序章 第02話 | 逢条 陽 vs 逢条 晶
約半年前-
10月10日 14:01
掌(てのひら)を、ソッと。
地表に生まれたばかりの、赤い草原に押し当てる。
すると、ある草たちは、掌を突つくように刺激し-
ある草たちは、指と指の隙間から、ぴょんぴょんと顔を出す。
そこで、ふと気付く。
赤い草たちの根元が、地中から滲み出た暖水で、べっとり湿っていることに。
湿っているのは、無理もない。
さっき、ウォームアップをしたからだ。
「ふうう」
短く刈り上げた、自分自身の頭。
その坊主頭から手を離し、掌にまとわりついた汗を見つめる。
ここは、東境都内の、とある総合体育館。
控室に漂う、ガーゼと消毒液による、医療的な匂い。
試合場に張りつめた、武道特有の儀式的な空気。
最新テクノロジーとはおよそ無縁な、伝統的な雰囲気。
今日は、「全日本高等学校剣道大会 男子個人戦」の開催日。
その出場選手として、自分は今、この体育館にいる。
時計の針が進む度、徐々に強まっていく鼓動。
それが、体の隅々にまで緊張を送り込み、心臓以外の肉体をこわばらせていく。
加えて、その緊張による肉体の硬化を、より深めているものが一つ。
それは、体育館の壁に張り出された、モノトーンの試合表。
デジタル技術が支配する時代に、全力で抗うかのような巨大な白紙に、今日という日の筋書きが堂々と記されている。
白紙の底辺。
そこに、縦に書かれた50名の名前が、右端から左端まで、ずらり水平に並び立つ。
白紙の頂点。
そこから降りた1本の線は、あたかも植物の根のように枝分かれしながら、下へ、更にその下へと降りていく。
やがて、その根の末端は、底辺に並び立つ50名の頭文字にまで到達。
まるで、地中に伸び拡がっていく草の根が、地底生物たちの巣穴にぶつかったかのように。
それらの地底生物たちは、降りてきたその根を掴み、根元まで登り上がってやろうと、ギラリ上を見据えている。
根元の先には、地上世界。
そこで待っているのは、地底に届くことのない、眩いまでの光。
全日本高等学校剣道大会、男子個人戦トーナメント表。
それを見ながら、地上の輝きを巡る、地底のドラマを想起する。
再び、根の末端に目を下ろすと、そこにあるのは自分の名前。
しかしある意味、それ以上に注視すべきは、隣にある名前の方だ。
御影 凌馬(みかげ りょうま)。
間晋経政のライバル校である、真ノ宮高校のエースであり、高校1年の時から既に、全日本大会に名を連ねる天才。
御影の名前は、忘れもしない。
3年前、「全日本中学校剣道大会」で争った相手だ。
当時から、御影は神童と謳われていた。
剣道の英才教育によって、体に染みついたテクニック。
戦況に応じ、そのテクニックを的確に使い分けるセンス。
勝機を見出すや、電光石火の速さで斬りかかる爆発力。
それらの資質に、全局面で圧倒された。
結果は、一切良いところの無いまま、2本先取されての負け。
しかし、敗北の後に、こうも思った。
決して、勝てない相手ではないと。
御影は、剣道の英才教育を受けたエリートかもしれない。
しかし恐らく、自らの意思で剣道を始めたわけではない。
御影は、洗練された技術を持つ、優秀なアスリートかもしれない。
しかし恐らく、「闘う」ということに対する、特別な動機はない。
そこに、勝機がある気がしたのだ。
熱心な親と、恵まれた環境。
ある日気付いたら始め、当然のようにやらされてきた剣道。
言わば御影は、敷かれたレールをパーフェクトに走り抜けるだけの男。
こちらは、親に刀を踏みにじられても、闘志をたぎらせ続けてきたのだ。
レールなどない荒れ地を、這い進みながら続けてきたのだ。
どちらが勝つか。
それを、この戦いで証明してやる。
それから更に、7年前-
10月10日 21:13
南米辺りのジャングルを、不敵にズルズル這い回る、大蛇の体の模様を思わせるシャツ。
そのシャツの襟から垂れるのは、小さな金の輪が連なり合い、紡ぎ出されたネックレス。
それはどこか、熱帯雨林の木の枝で、魅惑的にきらめく猛毒の実を思わせる。
六畳一間に突如生まれた、危険なジャングル。
そこに仁王立ちするのは、蛇の皮膚をまとい、猛毒の実をぶらさげる、不気味な奇獣。
逢条 晶(あいじょう しょう)。
他ならぬ、自分の父親だ。
憎しみを、煮込んで固めたような瞳。
その黒い瞳が、ゆっくりと降りていく一筋の赤を見つめている。
