初恋

透夜珀玖

 夏が嫌いになったのは最近のことだ。

 大好きな人が死んだ。海斗が死んだ。それも呆気ない死だった。

 最近名前をやっと知ったくらいだけど、それでも正真正銘、私の初恋だった。そんな彼がこの世を去って以来、私は夏が嫌いだ。何より、海が大嫌いだ。

 幼い頃は違ったのかと言われれば、別に、夏も海も嫌いじゃなかった。けれど、特別好きでもなかった。

 大体の子供が喜ぶ夏休みにも、プールにも、私は魅力を感じなかった。感じられなかった。

 そんな私は、歳を無駄に重ねた。習慣かのように周囲を見下して、いつの間にか私はどこかへ行ってしまった。

 そんな私を救ってくれた海斗は、もうこの世にはいないんだね。


 夏休みも終盤に差し掛かったある日、ベッドに横になってあくびをしていると

 「あんたも手伝いなさいよ」

 とドア越しに母が言う。

母はそのままおばあちゃんが経営する海の家に妹の渚を連れて行った。

 高校一年生の渚は、夏休みになると海の家を手伝いに行く。

 私も以前まではそうだった。

 けど、今は行きたくない。

 ううん、きっと行けない。

 それは、海斗のことを思い出してしまうからで。

 母は海斗のことを「幻覚でも見たんでしょ」なんて言ってちっとも信じてくれやしない。

 仕方ないことでもあった。ニュースにはなっていないし、他に目撃者はいなかった。

 でも、確かに私は見た。

 おばあちゃんの手伝いをさぼっていた時に、海に落とされる海斗を。

 五人ほどが海斗を囲って、ひとりが思いっきり突き飛ばす。

 それを見て、海斗の苦しむ姿を見て、周りはケラケラと笑っていた。

 直後、海斗はあっという間に私の視界から消えた。落ちたときに水を飲んでしまったのだろうか、海斗が助けを呼ぶ声は聞こえなかった。

 死んだんだ。

 迷わず悟った。

 周りの大人は誰も信じてくれなかった。

 よくその話は聞くけど嘘だから、と見事にあしらわれてしまった。


 海斗のことを思い出しながらうとうとしていると、突然固定電話が廊下でけたたましく鳴り始める。それを面倒だと思いながらも受話器を取ると、

 「助けて」

 と電話口から妹の焦る声が聞こえてきた。面倒なんて感情はすっかりと忘れて、身体中から汗が噴き出る。

 けれど、すぐに通話は切れてしまってツーツーという音が家中に響いた。

 いてもたってもいられなくなった私は、部屋着のまま家を飛び出す。

 海なんて二度と行かないと思っていたけど、妹のSOSよりも自分を優先する気にはなれなかった。

 家を出るや否や、待ち構えていたように私を睨みつける日差しに睨み返してバス停まで走る。

 息は荒く、空気を吸うたびに鼓動が早まっていく。

 絡まりそうになる足でようよう前に進むと、運よく遅延してきたバスが私を拾ってくれた。

 ≪大丈夫?≫

 ≪何があったの?≫

 ≪なんでもいいから返事して≫

 バスは私の荒い息も乗せて走り出した。

 水難事故に遭ったのか、強盗に出くわしたのか。

 嫌なことばかりが頭をよぎる。

 文字を打つ手は震えていて、ついに何も打てなくなった。

 降りるバス停を通り過ぎようとしたところでボタンを押した。

あまりにも直前に押したから、運転手に睨まれながらバスを降りた。

申し訳ないとは思ったけれど、それは二の次なわけで。

 家を出て感じた日差しは、心なしか少しだけ勢いを弱めて私を包み込むみたいだ。

 自分が海に向かっているなんてことも忘れて裏口から店に顔を出すと、おばあちゃんが驚いた顔で私を見た。

 きっと、私が海に来ることなんてないと思っていたから。

 「ごめんね、ちょっと腰をやっちゃって。大したことじゃないんだけどね」

 「わかった、ゆっくり休んでて。お店のことはまかせて」

 「ごめんね、汐音ちゃんは海が嫌いなんでしょう?」

 「いや、別に」

 「隠さなくていいのよ。誰にでも好き嫌いはあるんだし、海に来なくても人は生きていけるからね」

 随分と極端だったけど、その通りだった。

 海と関わらずとも今のところ日常生活に支障はないし、むしろ水難事故に遭う確率もうんと下がるわけだし。

 けれど、おばあちゃんのその言葉になんだか胸が痛んだ。

 お店の手伝いは久しぶりでも動きが覚えていた。

 渚が接客、私はキッチンで調理。

 大変ではあったけど忙しくてあっという間だった。

 海斗のことを考えることもなかった。

「そろそろ休憩したら?」

 ピークが過ぎたところで、おばあちゃんの提案で私から休憩をもらうことになった。

 「ねぇ、この海で事件ってあった?」

 おばあちゃんなら何か知っていると思って、サイダーをラッパ飲みしながら横になっているおばあちゃんに話しかけた。

 おばあちゃんは眉を寄せてうんと考えながら、

 「なかったと思うけどねぇ」

 と呟いた。

 やっぱり私の幻覚だったのかもしれない。

 ちゃんと見た気がしたんだけど。

 「事件にはなっていないけど流されたってのは何回かあったね。みんなすぐに見つかったけど」

 見つかった?

 それは生きていたってこと?

