人形狂い 1

 霧雨に煙る教会の鐘楼を遥かに見据え、天使は墓地の外れに立ちつくしていた。たったいま、ひとつの人形を壊してきたばかりであった。自分達に言い渡される仕事として決して珍しいことではないのだが、血にまみれた白い装束が忘れかけていた嫌な仕事を思い出させて気に障った。……普通ならばドールを処分するときに血に汚れることなどありえないのだ。


 失ったはずの翼は雨に濡れて重く、このどうしようもなく不愉快な心のざわつき、心の存在までもが不快であった。自分も『破壊されるべき心を持ったドール』なのだと、痛感せざるを得ない、遠く耳の奥であの声が響いている。その声、その言葉、あの男の顔、瞼の裏に浮かぶ憎むべきさまざまな記憶を振り払うように目を閉じて、奥歯を噛みしめた。


 もうどのくらいここでこうしているのだろう、すっかり濡れそぼった短い髪から、雨の滴が涙のように伝う、出るはずもない、天使の涙……。馬鹿馬鹿しい。全ての人間を救えるはずなどない。全ての人形が神への冒涜ではない。ただ、救われるべき魂に接吻することすら許されないのは……、悔しい……のだろうか。



   ✽



 その男はもともと人形市場では名の知れた闇市のバイヤーだった。レイニアは人形を作ることが最も重要な産業だ。作られた人形はオークションにかけられ、国の内外の業者に卸される。正規のオークションでは卸せないようないわくつき人形や超一等級の人形を不当な方法で仕入れ、高値で売りさばくバイヤーによる闇市も勿論存在する。


 彼はまだ成人もしないうちに裏市場に足を踏み入れた。不法に仕入れられた上級の人形の競りを見てしまったのだろう。暗い闇市のなかに生業を見出だし、誰よりも人形に拘るバイヤーへと成長したのである。彼は人形につけられる値の高低よりも人形狩りに拘泥しているようだった。顔の美しい人形を拐い、ときには襲い、また主人を手にかけてまで奪った。艶麗なオートドールを掠奪することに暗い悦びすら感じているようだった。他のバイヤーと交流するわけでもなく、暗く、病的な彼を気味悪がって交流したがる者など実際いないのだが、常に一人きりで市場を彷徨っているような男だった。


 あるとき彼は恋をした。勿論美しいオートドールにだった。今まで拐ってきた人形達は確かに美しかった、『神への冒涜』と称されるのも頷けるほど精巧で、憂いに満ちた顔立ちで、優しく艶やかな雰囲気を放っていた。しかしながら彼の理想にはほど遠かったのだ。もっと強い瞳で、もっと愛らしい唇で……もっと、もっと、求めればキリがなかった。


 彼が『彼女』を見かけたのは娯楽街の中心に劇場を構える、人形歌劇団のショーウインドウの隅の方だった。ひとめ見て息が止まった。その瞳に心臓が凍ったかと思われた。愛らしい唇に、美しい肌に、顔立ちから匂い立つような色香に、華奢な肩に、細い腰に、形のよい胸に、滑らかで薄そうな手の甲に、彼女の全てに釘付けになった。理性と欲とが一瞬にして混じり合った。どうしてもこの人形が欲しい。競りなどに出さず、朝から晩まで舐めるように見つめて、手をとって隣に座らせ、自分だけを愛していると気が狂ってしまうまで言わせたい。指を這わせてオートドール特有の陶器のように滑らかなシリコンの肌を堪能するのも良い。淫らな声も顔も、独占したい。欲しい。隣にいて欲しい、自分の愛を受けて欲しい、愛して欲しい、笑って欲しい、自分にだけ、自分にだけ存在の理由を見出だして、ああ、欲しい、ほしいほしいほしい、欲しい………………愛して欲しい。


 彼のなかの純粋な恋情と物欲と性欲と、それを叶えることが難しいと判断するだけの理性と、淋しさと独占欲とがぐるぐるぐるぐる渦巻いた。どうにかなってしまいそうだった。もしも理性が消し飛ばされてしまったなら、一瞬で発狂し、計り知れないリスクを冒してまで、彼女と自分とを隔てる一枚のガラスを叩き割って連れ去っただろう、それで彼女に触れるなら、そこで警察に殺されてしまっても幸せな最期だったと思うことだろう。


