序章 第03話 | 逢条 陽 vs 成城 結月
4月9日 22:33
ホログラム世界の冒険が終わり、およそ1時間。
見つめていたのは、日常世界への扉だった。
東境都、ひがし区、据田(すえだ)。
それは、都内に初めて生まれたスラム。
その一角に佇む、プレハブ小屋のようなアパートの101号室。
人には言えない、逢条家宅。
そんな日常世界への入口に鍵を挿し込み、それをガチャリと回して、扉を引き開けようとする。
すると耳を突いたのは、思いの外、非日常的な音だった。
-カチャカチャ、ガジャッ
「・・・ん?」
-ガジャッ、ガジャッ
「あれ?」
おかしい。
鍵を回したことで、むしろ扉が施錠されてしまっているのだ。
つまり、鍵は最初から開いていたということ。
母親は、昼も夜も働きづめで、今夜も家にいないはず。
猛毒親父は、自分が小学生のとき、覚せい剤取締法違反の再犯で収監され、今も塀の中にいる。
だとすれば、答えは一つ。
何しろここは、東境で犯罪発生率ダントツ1位の、貧困地区。
「・・・空き巣かよ」
恐る恐る鍵を再び回し、ソッと扉を開けて、玄関に佇む竹刀を掴み、そこに足を踏み入れる。
居間、自分の部屋、母親の部屋。
竹刀をガッシリ握り、順番に歩み寄り、ライトをパチパチ点けていくと、状況が明らかになった。
荒らされた形跡は、無し。
何かが盗まれたようにも、見えない。
どうやら、母親が鍵を掛け忘れただけのようだ。
「ふう」
そもそも、こんなボロ家に入る空き巣はいない。
ホッと一息つくと、あふれるホワイトライトの中で、「シン」という音が耳を撫でた。
居間の食卓の上には、母親がつくり置いたオムライスの皿。
その物憂げな様相は、まるで、ある種の静物画のようだ。
-晩御飯
皿の横に添えられた母親のメモ書きが、そんな静物画風の夕飯に、更なる侘しさを添えている。
数時間前、柏木家に足を踏み入れたとき、そこには食卓を囲う柏木家全員の姿があった。
その一家団欒とは打って変わった、我が家の「食卓」の静けさは、どこかしら祭りの後の空白を思わせる。
そもそも、さっき柏木の家でポップコーンを頬張ったので、そこまで腹は減っていない。
オムライスの皿を自分の部屋に持ち込み、それを無造作に机に置いて、何とはなしに窓の外を眺める。
散らばったゴミが、放置された道路。
そこをうろつく、ホームレスと汚れた野良猫。
「HELL」というグラフィティが吹き付けられた、真正面の家の窓。
今夜は、月が消えかけている。
昨日、夜空を煌々と照らしていた満月は、今、その大半が雲の向こう。
その月光の欠落を、何とか補完するように光るのは、壊れかけの道路照明灯。
弱々しい光のもと露わになるのは、醜悪なスラムの様相。
結局、「家に行っていいか」という問いかけに対し、結月からの返事はないまま。
しかし、最後にスマホを見たのは30分前。
もしかしたら、今頃詫びでも入っているかもしれない。
そして、ポケットからごそごそと10世代前のスマホを取り出す。
ホーム画面に鎮座するのは、カメラに向けて堂々拡げた、東境都中学校剣道大会、優勝の賞状。
その賞状の上端からにょっきり伸びているのは、それを胸に掲げる若かりし自分の、誇らしげな顔。
新しいメッセージは、ゼロ。
「返事くれないの?」
昼に作った、結月へのメッセージ。
それを作成してから半日経つにも関わらず、そのステータスは未だ下書きのまま。
「送信」ボタン。
親指からそこまで、たったの1センチ。
しかし、その1センチ先が、宇宙の果てのように遠い。
力を込めて押そうとしても、指が逸れて届かない。
親指とボタンの間の時空が、完全にねじれてしまっているのだ。
そのまま20分、いや30分ほど格闘するも-
遂にねじれ時空を攻略できず、せんべい布団の上に、スマホをボンと放り投げる。
そして、自らもそこに転がろうとした、その瞬間。
孤独な夜の静けさを、微かな振動音が打ち破った。
ねじれ時空の、向こう側。
その世界の住人が、交信を求めて、布団を小刻みに震わせているのだ。
それは、繋がるための交信なのか。
それとも、断ち切るための交信なのか。
それが分からないまま、震えるスマホを手に取った。
4月9日 23:15
「・・・もしもし。陽君?」
「ゆづき」
「陽君。あの・・・ずっと、返事できてなくてゴメンね」
「できてなくて?しなかっただけだろ」
「・・・ゴメン」
体を絞られた小動物のような声で、再び謝る結月。