それは、自分の鼻孔から流れる鼻血。
どうやら奇獣の攻撃で、鼻の血管が破れたらしい。
その血が舌にまで運ばれると、普段味わうことのない、ざらりとした鉄の味が口に拡がる。
それが、この状況の異常性を際立たせ、激しい動揺を生み出していく。
ところで、悪いことがもう一つ。
さっきから、奇獣の姿が二重にぶれる。
それは、顔を殴られたことによる、三半規管の揺れなのか。
それとも、激しい心の動揺が、この視界をも揺さぶっているのか。
定まらない、視点と心。
そんな中、奇獣が二つに増えた口を開く。
「子育っつうのは楽じゃねえなあ?オメエみてえな、気に入らねえガキを持つとよ」
瞬間、弱肉強食が支配するジャングルから、六畳一間の天井に、ぐらりと視点が入れ替わる。
足下から飛び出た鉄球が、ゴツリと顎にぶつかったような衝撃で、顔が大きく反り上がったのだ。
気付いたら、奇獣に顎下を蹴り上げられていた。
のけぞり、よろめき、しまいにガクリと膝が折れる。
唇からこぼれる血液で、ポツポツ赤く染まっていくTシャツ。
それは、熱帯雨林に降り始めた、異様な雨を思わせる。
「オメエ見てると、イライラしてくんだわ」
容赦なく頬にぶち当たる、奇獣の拳のデコボコ。
ジャングルの地にへばりつく、自分自身の横顔。
目に映るのは、約90度回転した、見慣れた部屋の隅っこ。
もう、駄目かもしれない。
そんな不吉な予感が頭をよぎると、部屋の隅から全ての色が失われ、ある種の廃墟の写真のような、白黒世界が立ち現れた。
「(・・・そうか。本当にマズいときって、こうなるのか)」
しかし、その白黒世界には、とあるミスマッチがあるようだ。
木。
虫に蜜を与え、鳥の宿り場となり、種ある果実をその身に纏う。
そんな木が、視界を支配する白黒世界に、鮮やかな色彩を灯している。
何故、こんなとこに木が?
手を伸ばし、その木に触れてみる。
するとそれは瞬く間に、剣(つるぎ)の形に姿を変えた。
部屋の隅に佇んでいた木刀。
それが、左手に収まっている。
ずれた視界が、元の角度にまで戻る。
そこに居るのは、敵意をたぎらせながら、こちらを睨みつける奇獣。
「何持ってんだ、オメエ?俺に歯向かったらどうなるか、分かってんのか?」
どうなるのか。
もしかしたら、殺されるかもしれない。
しかし、それを覚悟で挑むしか、生き延びる方法はない。
「ガキが。どうなるか、たっぷり教えてやるよ」
死ぬか、生きるか。
両手でガッシリ握るのは、生と死の分岐点。
どちらに進むか、分からない。
それでも-剣(つるぎ)を持って、闘え。
再び、約半年前-
10月10日 14:47
「そうは言ってもよお、御影に勝てんのかあ?あの御影に」
「勝てると思わなかったら、勝てるもんも勝てないだろ?」
「でも、以前負けてんだよな?あんま、気張んない方がいいんじゃないか?善戦くらいを目標にすれば、精神的に楽だと思うけどな。ハードル上げると、失敗したときショックでかいぞ」
「おお。わざわざ、試合の前に負けを勧めてくれてありがとな」
「おいおい、気悪くすんなよ?お前のこと考えて言ってんだからさ」
「へえ、そうなのか」
「そうさ。悪いけど、御影とお前、かなりの実力差があるぜ?それを踏まえてアドバイスをしてんだよ」
「そんなに差があるとは思ってねえけどな」
「いやー、例えて言うなら、オオカミと野犬くらいの差があるよ」
「でも、野犬がオオカミを追い払うことだってあるよな?」
「そんなことあるか?」
「いいから、もう行けよ」
やや不満げな表情を残し、その場を後にする金堂。
ようやく、煩わしいのが消えてくれた。
同じ、間晋経政高校の剣道部員である、金堂 大志(こんどう たいし)。
2年の春に転校してきた金堂は、転校前の高校の剣道部で、エースだったらしい。
そんな背景から、明らかに、間晋経政高校でもエースの座を狙っている。
金堂も自分も同じ2年生であり、互いに、次期部長の筆頭候補。
この大会が終わり、現部長が引退したら、確実にどちらかが部長に任命される。
しかし金堂は転校生であり、自分と比べて立場が弱い。
だから、ここで自分に脚光を浴びて欲しくないのだろう。
この1回戦で、さっさと負けて欲しいのが本音のはずだ。
それは、さっきの「アドバイス」からも、よく伝わった。
もっとも、金堂の言うことにも多少の理はあるのかもしれない。
気持ちだけで、御影との実力差を埋められるのか?