 実際、その夜どのようにして自分の住処に帰りついたのかすらハッキリしない。寝ても覚めても彼女のことばかり考えるようになった。



 劇場の人形達というのは、みな美しく芸達者だ。そして絶対の安全が保証されている。普段は黙認されている闇バイヤーでも手を出すことはできない。その禁忌を破ればたちまち死罪である。言い換えれば、劇場というのは人形の聖域なのであった。聖域に守られてドールはさらに美しく器用になっていく。その空気感は、すれ違う人形達と肩がぶつかることすら許されないような、髪の毛の一筋も触ることが許されないような、緊張した神聖さをもって色と欲とが漂っている特殊な世界であった。あるいは彼もその特殊な神々しさに焼かれたのかもしれない。瞼の裏に焼き付けられた彼女の顔の美しさと、自分では手の触れられない聖域というジレンマに、まさしく身の焼かれるような苦しみを背負っていなければならなかった。



 彼はずっと人形ばかりを追っていたので、人形同様、欠落した道徳観と乏しい感情の持ち主であった。感情的でないものの方が美しく、感情に支配されるなど最も恥ずべきだとすら考えていたかもしれない。彼のテリトリーである娯楽街に砂利のごとく転がっている安物小説の色恋に溺れることなど狂気の沙汰だろう。皮肉にも、その思想が更に彼を打ちのめしたのだった。馬鹿にしていたものにここまで苦しめられようとは……。その苦しみの渦中の自分がこんなにも惨めだとは……。


 住処は娯楽街の北に広がる貧民街の一角だが、華やかな花街を抜けて、暗く湿った、ごみ溜めのようなスラムに帰っていく自分は惨めだった。その苦しみを晴らさんと人形にすがる自分も、そのときは快感をも感じるが、あとになってみれば惨めだった。仕入れた美しい人形を競りにかけ、高い値がついても、金の使い方もわからず、物価の高いこのレイニアではそんなものには意味などなく、また同じところに帰って寝るのだと思えばまた惨めだった。雨に閉ざされた呪われたこの国に住まっているのも、毎日毎日雨に打たれて冷えていくこの躯も、今となってはすべて惨めだ。……いまはただ、願っても手に入れられない陽光のようなあの人形を欲する気持ちだけが、濃く煮詰まっていく。思考は堂々巡りで、脳髄が熱をもって痺れているような、はっきりしない頭で夜も昼もなく、動けないまま目を開いていた。煮詰められていく不純な気持ちが、べたべたと粘度を増して心のなかに不快に張りつくのを感じていた。



 夜、その日は雨足は弱く、どちらかといえば濃霧に近かった。あの人形を恋うあまり、彼は夢遊病者のような足取りで劇場へ向かった。空気にまでカビが生えたような匂いの貧民街を抜け出して、仕事を目的とせず娯楽街に入る。心なしかいつもより緊張していたかもしれない。聖域のショーウインドウに彼女の写真と、ショーの宣伝文が、けばけばしい配色で書かれ何枚も貼られていた。それによれば彼女はロビンと呼ばれる花形の歌姫ドールらしかった。そのチラシですらまるで宗教画のように神々しく、崇拝に値すると彼は本気でそう思った。ショーの開始時間からもう一時間弱になる、建物の中に入ることは実際簡単なのだが、職業柄のやましさからやはり気が引けて、濡れ鼠のような体裁をいとわず、ショーウインドウのビラに張りついて穴が開くかと思われるほど長いこと見つめた。


 家で彼女を想っているより何千倍も幸せな気がした。たとえ俺が卑しい害虫でも、ここにいれば目線が合うことはないが、彼女といられる。触ることは叶わなくても、太陽の光を浴びることができる……。


 彼は実際幸せだった。貧民街での惨めさが、写真のなかの彼女の笑顔に溶かされていくようだった。たとえ写真でも彼女の放つ光は太陽だった。ねばねばと心に巣食う不純さの気持ち悪さは変わらなかったが、それでも幾分救われた気がしたのだ。