しかし、恐らくそれは、返事をしなかったことについての謝りではない。
それは、「返事をしない」という行為の背景にある、残酷な決心についての謝り。
結月の口調から、言葉の合間の妙な空隙から、そう察しがついてしまった。
「あのさ、もらった電話であれなんだけど、先に俺が話していいかな?」
「・・・いいよ?」
少しの困惑を帯びた結月の声が、不協和音のように右耳に響く。
「俺ら、もう終わりにしないか?」
それは、自分なりの駆け引きだった。
僅かな可能性ではあるが、結月の心のどこかには、まだ迷いが残っているかもしれない。
そんな中、こちらから破局を持ち掛ければ、気持ちが定まり切っていないが故に、その提案を一旦否定してくれるかもしれない。
つまり、止めを刺される前に、一か八かの時間稼ぎに賭けたのだ。
「・・・」
暫しの、沈黙。
しかしそれは、重苦しい声が電波を伝う前の、準備的な沈黙に過ぎなかった。
「・・・うん」
「うん?・・・うんってのは、終わりでいいんだな?」
「残念だけど、陽君がそう思うなら仕方ないよね」
否定することも、迷うこともない、その結月の声。
その声が、鼓膜を震わせ、三半規管を揺らして、平衡感覚すら狂わせる。
駆け引きは、相手が自分を求めている場合にのみ成立する。
相手にその気持ちがない場合、虚しい小細工になるだけだ。
そんな事実を、今学んでしまった。
「じゃあ、切るね」
「待てよ、切んなよ」
そこに、駆け引きも何もない。
この電話が切れたら、関係が切れてしまう。
この通信が終わったら、通い合うものがなくなってしまう。
好きな何かから、突き放されてしまう。
またしても。
だから、必死で結月を引き留めた。
「何で、否定しないんだよ」
「俺ら、もう終わりなのかよ」
「なあ?」
最後の力で放った言葉たちが、電波の向こうに消えていく。
そして、再びの沈黙。
それは、何かが死んだ後に訪れる、絶対的な無音なのか。
もしくは、そこにはまだ、次の言葉が生まれる可能性が含まれているのか。
「・・・何とか言えよ」
「・・・だって陽君、変わっちゃったみたいだから」
「何?」
「授業中は寝てるし、成績はボロボロだし、挙句の果てに下の人たちとつるんで、どうしちゃったの?」
結月と出逢ったのは、間晋経政高校の特別進学課、略称「特進課」に入学したときだった。
下の人たち。
それは、間晋経政の「特進課」が、「普通課」の学生たちを見下して呼ぶ俗称。
特進課は、校舎の最上階に位置している。
普通課は、そこから下の階層すべて。
それが故に、下の人たち。
勿論それは、物理的階層の上下のみを意味しているのではない。
特進課と普通課の間には、偏差値30以上の開きがある。
その呼び名は、学力に伴ってもたらされるであろう、将来の社会的階層を示唆しているのだ。
「・・・別に、誰とつるもうが勝手だろ?」
「そうやって開き直るなんて、やっぱり下の人たちに感化されちゃったんだね。だから勉強もろくにしなくなっちゃたんだ?」
「・・・じゃあ俺が成績優秀ないい子ちゃんでいれば、それで満足かよ?俺にだってな、色々あんだよ。俺は数字出し続けるだけの機械じゃ・・・」
「そうなってくれるの?」
「何?」
「だって、それが陽君でしょ?」
「・・・それが、俺?」
約1年前-
3月15日 19:17
背中の「敗北記念日」を、ぺたりと湿布で覆い隠し、それ以外のすべてを晒す。
同じくして、あらゆる衣を脱ぎ捨てた、成城 結月の目の前で。
それは、結月の部屋で迎えた初夜。
生涯で13回もアイドルにスカウトされた美貌を持つ結月。
どこかしら猫を思わせる、パッチリと大きな目。
すらりとした鼻と、控えめな口が織り成す均整。
ほっそりとした首に繋がる、シャープな顎の線。
しかし、この夜については、そんな整った顔が歪んでいる。
あふれ出る愛欲と、押し寄せる快楽で。
「陽君!!!」
その瞬間、結月は、二人だけのものとなった成城家の端にまで響くような声で、自分の名前を叫び上げた。
仄かな桃色に染まった、可愛らしきベッドの上で。
激しい動きで赤く火照った、自分の肉体の下で。
その結月から、顔が焦げつくような熱視線を受ける中、こちらも絶頂に達していく。
そして、熱視線に対するお返しと言わんばかりに、結月の内側に、熱々の液を送り込む。
「あア!!!」
その瞬間ときたらない。
脳細胞の一つ一つがジャンプするような、飛躍的快楽。
オスの最大の役割を達成したという、本能的自負。
