序章 第06話 | 逢条 陽 vs 柏木 興介
約4ヶ月後-
8月11日 16:09
-ミィィィィーーーーーーーーーーン
何匹いるかも分からない、千万無量のセミたちが、堂々奏でる多重奏。
それが、新形北部の川沿いに、ひっそり構える田んぼに響く。
「うふぅーーっ、ちょっと休憩にしましょうや」
稲作農家の木成家が、先祖代々保有する、この「スミワタリ」の田んぼ。
そこで、麦わら帽子を着用しながら、せっせと除草に励むのは、木成 裕司「元」教員。
それに加えて、もう一人。
「・・・ええ。そうしますか」
デジタル環境の管理から、稲作環境の管理へ。
電脳デバイスが織り成す世界から、稲穂と水が織り成す世界へ。
そんな、分野超越的な飛躍を成し遂げた、伊原 正次「元」教員である。
「座って、水でも飲みましょうや。伊原さん」
何故、こんなことになったのか?
そう。
遡ること、4ヶ月。
あの日が、全ての原因だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
-フィィィィーーーーーーーーーーン
サーバーと、ネットワーク機器の稼働音が織り成す、協奏。
しかし、その協奏は、不穏に、ややもすれば怪しく響く。
少なくとも、通信機械室の真ん中で肩をすくめて狼狽える、伊原、木成の両者にとっては、そのように感じられた。
「お、お前には、神聖過ぎる・・・?き、木成先生、どういう意味ですか?これ」
「い、いや、私にはさっぱり・・・「神聖」って、一体何が神聖って言っとるんですか?」
「さ、さあ・・・逢条のフォルダの中にあるんで、逢条のファイルのことでは?」
「・・・まあ、もしくは逢条が神聖な人物と言いたいのか」
「あ・・・逢条が神聖?そんな、まさか」
「・・・ところで、「神聖」って言葉、何かその、宗教的な匂いがしますな・・・ん、となるとこれは、そういう団体からのメッセージっちゅうことですか?」
-パタム
「IT'S TOO SACRED FOR YOU」。
まだ、それが画面に映る中、伊原教員はラップトップを静かに閉じた。
「・・・ちょっと、待って。もう何か、私の許容量を超えてます。ヤバいものに関わってしまった気がしてならない」
「あの・・・伊原先生、ラップトップ閉じちゃっていいんですか?他のファイルが盗まれる可能性とか言われてませんでした?」
「もう、どうでもいいよ・・・盗撮画像が外部に流出した時点で、詰んでんだよ。早いとこ、逃げるしかないでしょう」
「逃げるって、どこへ?」
「どっかのIT企業に転職ですよ」
「ん?でも、さっきKEISEI-ONEが、「IT企業でのお仕事から逃げ続けた結果、教員やってる」って言ってませんでした?」
「あ、あんなの当てずっぽうに決まってるじゃないですか!大体、あなたも詰んでるの、お忘れですか?まさか、この状況で教員続けるおつもりじゃないですよね?いつ、ハッカーに脅されるかも分からない。盗撮データが流出して、捕まるかもしれない。そんな状況なんですよ?」
「・・・」
「ふ・・・人の身の振り方に、偉そうに口出ししちゃって。あなたはどこに逃げるって言うんですか?教えてくださいよ、木成先生?」
「農業」
「・・・え?」
「いやあ、私、実家が新形県の農家でしてね。親父もぼちぼち80で、そろそろ戻ってこいと言われてたんですわ。弟は海外に居ますし、姉は都内に家買って家族と暮らしてますもんで」
「新形の農家・・・?」
瞬間、伊原教員の頭に、インスピレーションが舞い降りた。
インスピレーションは、高潔な賢者にも、悪代官にも、追い詰められた盗撮者にも、平等に訪れる。
思いがけず、伊原教員はそんな事実を学んだ。
「ええ、スミワタリの農家です。美味しいお米の代表格」
農業。
そのオーガニックな世界にも、テクノロジーは介入している。
ドローンでの農薬散布。
自動運転車による収穫。
アプリケーションを使った、農業データベースの構築。
紙、鉛筆、体で臨む、原始的な稲作は、明治時代に終わってる。
他ならぬ、自分が教えていたことだ。
この、間晋経政高校で。
「木成先生・・・一つ伺いたいんですが」
「はい?」
「ご実家で、募集されてはいませんかね?農業テクノロジーを導入、もしくは管理する人間なんか」
そこにテクノロジーが介入し、その介入度が効率を左右する。