 しばらくは仕事には目もくれず、毎夜毎夜劇場に通った。勿論仕事など、できるわけがなかった。彼女が視界に入らないときの彼はまるで廃人だった。焦点の合わない目に生気の抜けた顔、その血色の悪さといったら。もとより人を寄せ付けない、ある種病的な雰囲気を纏っている男ではあったが、さらに何者をも寄せ付けないような気を発していた。奴はついに気が触れた、バイヤー連中の誰もがそう思ったのだった。美しい人形を求めるあまり気が狂ったのだと、きっとロビンに手を出して死罪にされるのだろう、と。


「いまに見ていたまえ、彼は禁忌をおかすぞ」


そう声に出して言う者さえあった。



 しかしながら彼がほんとうに狂いの人となるのはこれからで、そしてロビンを手にかけたのは彼ではなかった。



 ある夜、この日はバケツをひっくり返したようなどしゃ降りであったが、彼はまた熱に浮かされたような足取りで、傘をさすことも忘れ、降られるのにまかせて劇場の前にやってきた。今日はロビンの公演の最終日であるそうで、この雨のなか劇場には多くの観客が詰め掛けているらしい。やはり疚しさというものは容易に拭いきれるものではないから、いつもショーが始まって一時間ほど経ってから着くようにしている。早く彼女に会いたいというのは勿論あるのだが、入るのを躊躇うのに正当な理由が欲しいのだった。廃人同然に呼吸を繰り返すだけの生活の中、そんなふうに自己の保身に知恵をまわしているのにまた嫌気がさすのだが、自分が女神同然に崇めている人に近づいていくほどの度胸がないのだ。例のごとくショーウインドウに張りついてポスターを眺めるしか、今の自分には許されていないのだと自分に言い聞かせた。いままでの仕事ぶりからすれば考えられないことだ。


「旦那、いつもそこでそうしているが、なぜ入らないのさ、寒くないのかい、そんななりで」


 気づかないうちに大きな傘を差した女が側に立っていた。その後ろに二人ほど女が付き従っている。暗くて顔は見えないが、嗅ぎ慣れた高級人形の匂いがした。しかし話しかけてきたのは人間の女だ、ドールを従えているところをみると、どこぞの見世の女主人かと思われる。


「それともなんだい、わたしのとこの人形を拐う算段かね、闇バイヤーの旦那」


女は少し低い声でからかうような調子で言い放った。別に敵意があるわけではなさそうだった。


「この劇場の主人か。……確かにおれはバイヤーだが、裏の人間だとなぜわかる」


「寝ぼけたことを言わないでおくれ、あんたこの界隈じゃ有名人だよ。この間もどこぞの富豪の寵愛ドールを外国の商人に売りさばいていたねえ……、単身で襲撃、皆殺しってね、新聞に載ってたよ。とんだ人形狂いじゃないか。アタシと同じ匂いがすると思っていたよ。そんなアンタが毎晩通ってくるんだから驚いたもんさ、……それで、なにをそんなに熱心に見ているんだい」


「心配せずとも手は出さない、おれも死にたくはないからな……」


 彼は、雨粒の伝うショーウインドウ越しに、彼女のポスターを指でなぞった。どんなに焦がれても、命を捨てる踏ん切りがつかない。そもそも彼は人形たちにとっては天敵なのだ。害虫風情が手を触れていい代物ではない。


「……旦那ほどの闇売人となれば、単騎でここのものを皆殺しに来ることもあり得るかと思ってね、ちょっと探りに来たのさ。だが、……その様子だと、」


「馬鹿にするな、劇場の人形に触らない掟くらいはわきまえている」


 彼は女主人がなにを言おうとしたのかを察してしまった。慌てて言葉を荒く重ねた。この感情の名を他者が声に出してしまったら、その想いを封じ切ることができなくなる気がしたのだ。


「ロビンのショーは今日が千秋楽さ。しばらくは休んでもらって、そこからはまだ考えちゃいないが……」


「邪魔したな、おれも今日限りだ、もう来ないから安心しろ」


 女主人はまだ食い下がったが、ここで彼女の前に引き出されてしまったらたまらないと思った。こんななりでは彼女に見られたくない、この卑しき姿が彼女の瞳に映るかもしれないことが耐えきれなかった。そんなことは絶対にあってはいけない。視線が交わらないからこそ無邪気に彼女を思えるのだ。彼女にどう思われるかを考えなくていいからこそ、……。



 そのとき二発の銃声があたりの空気を劈いた。





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