好きな誰かとの結びつきが極まったことでもたらされる、精神的充足。
それらが、脳内で混ざり拡がる。
まるで、海を泳いでいるような気分だった。
どこまでも広く、暖かな海を。
-ドサッ
脱力し、その海に体を預けるように、ごとりとベッドに仰向けになる。
すると結月は、拡がった自分の腕の中に身を寄せ、そこで自らの体を少し丸めた。
まるで、自分とその海にたゆたうように。
そして、抱き合いながら少しの言葉を交わした後だろうか。
結月は、自身の甘い声色を、少し真剣なものに変え、こちらに質問を投げかけた。
「ねえ。陽君って、将来何になりたいの?」
「・・・俺は、剣道でやってこうって思ってるけど」
「剣道でやってくって?」
「警察学校に行って警官になって、警官として剣道やってくって意味だよ。こういう人たちのこと、特連って言うんだけどさ。剣道追究したいやつは、特連として警察に入るんだ」
「それで?」
「それで、特連たちが参加する剣道大会で日本一を争う」
「・・・それで日本一になって、お金が稼げたり有名になったりするの?剣道って、オリンピックの種目でもないよね?」
「いや、そういうのは無いけど。まあ、特連の先生とかになれれば、ちょっとは給料もらえるのかもしんないけど」
「・・・じゃあ、要するに公務員になるの?」
「まあ、そうだね。でも、社会的なくくりとかはあんま気にしてないよ。とにかく、剣道が一番大事だからさ。それを追求できる環境に行きたいってだけで。っていうか、将来決めんのって、そういうことだろ?」
「・・・陽君の学力なら、いくらでもいい大学行けると思うけど?世界で一番有名な会社にも入れるかもよ?入りたいと思わない?何なら、政治家とか官僚みたいな、上級国民だって夢じゃないわよ」
「いや、夢じゃないって・・・そんな夢、持ったことねえし。結月はどうすんだよ?アイドルとかにはなんないの?」
「え?」
「13回、だっけ?アイドルにスカウトされたんだろ?」
「陽君、本気で言ってるの?アイドルみたいな不安定な職選ばないわよ。アイドルっていう人たち使って稼ぐ仕事なら、検討はするけど。そうだ、陽君。ヒップホップとか好きだったよね?外資系のおっきなレコード会社とかどうなの?」
「え?」
「一緒にアイドル売り出して、稼いだりして?」
「いや、ちょっと俺は剣道以外に考えられないけど」
「ふうん。まあ、いいわ。とにかく、まだ時間はあるしね。ゆっくり、アタシと将来決めてこ?」
結月は、少し圧をこめて、「将来」という言葉を口にした。
その圧力で、心の机の中央に置いていた「剣道」という文字が、ストンと床に落とされた気がして、どこか気持ちが悪かった。
まあ。
でも、いいか。
とにかく、気持ち良かったし。
しかし、脳をやわらかくほぐす恍惚感の隅で、その気持ち悪さは、いつまでも残っていた。
まるで、美味しいジュースに紛れ込み、舌に纏わりついてしまった異物のように。
-再び、現在
4月9日 23:19
「剣道に熱中してるのに、成績はいっつもトップクラスで。そんな陽君だから、将来感じて付き合ってたんだよ?」
「将来・・・」
ハッとした、気付き。
それは、膝から下の力が抜けるような。
結月の言う「将来」とは、「逢条 陽の将来」のことではない。
それは、「逢条 陽というエリートの卵と付き合っている、自分自身の将来」のこと。
つまり、結月は、逢条 陽と付き合っていたのではない。
来たるべき、自分自身の輝かしい将来と「付き合っていた」のだ。
「結月。もう、いいよ」
「いいよって、何が?」
「話になんねえから、もういいよ。お前は、俺のことを何にも分かってない」
「分かってない?成績優秀で-」
「違えよ。俺は、そういうスペックの集合体じゃねえんだよ。ショッピングでもするみてえに人と付き合ってんじゃねえよ。俺は、失敗して、スペック全部失っても、俺のままなんだよ」
「陽君、何言ってるの?」
そのとき、あの、結月との初夜を思い出した。
こちらの頭を撫で、背中を触り回す両手。
こちらの膝の裏側を、激しく締め上げる両足。
こちらの大事な部分を、抱きしめるように包む秘部。
しかし、それらの両手両足は、いつしか不気味な触手に変わり-
その秘部は、こちらの養分を吸い上げる、危険な管に変容していく。
驚き、結月を見てみると、そこにはイカのような、クラゲのような。
或いは、それらが結月と混ざり合ったような、得体の知れない顔があった。