そういう話であるのなら、テクノロジーの管理者も、そこに居たっていいはずだ。
田んぼの、IT担当者。
そんなに、悪くはないではないか。
「え?いや・・・家族でやってる事業ですから、外部の方はちょっと雇ってないんですよ」
「ふーん・・・そうですか。なら、残念ですが仕方ありませんね」
「ええ・・・申し訳ありませんが、何とかご理解いただければ」
「あ、そうだ。ところで私、木成先生に盗撮のご趣味があったことなど、「誰にも」言いませんから」
「・・・」
「私は口が堅いですからね。木成先生が、新形戻られた後も、「絶対に」秘密にしますよ」
-ガシッ
木成教員は、そこでふと気付く。
これまで、伊原教員に肩を握られたことなどないと。
初めて盗撮データを交換した時ですら、そんなスキンシップは起こらなかった。
しかし、どうだろう。
今、自分の左肩は、その動かざる手にガッシリ握られているではないか。
「絶対に、秘密にします」
まるで、「置き去りにするつもりなら、道連れにしてやる」とでも言わんばかりに。
或いは、チラリと見えたまともな未来を、逃すまいとするように。
「はあ・・・」
そこで、小さなため息を吐く、木成教員。
しかしそれは、通信機械室に積み上げられた機械が稼働する音に、すっかりかき消されてしまった。
「ちょっと、親を説得してみますわ」
4月12日 23:59
【合否結果】プロジェクト・カイカへのご応募につきまして
From: contact@projectkaika.uu
To: yo!aijo@cmail.com
逢条 陽様
この度は、「プロジェクト・カイカ」へのご応募、誠にありがとうございました。
当研究所による、審査結果をお伝え致します。
審査結果:合格
つきましては、下記「プロジェクト・カイカへの参加方法」をご確認の上、当日会場までお越しください。
※プロジェクト・カイカへの参加方法※
■4月29日 午前9:00までに、会場のAVE(神那側県空波区桐針1)に直接お越しください。
■当日、必要な持ち物はございません。ご参加にあたっての必要品は、全て当研究所で取り揃えております。
■服装の指定はございません。各自、ご自身の才能を最も発揮しやすい恰好でお越しください。
■4月29日 午前9:00以降、会場AVEの入口を閉め切らせていただきます。その後のご入場はできませんので、ご注意ください。
■当日はゴールデン・ウィーク初日となり、道路の混雑が予想されます。お車でご来場の方はご注意ください。
■参加者様以外のご入場は禁止とさせていただいております。他の方ご同伴での来場はお控えください。
■プロジェクト・カイカ中、スマートフォンをはじめとした通信機器や撮影機器は、電源をお切りの上、当研究所にお預けいただく形となります。
■プロジェクト開始前における、他参加者との談合や申し合わせが判明した場合、ご参加は取り消しとさせていただきます。
■やむを得ぬ事情でご参加が困難となった場合、当メールアドレスまでご返信ください。
以上となります。
それでは、逢条 陽様のご参加を、研究所一同お待ちしております。
再び、約4ヶ月後-
8月11日 16:19
田んぼの端にこしらえられた、木製ベンチに腰掛けて、並ぶ稲穂を眺めつつ、セミの多重奏を聞く。
そんな中、頬をぬるりと伝い、顎に到達した汗を、首巻きタオルで拭き取る木成農夫。
「いやあ、しっかし、今日も暑いっすなあ。伊原さん、ちょっと痩せられたんじゃありませんか?」
そう言う木成農夫の方は、ジリジリ射し込む日差しによって、元々濃かった顔肌が、一層色濃くなっている。
「去年より、3度も暑いんですってよ」
木成農夫がそう続け、くわりと両目を見開くと、白目の露出が高まって、それが顔面の褐色とコントラストを生み出した。
「・・・たまりませんね」
伊原農夫は、その顔面におけるコントラストから、真っ青な空に目を移した。
するとそこでも、無限の青と、太陽の金色が、真夏のコントラストを生み出している。
少し前、木成老夫婦より提示のあった、伊原農夫の雇用条件。
それは、テクノロジーによる、農作業効率化計画の立案と実施。
および、木成農家が溜め込んだ、農業データの整理と管理。
加えて、稲作の手伝い。
ちなみに、賃金は、期待値よりずっと低かった。