金堂にチクリと刺された針から、徐々に思考に毒が回っていく。
そもそも、今日は10月10日。
自分にとっての、「敗北記念日」だ。
自信と、疑心。
強気と、弱気。
決意と、怯み。
相反する感情たちが、突き出たり引っ込んだりして、心の形をぐいぐいと乱していく。
そんな中、壁時計の針たちが、冷酷に一つの時間を指し示した。
御影との、試合の時間を。
深呼吸。
防具を装着。
竹刀を左手に持って、試合場に足を踏み入れる。
足下には、多様な濃淡を浮かべる木の床が拡がる。
その、不揃いな色彩による床の上のマーブル柄に、不格好に入り混じった自らの感情を重ね合わせる。
「両選手!前に進んで」
そこで、漆黒のスーツと黄色のネクタイ姿の主審が、高い声を張り上げた。
試合場の床に引かれた、白い境界線の向こう側。
そこには、防具に身を包んだ御影の姿。
股を絞り、すり足で、境界線の内側の、開始線に歩み寄ってくる御影。
一歩、また一歩と近付いてくる、自分を打ち負かした相手。
大きく、色濃くなっていく、過去の敗北の残影。
「・・・落ち着け」
足元に引かれた、白い線。
眼前に拡がる、黒い影。
中段の構えをとりながら、蹲踞(そんきょ)の姿勢で体を沈める。
そして両膝に力を入れ、静かに立ち上がると、決闘の幕が切って落とされた。
「はじめ!」
主審の声が響き渡ると同時に、こちらを思い切り睨みつけ、腹から声を絞り出し、威圧してくる御影。
「キエエエエェェェイ!!」
一瞬、その姿を見て思い出した。
いや、思い出してしまった。
何せ、今日は10月10日。
7年前、この身に刻まれた、敗北記念日。
そう、思い出してしまったのだ。
怒号を上げ、自分を威嚇しながら歩み寄る、あの猛毒親父の姿を。
自分を殴り、蹴り倒す、あの奇獣の恐ろしい顔を。
その記憶は、澄み渡る空気中に紛れ込んだ、とても小さな黒い点。
しかし、その点に注意すればするほど、意識がそこに囚われていく。
こちらの意識を侵食するように、膨張していく黒い点。
すると突如、点を象る曲線がうねうねと揺らぎ始め、その揺らいだ曲線によって、毛むくじゃらの四肢が紡ぎ出されていく。
瞬き程の間。
その黒い点は、あの頃の自分が見ていた奇獣の形に変貌した。
黒い卵の殻を破り、雄叫びのような産声を上げる奇獣。
その再びの奇獣との遭遇に動揺していると、それは、こちらに容赦なく襲い掛かった。
瞬間、額を叩き押されるような衝撃で、思わず顎がぐいと上がる。
一気に視界に拡がったのは、高く、広い、体育館の天井。
気付けば、乾いた音と、御影の雄叫びが、そこにこだましていた。
「スウゥゥァァアアアアアアア!!!」
視界の隅にチラついたのは、さっきの主審の腕の動き。
首をひねって目をやると、禿山のような頭の上に、山頂制覇の証みたいな旗が、威風堂々掲げられている。
ハッとして、見回す。
掲げられた旗は、右、左、奥に、合計3本。
つまりこれは、満場一致の「一本」。
そこで、状況を掴んだ。
開始早々、御影に「面」を打ちこまれたのだ。
再び、7年前-
10月10日 21:15
「この木刀、俺に歯向かうために買ったのか?」
気持ち悪い植物の芽のような爪が生えた足で、ドカリと木刀を踏みつけながら、どちらが勝者かを誇示する奇獣。
決死の闘いの後、待っていたのは敗北だった。
奇獣に斬りかかろうと踏み出したその瞬間、逆に奇獣に顔を殴られ、自分の太刀の勢いも相まり、前のめりに倒れてしまった。
六畳一間に、ビシャリと飛散した鼻血。
ジャングルのあちこちに生まれた、小さな赤い水溜まり。
脳震盪が引き起こす、激しい視聴覚の揺らぎ。
「残念だったなあ?」
奇獣を見ると、心なしか、その体躯が一回り傲慢に膨らんだように見える。
自分の闘志を撥ねつけ、返り討ちにしたことに満悦しながら、不敵な笑みを浮かべる口元。