それは、吃驚してのけぞる自分を意にも介さず、こちらを押し倒すや否や、大事な部分の上にずるりと跨り、その体躯を何度もうねらせ、次第に絶頂に達していく。
その奇怪なエクスタシーの瞬間、それが叫び上げたのは、「陽君」ではない。
聞き取ることすらできない、何者かの名前だった。
「#@#&**!!!」
そうか。
結月は、自分の正体を知らないままに。
自分は、結月の正体を知らないままに。
お互いが、お互いの正体を知らないままに、体だけを重ね合わせていたのだ。
「・・・だよ、お前?」
「え?」
結月が聞き取れないほどの小声で、それをボソリとつぶやいた瞬間。
シトシトと、雨が降り始める音が聞こえた。
外は、雨。
地球の夜をやさしく照らしていた月は、雨雲の影へと消えてしまった。
いや、もしかしたら。
それは、そもそも地球を見てすらいない、単なる岩の塊だったのかもしれない。
「誰だよ、お前?」
直後、電話が切れ、激しさを増す雨音だけが虚しく鳴り響いた。
4月10日 0:05
いつの間にか日付が変わり、18歳の誕生日が来ていた。
視界にあるのは、現実世界ではなく、再びのバーチャル世界。
随分前に柏木から譲り受けた、ヘッドマウント・ディスプレイ。
頭の上半分をすっぽり覆うこの機器に、自分の視覚と聴覚を委ねている。
何も考えず、只、ぼんやりと。
結月との別れ。
それにより、心に生まれた空白と、孤独な誕生日の静寂を、架空の賑わいで、どうにかこうにか埋めようとしている。
さっき口にしたオムライスでは、到底それは埋まらかったからだ。
バーチャル世界をしばし漂流し、行き着いたのは、お馴染みの動画視聴サイト「YOU_(ユースペース)」。
そのユースペの画面には、幾つかのオススメ動画が鎮座している。
・ヒップホップのミュージック・ビデオ
・イマーシブ映像で学ぶ、「胴」の打ち方のコツ
・サイバーキャスター「ホシレモン」からの重要なお知らせ
このオススメ宇宙においては、異なる時空が、並列的に存在するのだ。
その並列時空を、ぐいぐいとスワイプ。
無作為に着地した時空をぼんやり眺め、いつしか事切れたように眠りに落ちる。
それが、ここ最近のルーティーン。
しかし、今夜に限っては、そのルーティーンが打ち崩されてしまった。
タップしたかも定かではない、見知らぬゲームの実況動画。
その動画の広告が、視界を覆った瞬間に。
白い画面。
真ん中に、不思議な色の点がある。
その不思議な点を眺めていると、それが徐々に大きくなり、やがてその点が、煌びやかな文字や色彩の塊であることに気付く。
すると、煌びやかな文字や色彩群が、その点から一気に飛び散り、それぞれのあるべき場所に収まっていく。
色彩たちは、ヘッドフォン、チェスの駒、フライパンに彫刻刀、バレーボールに姿を変えた。
文字たちは、いつの間にか規則正しく並び立ち、文を紡ぎ出している。
その文は、「プロジェクト・カイカ」の名称と、その紹介。
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あなたの才を活かす場所。
それは、現実世界だけじゃない。
ユニ・ユニバースで活躍し、カイカさせてみませんか?
あなた自身の才能と。
この女の子の才能を。
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そして、そこに浮かび上がったのは、一人のバーチャル・ガールの姿だった。
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プロジェクト・カイカ、ドットユーユー。
才ある人工知能、ソラソラが-
あなたをそこで待っている。
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その瞬間、秘密の花園でひっそりと実った果実が、透きとおる空のもとで「ポン」と弾けたような音が鳴り響いた。
それは、たかだか1分間の広告だった。
しかしそこには、心象世界の「1分間」をぐにゃりと曲げ-
数年間、あるいは、ゼロコンマ1秒をも意識させるような、不思議な何かがあった。
雨粒が花からぽとりと零れ落ちたとき。
そこに宇宙のうごめきを感じるような。
うまくは言い表せないが、そんな瞬間に似ていた。
「Happy Birthday!」
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