農業経験なし。
しかし、この仕事は欲しい。
そんな不利な立場から、まんまと飲まされる形となったのだ。
その、足下を見た条件を。
「ま・・・嵐が吹くよりマシですよ」
伊原農夫はそう言って、青空から、横に座る木成農夫に目を移し、言葉を続けた。
「そう言えば、どうでした?」
「はい?」
「診断結果」
「・・・ああ」
木成農夫は、剣道部顧問時代から、腰がよろしくなかったらしい。
その腰の調子は農作業により悪化する一方のようで、昨日強い腰痛を訴え、農作業後に整形外科へと直行していた。
恐らくは、ヘルニア。
そんな回答を予想していた伊原農夫は、意表を突く回答に、ふと眉をひそめた。
「自律神経失調症」
「え?」
「ああ、いえ。腰の話でしたら、ヘルニアだったんですが・・・それとは別に、最近、妙な耳鳴りがするようになりましてね。自立神経失調症の症状と合致するんで、ついでに心療内科も受診してみたんすわ」
「・・・なるほど」
「・・・正直、あの一件以降、不安やらストレスで、どうも心が晴れんのですわ」
「それは・・・私もですよ」
「後ね、この前、元嫁から・・・。まあ、この話はいいや。兎に角そういう、他のストレスもあるんすわ」
そして、もんぺのポケットからゴソゴソと錠剤を取り出し、それをペットボトルの水で喉に流し込む木成農夫。
しかしその錠剤が、腰痛に対するものか、それとも自律神経失調症に対するものかは、伊原農夫には分からなかった。
「ングッ、ハァッ・・・」
口を閉じる、木成農夫。
すると、舌に残る錠剤の苦みが、じわりと口内に拡がった気がした。
その浸食的な苦みの中、麦わら帽子のつば下で、田んぼを睨みつけながら、髭に覆われた口を開く。
「しっかし、話は変わりますが、想像もしてませんでしたなあ」
「・・・ええ」
まだ、ほぼ何も言っていない。
しかし、それにも関わらず伊原農夫は、木成農夫が何の話をしているのか、直感的に分かった。
「んまあ、想像なんて、できるワケありませんか」
そう、それは。
ごく最近、世界の裏側にまで届く、衝撃的なニュースとなった、あの話以外にあり得ない。
「逢条が、「あんなこと」になるなんて」
「・・・まったくです」
瞬間。
どこからか一筋の夏風が吹き、スミワタリの稲穂たちが、その風によりサラサラと揺れた。
その有様を見ながら、伊原農夫は思った。
彼のそれに比べれば、自分に起こった変化など、大したものではないではないか、と。
「我々は、これでも幸せですよ。逢条 陽に比べれば」
4月13日 17:41
そして、「木の地表」を眺めていた。
その四角く、平らな地表の下には、別世界の人々が住んでいる。
彼らはいつも、この時間、いびつな音をこちらの世界に響かせる。
あたかも、自らの存在を主張するかのように。
-ドシ、ドシ、ドシッ、ドン、ドン、ドッ、ドッ、ドッ
乱脈的に、乱暴に、響き渡る衝撃音。
その、叫ぶ地表の、ど真ん中。
そこにあるのは、ガラスの花弁に身を包む、世界最大級の花。
そんな、巨大な花の中心部には、とぐろを巻いた白蛇みたいな、奇妙な管が鎮座している。
その白管から生えた、長いめしべを手前に引くと、カシ、カシと音が鳴り、めしべの根本にオレンジ色の灯りがポウと灯った。
まるで、その花に、ささやかな灯りを添えるように。
六畳一間の和室に敷いた、とても見慣れたせんべい布団。
そこにゴロリと寝そべりながら、木の天井から吊るされた、時代遅れの花型ライトを眺めていた。
「カイカと、灯りか・・・」
柏木との、電話の中で。
「逢条、もしもし?」
「・・・ああ、ワリい。ちょっと、妄想してた」
「妄想って、お前から電話してきたんだろうが・・・でお前、いつ無期停から復帰すんだよ?」
「復帰は、しないね」
「何?」
「辞めたんだよ、今日。だからお前に電話したんだ」
「は?お前、辞めたって・・・は??」
驚きで言葉を失っているのか、それとも返す言葉を選んでいるのか。
電話の向こうの柏木が、一瞬声を失った。
「・・・どういう事だ?」
「いや、実はさ、受かったんだ」
「受かった?受かったって・・・何かの資格か?」
「プロジェクト・カイカ」
プツリとした沈黙。
見慣れた街に暴力的に生まれた真空地帯のような、会話の空白。
その真空地帯で息を失う柏木の姿が、ありありと目に浮かぶ。