その口が、再びねっとりと開き始める。
「今日はオメエの、敗北記念日だ。オメエの体に刻んでやるよ。一生歯向かう気がおきねえようになあ」
そして、背中に生まれた、ひんやりとした感覚。
倒れた自分の腰裏に跨った奇獣が、自分のTシャツをめくり上げ、禍々しい牙のような何かを、露わになった自分の背中に突き付けたのだ。
「今日は、10月10日だったなあ?」
「ハぁぁああアアッッ!?!ハァアあぁぁぁぁァァアアアアアアッッッッッッッ!!!!!」
再び、約半年前-
10月10日 15:01
走馬灯。
そうしたものは、実際にあるのだと思った。
御影の「面」を浴びた瞬間、あの日の出来事が脳裏にありありと蘇ったからだ。
まるで、御影の太刀が、何らかのスイッチをオンにしたかのように。
もしかしたらそれは、7年の歳月を一瞬で巻き戻すスイッチだったのかもしれない。
御影の太刀と、7年前の奇獣の牙が、そこに重なり合ってしまったからだ。
そして、奇獣が自分に放った言葉すらも。
「今日はオメエの、敗北記念日だ」
そんなワケ、あるか。
瞬間、渾身の力を手に込め、怒号を上げながら面を打ち返す。
するとそこに、空気が裂けたかのような、巨大な破裂音が鳴り響いた。
「ソァアアアアアアアア!!!!」
直後、その衝撃で、床に尻もちをつく御影。
・・・やった。
御影を、奇獣を、倒したのだ。
しかし、奇妙だ。
何故か、体が全く動かない。
自分の顔の横にあるのは、さっき見た禿山。
カラリと虚しい音を立て、試合場に落っこちた、山頂制覇を示す旗。
何だ?何かが、おかしい。
「止めないか、君!」
耳に突き刺さる、甲高い制止の声。
体の動きを奪い取る、主審からの羽交い絞め。
兜の奥にある顔に、困惑を浮かべる御影。
「まだ、仕切り直してないだろう!反則だぞ!」
そうか。
我を忘れ、御影に斬りかかってしまったのだ。
面を浴び、一本取られた後にも関わらず。
「両者、開始線に戻って!副審2名、こちらまで」
もはや、前を見る気にすらならない。
そこにいる御影を、直視できない。
「2本目、やらせますか?私は赤の悪質な行為による、白への一本追加が妥当かと思いますが。何か異議はありますか?」
ガックリと、下に落とした目線。
その先には、真っ白な開始線。
脱力しかけた両足を、儚い力でそこに揃える。
まるで、判決を下される瞬間の、被告人のような気分で。
「赤の反則行為により、白に一本!勝者、白!」
判決は、再びの敗北。
少し生まれるのが遅かった、炎のような紅い闘志が、色褪せ、毛穴から吐き出されていく。
そして体に残ったのは、途轍もない空白だった。
5ヶ月3週間前-
10月15日 11:53
その時、火星を見ていた。
もっとも、天体望遠鏡でそれを眺めるという意味ではない。
奇妙ではあるが、1メートル先の空中に、火星が浮いているのだ。
潤いがまるで無い、その乾き切った地表。
長年もの間、隕石を被弾することによってそこに生まれた、無数の窪。
その、火星の中央。
そこに、何者かの棺が置かれているようだ。
棺と言えば、ミイラなんかが収められた、古代エジプト文明のそれが頭に浮かぶ。
しかし、そうした棺が、裾に近付くほどに幅が狭まっていく形状であるのに対し、この火星の棺はその逆だ。
裾の方に近付くほどに、その幅は、むしろ拡がっていく。
拡がった裾には、棺に設けられた通気口のような黒穴が、ポンポンと二つ。
その先の地表に引かれた、棺の排水管のような溝の周りでは、灰色がかった草むらが、左右対称に生え茂る。
乾いた地表と、数多の窪。
火星の遺跡と、見慣れぬ棺。
並ぶ二つの黒穴と、左右対称に生え茂った草むら。
それらを観察していると、突如として全ての位置関係が歪み始め、草むらに挟まれた排水管風の溝の先に、楕円形の亀裂が生み出された。