 よくわからないまま、咄嗟に聞き返していた。

 「その中に海斗って人はいた?」

 「さぁ、名前までは分からんねぇ」

 「そっか」

 「なんだ、汐音ちゃんの初恋かい?」

 「違うよ、別に、そんなんじゃないよ」

 おばあちゃんはふふっと微笑むと、ゆっくりと起き上がった。

 まだ寝てなきゃ、と慌てて支える私に、大丈夫と言わんばかりの微笑みを見せた。

 「それはきっとおじいちゃんだね」

 おばあちゃんはおじいちゃんと映った写真に目を向ける。

 貝殻で装飾されたフレームに入るその写真は、一段と輝いて見える。

 「でも、海に落ちたんだよ。流されたんだよ」

 「あぁ」

 おばあちゃんは冷静だった。

 時折、全てを知っているような目で私に微笑んだ。

 「おばあちゃんは海斗の何を知ってるの?」

 「全部知ってるよ」

 夫婦だからもし仮に海斗がおじいちゃんならある程度のことは知っているはずだし、きっと過去のことも知っている。

 海斗のことは知りたかったけど、私が好きになった人がおじいちゃんの若い頃だなんて知ったらどんな感情でいればいいのやら。

 「聞きたいかい?」

 小さくうなずく私を見て、おばあちゃんは続けた。

 「汐音が見ているのは私の過去だね」

 「おばあちゃんの、過去?」

 「そうね。おじいちゃんが海に落とされた話は本当だし、流れたのも本当」

 「でも、その人は死んだんだよ。私は見たの」

 「ああ、確かにおじいちゃんは死んださ。けど、水難事故じゃなかったろ?」

 それはそうだ。

 おじいちゃんは病死だった。

 けど、海斗は。

 「最近お客さんもよく言っているわ。おじいちゃん、成仏できてないんだね」

 「そりゃそうだよ、大好きなおばあちゃんを残して逝っちゃったんだから」

 お上手を言うようになって、と目を潤わせながら祖母は微笑んだ。

 「おじいちゃんと私はね、おじいちゃんが海に落ちたときに出会ったの。流れてきたおじいちゃんを私が介抱して、その縁で結婚したのよ」

 私は口をあんぐりと開けていたと思う。

 おばあちゃんは構わず続けた。

 「その時代はお見合いが主流だったから、おじいちゃんが一緒に逃げようって言ったの。でも、行く場所なんてなくて。それで拾ってくれたのがこの海の家だったってわけ」

 聞いたことがなかった海の家誕生秘話を聞いて目が潤んだ。

 「それで、海斗くんは優しかったかい?」

 優しかったけれど、優しかったというのはなんだか恥ずかしくて、

 「このお店、守んなきゃね」

 と言い残して表へ向かう。

 もっと早く来てよ、と妹には口をとがらせて言われたけれど、私はそれに微笑むだけだった。

 海斗は優しかった。

 お店をさぼった私に『無理に頑張る必要はないんだよ』って言ってくれて、人気のない場所で広大な海海を眺めて時間が過ぎるのを待った。

 それから一週間、毎日同じ場所に通って日が暮れるまで海斗と語り合った。

 たったの一週間だったけど、いつの間にか私は海斗に引き寄せられていた。

 きっと、はじめから決まっていたんだと思う。

 無理に頑張る必要はない。

 その一言が、その考えが、私には強く響いていたから。

 別に、何を頑張って生きているのか、どうして生きているのか。そんなのもわからなかったけど、きっと頑張っていたってことなんだと思う。

 あの言葉が響いたのは確かだったから。

 突然おばあちゃんから告げられた海斗がおじいちゃんだという推測は、不思議にもすんなりと受け入れられた。

 どうしてかわからないけど、なんとなく。


 この世には確約された未来は存在しない。

 全てが突然だった。

 祖母は私を見て笑っている。頬を涙でいっぱいにして、赤く腫れあがった目の私を見て。

 祖母はなんとも言わない。

 ただ私を見てずっと微笑んでいた。

 沢山の色鮮やかな花に囲まれて、見慣れた微笑みをより一層輝かせながら。

 「ほら、行くよ」

 母に声を掛けられて立ち上がろうとするも、足が言うことを聞いてくれない。

 こんな孫で、ごめんね。

 「なに言ってんの」

 祖母の声だ。おばあちゃんだ。

 優しくて温かくて、海斗、いや、おじいちゃんを虜にしたであろう声。

 「あんたは純粋でいい子だよ。だからこの先苦労するだろうね。でもね、おばあちゃんはあんたのこと信じてるからね」

 これは幻聴じゃない。

 そう、だよね。

 「幻聴じゃないよ、ほら、もう時間だわ」

 「やめてよ、まだずっとずっと……」

 「お姉ちゃん、もう……」

 気を遣いつつ、時間だよ、と言いたげな渚を前に私は声を上げて泣くことしかできなかった。

 「まだ……まだ……」

 「また会えるわ」

 もう会えるわけがないよ、と言いかけて口をつむる。

そのまま渚に支えられて立ち上がった。

 

 それから十数年が経ち、私はあの場所に立っていた。

 「ママ、メロンソーダひとつおねがいします」

「うん、わかった」

 来年の春に小学生になる愛娘の海音が受けてきた注文に、冷凍庫を開けながらもう一度海音に目をやる。

 時折、海音の背に幼い頃の渚の姿が見えた。

おじいちゃんとおばあちゃんの思い出の場所は家族の憩いの場だった。

夏になると一家が集合してBBQをしたり花火をしたり。

 いつの間にか、欠かせない場所になっていた。

 私が海斗に会ったことは嘘じゃなかったんだって、今になってもっと強く思うようになった。

 海斗の噂は、今も語り継がれている。

 今では女の人と微笑み合っているとの話も。

 その話を聞くたびに、海の家誕生秘話を聞いたあの日を思い出して胸が熱くなる。

 けどね、おばあちゃん。私はやっぱり海が嫌いだよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初恋 透夜珀玖 @ink__hk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画