「ま・・・だから、高校なんかに留まる必要ねえと思ってさ。どうせ、剣道もやれねえし」
「う・・・嘘だろ?」
「嘘じゃない。8人中に、選ばれた。スゲエと思わねえ?新世代の人工知能の、学習材料になんだぜ?この俺が」
空に舞い上がる沢山の風船のもと、パンパンと、クラッカーを鳴らすような。
そんな祝福が、あるものだろうと思っていた。
しかし、鼓膜を震わせたのは、むしろその盛り上がりに水を差す、ノイズのような声だった。
「何で辞めたんだよ?高校」
「・・・は?」
「いや、プロジェクト・カイカに受かったのは、そりゃスゲエよ。でもさ・・・辞めることねえだろ」
「・・・じゃあ、逆に聞くけど、居て何の意味があんだよ?俺の剣道のキャリアは断たれたんだぜ?だったら、そんなトコで、時間無駄使いしてられねえよ。このプロジェクト・カイカっていうチャンスを、全力で掴みに行くしかねえだろ?」
「いやでも、そのプロジェクト・カイカは、ゴールデン・ウィークで終わんだろ?その後は、現実に戻んなきゃいけない。新世代の人工知能の学習材料?から、普通の逢条 陽に戻んなきゃいけねんだぞ?この際聞くけど、お前、進学とか就活とかする気あんの?」
「どっちも必要ねえよ。「ご自身の才能を存分に発揮いただける環境」。覚えてるか?」
「いや、覚えてるけど・・・それ、勝者になった報酬みたいなもんだよな?」
「そうだよ。だから、全力でそれ取りに行こうって話をしてんだよ」
「・・・お前、正気か?飛躍し過ぎじゃないか?足下見た方がいいと思うけどな」
「足下は見てるよ。俺の勝率はメチャクチャ低い。それは分かってる。だからその勝率を1%でも上げるために、高校辞めたんだよ。進学とか、就職とか、そんな風にビビッて足下見てたら、この勝負には勝てねえんだよ」
「いや、ビビッて足下見ろよ。だって、このまま進学も就職もしねえんだったら、お前「下の人たち」以下だぜ?」
瞬間、膨張し切った風船たちが、空中でボン、ボンと音を立てた。
破裂し、浮力を失って、固い地面にパサリと落ちる、風船たち。
「お前、今何つった?」
「宙に舞い上がってないで、地に足付けたら?って言ったの。思い出作りくらいに考えとけよ。あんま、入れ込み過ぎんなって」
既視感。
まるで、この現実のタイムラインの先端に、過去の出来事がいきなり挿入されたような。
「お祭り騒ぎもいいけど、まともに生きてくことを考えねえとさ」
それは、ごく最近経験した、厭(いと)わしい出来事だった。
「・・・お前まで、結月みたいなこと言うのかよ?」
「え?」
こちらのトーンが変わったことに気付き、続く言葉を控える柏木。
気付けば、花型ライトの真ん中に灯る、オレンジ色の常夜灯を睨みつけていた。
「お前さ、俺が普通に学校行って、普通の生活送ってる、満ち足りたいい子ちゃんだと思ってたのか?俺はな、ヤクの売人の息子なんだよ。お前も、前から知ってるよな?」
「おい、いきなり何の話だよ・・・?」
「それだけじゃねえよ。俺はあの猛毒親父に、散々家で痛めつけられてたんだ。だから子供の頃、お前の家に逃げてたんだよ。でも、逃げっぱなしじゃいられねえから俺は、剣道始めたんだよ。まさかお前、それ忘れてるワケじゃねえよな?」
「・・・」
「俺は、黙って社会のためにクルクル回る、歯車じゃねえんだよ。俺は、剣道がやりたかったんだ。剣道強くなれるから、俺はあんなクソみてえな場所に行ってたんだよ。でも、剣道やれないんなら、もう行く意味なんてねえだろうが?」
「逢条、落ち着けって」
「落ち着けるわけねえだろうが?お前、俺が剣道始めた理由、知ってるくせによ。プロジェクト・カイカでは、剣道やれんだよ。勝ったら、一生剣道やらせてくれるかもしれねえ。だからお前は、お前だけは、応援してくれると思ってた」
裏切られた怒り。
柏木に対して持っていた、とても柔らかい感情が、一瞬の内に凝固して、鋭い棘を纏っていく。
柏木は、沈黙していた。
自分の方を向いてギラつく、初めて目にしたその塊に、ただ戦慄を覚えながら。
「ふざけんじゃねえぞ、柏木」
「あ、逢条・・・俺・・・お前がそんなに剣道に賭けてるなんて、知らなくて-」
「・・・何で、「知らなかった」んだ?」
-ツーーーーーーーーー
最後に、柏木が何か言っていた気がする。
もしかしたら、謝っていたのだろうか?