その亀裂の内側には、黄色がかった白い岩肌が見える。
すると、その亀裂の内側から、聞き覚えのある声が発された。
「それでは、部長を発表する」
その火星は、間晋経政高校剣道部、木成顧問の顔だった。
「金堂 大志。皆、拍手して」
38個の手が奏でる拍手の音が、稽古の後の剣道場に響き渡る。
部員全員が正座して列をつくる中、その対岸で、木成の隣に鎮座している金堂。
金堂は、ふてぶてしい表情でこちらを見て、一瞬ニヤリと笑顔を浮かべた。
「えー、ということで。金堂を部長とした上で、皆で力を合わせ、新しい剣道部をつくり上げていくように。金堂、皆に一言もらえるか」
「押忍。まずは、こうして選んでいただきありがとうございます。自分は転校生の身ではありますが、間晋経政の剣道部を日本一にしたいという思いは誰にも負けません。これから、皆で切磋琢磨して強くなっていきましょう」
その金堂の話を右から左へ流しながら、剣道場の窓の外を彩る、紅葉したイチョウの木々をぼんやりと眺めていた。
金堂が、自分の方に声を向けるまでは。
「"スポーツマンシップに則って"、強くなっていきましょう」
その瞬間、窓の外のイチョウが、瘴気を吸ってその葉を妖しく色づかせる、歪んだ世界の木々に見えた。
皆が立ち上がり、木成が更衣室に入った瞬間を見計らい、金堂の肩を横から捕まえる。
「おい、金堂」
「え?」
「さっきの何だよ?」
「何だよって?」
「スポーツマンシップに則って、強くなっていきましょう。これ、この前、反則負けした俺への当てこすりだよな?」
「・・・」
「正直に言えよ」
あくまで、自分と目を合わせようとしない金堂。
しかし、その一方、金堂の肩に少しづつ力が入っていくのが分かった。
その隆起した筋肉が、肩を掴む自分の手を、少しだけのけぞらせる。
「なら、お言葉に甘えて正直に言わせてもらうけど。お前こそ、あれ何だ?喧嘩じゃないんだぞ?」
「・・・喧嘩のつもりでやったんじゃないよ。あれは・・・」
「あれは?」
「あれは、気持ちが空回りしたんだ」
「ははっ、気持ちが空回りって。お前、本気か?」
そこで、やっと金堂が自分と目を合わせた。
その細い両目に、ありったけの侮蔑と嘲笑を浮かべながら。
「一本取られた後に斬りかかるなんて、お前の気持ちは大したもんだなあ?」
窓の外には、風に吹かれ、妖しく色づいた葉を震わせる木々。
その震えによって、葉にこもっていた瘴気が大気中に放たれ、みるみるうちに剣道場をも侵食していく。
そしてそれは、毛穴から自分の体内に入り込み、精神を危うい形に変容させた。
「おお、俺の気持ちは大したもんだろ?」
稽古後の弛緩した空気を一変させる自分の声色に、不穏な何かを感じ、徐々にこちらを向き始める他の部員たち。
「お前も味わってみるか?」
気付いたら、剣道場にドサリという重い音が響き、金堂の尊大な顔が目の前から消えた。
左手にビリビリ走る、非日常的な痛み。
それは、金堂の骨と歯に、拳がぶつかった衝撃。
「逢条!何やってる!?」
スーツ姿で更衣室から現れた、木成の怒号。
その怒号で、ハッと我に返った。
激情に駆られ、金堂を殴り倒してしまったのだ。
顔を抑えながら、床でうずくまる金堂。
抜け落ちて転がった金堂の白い歯が、剣道場の床色に、不穏な異彩を灯している。
その光景に圧倒され、固まっている部員たち。
恐らく、部長になれなかった腹いせに、自分が金堂に絡み、一方的に顔面を殴打したと思っているのだろう。
夏の熱が抜け切った風が、冷たく、虚しく頬を撫でる。
その風が、自分の重いため息と混ざり、道場の床に沈下していく。
それは、剣道部を退部になった前日の出来事だった。
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