯⋯。


「穹」


「ひ、ひゃいっ!?」


 急に名前を呼ばれ、声が裏返ってしまった。


 視線を向けると、響は私の前で片膝を着いてこうべを垂れていた。


「我が名は『鈴鳴り』響。今この時より巫女・篠宮穹の式神となりて、この命と忠誠を捧げる。盟約に従い、穹を守る事をここに誓う」


 厳かに、力強く宣誓する響。


 ⋯⋯何だかプロポーズされてる気分だわ。


 けど、不思議と悪い気はしない。


 何より響が『生きる』と約束してくれたから。


「うん⋯⋯!これから、よろしくね」


 そう言って笑顔で響に手を差し出すと、響もつられるように笑みを浮かべ、立ち上がって私の手を優しく握った。

  

 ──こうして、私は巫女となり、響は私の式神となった。


 私の『鈴鳴りの巫女』としての新しい生活が幕を開けたのであった。

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鈴鳴りの巫女 竜胆 @Rindou3156

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