しかし、その言葉を、聞き取ることはできなかった。
既に、電話を切ってしまっていたからだ。
再び、ドサリと布団に寝転がり、木の天井を睨みつける。
結局、その常夜灯は、ガラスの花に灯りなんか添えていなかった。
それは、あくまで別の存在である花に対し、特に関心を持たずに、淡々と灯っていただけだ。
4月14日 20:13
-ムウゥゥゥーーンッッ、ムウゥゥゥーーンッッ
昨日から、一日半。
天井に咲くガラスの花が、花弁に光を灯す中、せんべい布団の真ん中で、スマホがブルブル鳴っている。
柏木からの、電話によって。
「・・・おお、もしもし」
「おお、逢条・・・大丈夫か、今」
「・・・ああ」
「あのさ、悪かったな。その・・・昨日の」
かつてない程弱った声を、やっと喉から吐き出して、昨日の件を詫びる柏木。
そのシュンと項垂れるような声に、怒りの棘が硬度を失くし、とんがっていた先端が、地面の方にくにゃりと垂れた。
「いいよ・・・もう、別に」
「・・・ホント、ゴメン」
バツが悪そうに、再び謝る柏木。
自分も、次の言葉を紡ぎ出せない。
言葉にならない、互いの重たい思念。
それらが、電波を通し、重なり、混じる。
そんな中、柏木が再び口を開いた。
「あのさ、実は、もう一つ謝んなきゃいけないんだ」
「・・・何?」
「俺、もうお前と付き合えない」
「・・・え?」
「凄え、言いにくいんだけどさ。親父が、お前との付き合いは控えた方がいいって」
「お前の父さんが?・・・何でだよ。小学校の頃、家出した俺を受け入れてくれたろ?ついこの前だって、またいつでも来てくれって言ってたよな?」
「いや・・・正直言うとさ、ずっと良く思ってなかったらしいんだよ。親父がそんな風に考えてたなんて、俺も知らなかったんだけど」
「ずっと良く思ってなかった?」
「その・・・お前が言ってた通り、お前の父ちゃん、ヤクの売人だろ?お前が家に来ると、そういう人と間接的に関わりができるワケでさ。内心、嫌だったらしいんだよ。でもお前、成績トップクラスだったじゃん?それで将来有望と見て、付き合いを許してたんだって。でも」
「でも・・・?」
「結局、ドロップアウトしちゃったじゃん。だから、親父が考えを変えた。お前も、お前の父ちゃんみたいになるんじゃないかって」
「・・・高校中退者とは付き合うなって言われたってことか?お前、それに何も言い返さないのか?」
「ゴメン・・・俺は、親父には逆らえない」
「・・・ふざけんな」
瞬間、頭を駆け抜けた回想。
柏木の父にとって、俺は何だったのだろう。
それは、かつての価値が無くなって、捨てるだけとなった用済み。
間晋経政高校にとって、俺は何だったのだろう。
それは、「まとも」に機能しない不良品。
成城 結月にとって、俺は何だったのだろう。
それは、身に着けて、自らを輝かせる飾り。
猛毒親父にとって、俺は何だったのだろう。
それは、好きに痛めつけていい、心持たぬ骨と肉の塊。
人生に出てきては、ことごとく、自分の心を無視する人間たち。
「でも、プロジェクト・カイカは、頑張って欲しいと思って・・・」
「・・・お前も、そうだったんだな?」
「え?」
柏木を、誤解していた。
その「古き良き友人」は、現実世界に存在しない、架空の人物だったようだ。
心の底で、グツグツと。
鉛の液が煮えたぎり、それが刃(やいば)の言葉へと変わっていく。
そうだ。
それを、息に乗せて放ってしまえ。
この「実態」との関わりを、真っ二つに切り裂くために。
「お前こそ、二度と俺に関わんじゃねえ」
-ツーーーーーーーーーー
「・・・グゥッっ、っグッッ、うっ、ウフっっ、グゥッッ」
直後、引き波に囚われる中、再び右の耳に鳴る、通話が途切れたシグナル音。
心なしか、その音は、昨日よりずっと重たく聞こえた。
4月14日 20:19
「・・・う・・・ぐふっ、ふうぅっ、ぐふっっっ、ふっっ」
天災、戦争、感染病の大流行。
しばしば、永久(とわ)に続くように思える「日常」は、時にそうした要因で、あっという間に崩れ去る。
そんな日常の崩壊に、若き柏木 興介は、初めて見舞われる形となった。
ついぞ、10分ほど前に。
「ぐっ・・・ぐうっッ、ふウッ、これで、いいですか」
体の震えが、そのまま反映された声。
柏木 興介少年が、体を震わせ泣く理由。
それは、逢条 陽との絶縁の他、大きく分けて二つある。
一つは、自宅のゲーム室において、得体の知れない何者かに、後ろから羽交い絞めにされているから。
更には、その何者かによって、自身の右のこめかみに、銃を突きつけられているからだ。
「最後の言葉、言い切れなかったね?」
-カシャッ
「あっ、ご・・・ゴメンなふっ!」
大きな声を出そうとすると、白手袋に覆われた、異なる生き物のような手が、すかさずその拡がった口を抑え込んだ。
「まあ、いいだろう。君には、二つ「指導」がある。と言うのも、昨日の君の言動が、私の「雇い主」の都合に抵触したものでね」
雇い主。
その言葉が、想像力を刺激する。
しかしその想像の膨らみは、只ならぬ圧力の中で委縮していく。
まるで、プレス機械に圧し潰され、ぺしゃんこになっていくボールみたいに。
「一つ目。金輪際、逢条 陽と関わってはならない。逢条 陽の名前も、電話帳から消しなさい。さっき君が口にしたことも、あながち演技じゃないんだろ?であれば、楽な話じゃないか」
「・・・フーッ、フスーッフッフッ、スーッ、フウーッ、スゥーッフウーッフッ」
「二つ目。この出来事を、誰にも口外してはならない。警察は勿論、君の家族にもだ。たった一つの失言で、命を落とす人間がこの世には存在するんだ。君は、そんな人間の一人になってはいけないよ?」
それらの「指導」を受け入れなければ、既に崩れた日常が、恐らく消え去ってしまうのだろう。
そんな予測から、慎重に、正確に、コクリと頷く柏木少年。
「何か、質問はあるかな?間晋経政高校3年C組の、柏木 興介君?」
「ムフッッ、プハッ!・・・ありません」
「イイ子だ。では、そのまま3分前を向いていなさい。3分後、君は日常に戻る。すぐに後ろを振り返ったりした場合は、話が別だがね」
そして、静かに窓が開き、その何者かの足が裏庭に着地した瞬間、極限まで高まっていた緊張と恐怖が、乱れた吐息によって吐き出された。
「ハあっ、ハアッッ、はっっっ・・・・・」
質問。
そう言えば、聞きたいことは、当然あった。
-いったい、何が起こってるんですか?
ついに、言葉へと変わらなかった疑念。
それが、今も言葉に変わらないまま、二酸化炭素に運ばれて、部屋の空気と混じり合う。
「・・・・・・ハアッっっ」
そして、3分後。
その空気が、換気扇にすっかり吸い上げられた頃、柏木 興介少年に「日常」が戻った。
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