つきにむらくも
雨が降っている。音はあまり大きくない、燭台の炎に似た柔らかな雨だ。僕は今しがた化粧を施し終えた人形の首を箱に納めて、外套を羽織った。
「また花街へゆくのか?」
同僚の一人が尋ねる。
「いや、ねぐらへ帰るだけさ……」
薄笑いで答えた僕への、嘲笑を帯びた同僚たちの忍び笑いが胸の辺りをギュッと掴む。彼らは貧民窟出身の僕を雑巾かなにかだと思っている。仕方がない、生まれが低いのがいけないのだから。
レイニアという国は小さな国だ。3時間ほど歩けば国の端から端まで行くことができてしまう。仕事場を出て、北にまっすぐ歩き、花街を突っ切って更に北へ歩くと、貧しい人々の住まうスラムに辿り着く。いろいろな人が穴ぐらのような場所で寝起きし、生活をしている。この国には人形しかないから、お金がなければ食べ物など手に入らない。絶えず雨に閉ざされているので、僅かな麦や野菜がかろうじて採れる程度で、国の人間がいくら少なくなったとはいえ、全員を養う事は出来ない。食べ物が渡るのは、人形作家たちの元締めのような富裕層ばかりで、物価は高いまま、貧富の差は埋めようがないほどに開いている。
僕は15のとき、母に家を追い出されて、単身、人形師のもとに修行に入った。人形を作れば金持ちになれると思ったからだ。母も、ここにいては僕まで湿気た人生を歩むのだろうという危機感から、追い出したのだと今では思う。そして、晴れて人形化粧師を名乗ることが許された朝、母に会いに行くと、そこはすでに誰も住んでいなかった。隣人に聞けば、母は僕を追い出してすぐに亡くなってしまったそうである。遅かった。……僕はなんのために人形師になったのかわからなくなった。もう誰もいないのに、僕はそこから動けなかった。僕が幸せにしてやるはずだった母、一生をずっと不幸なまま、独りで死んでいったかわいそうな母……。
下宿を引き払って、すぐさま実家(であった粗末な小屋)に居着いてしまった。母への未練だ、我ながら馬鹿馬鹿しい。
『おはよう、プレイボーイ』
ある朝同僚に、そのように声をかけられた。なんのことだか全く意味がわからなかった。稼いだ金はみんな食費と、服、そして交際費にすべて消える。贅沢など、ねぐらに帰ってから一杯酒を飲む程度のことだ。色恋など、まったく心当たりがない。
『とぼけるなよ、昨日早足で花街に入っていっただろ?』
『とんでもない、あれは家に帰る途中で……』
『家? 花街には娼館と劇場、その向こうはスラムだぞ?』
『ああ、いや、その……』
隠しているつもりはなかったが、人形師の家に生まれた子息はみな圧倒的に上流階級の暮らしをしている。その中にはスラムの民を違う生物だとさえ思っている者もいる。言わないほうがいいに決まっていた。
しかしながら、所作や物言いの端々に育ちというものは出てしまうもので、どんなに取り繕っても、僕がスラムの出だということは皆薄々感づいていたのだろう。
その日から僕は、はっきりとした虐めを受けているわけではないが、明らかな嘲笑を浴びせられる対象となった。15から育ててくれた親方は、そのようなことはしなかったのに、同じ階級の者でも、こうも違うか。
独立できたならもっといいのだろうが、化粧師はよほど名を上げない限りは、自力では食っていかれない。フリーの仕事はみんな一流職人に流れてしまうからだ。だから僕は、いまの職場でおとなしく嘲笑を浴び続けるしかないのだ。
そんな絶望を抱いて家路を急いでいたとき、彼女に出会ったのだった。
その夜は珍しく雨があがっていて、かわりに夜霧が出ていた。空も晴れて、何年ぶりかに見る月が街を見下ろしていた。花街の娼婦人形たちもみな、月を見に外に出たり、窓を開けたり、とにかく浮かれていた。
「あぁ! …お兄さん、わたくしのリボンを拾ってくださらない?」
上から女の声が降ってきた。そう言われて足元を見回すと、夜雲のような綺麗な紫の、シルクリボンが落ちていた。
「これかな?」
「そうそれよ、待って、取りに行くわ」
毎日ここを通りはするが、店に入ったことはないので、娼婦ドールというものがどのようなものだかよく知らなかった。劇場の人形と違うのは、大きなリボンをに髪に結んでいるかどうかだという。これがその、リボンなのだろうか。
「ありがとうお兄さん」
慌ただしげに出てきた少女は、紛れもない人形の匂いがした。作っていると、人間と人形の見分けが瞬時につくが、ここまで高等ドールだと一般の人間は、生身だと思うんじゃないか。
「君、……ずいぶん高等ドールのようだけれど、なぜ?」
「あら、貴方も人形なの?ずいぶん不躾だけれど」
生意気そうな表情で聞き返した彼女の仕草に、思わず吹き出した。彼女も笑い出す。僕らは結構長い間笑い合っていた。そう、人形というのは、心が欠落しているから、眺めて楽しむものにしかならない、とされている。けれど今の僕も、心がないようなものだから、人形かもしれない。
「ねえ、お兄さん、わたくしのお客さんになってくださらない?こんな素敵な夜に売上なしなんて、やりきれないわ」
「いいけれど、あまりお金はないよ、僕は」
「なに言ってんの。安くて、後腐れなくて、病気もないのが人形娼館の売りじゃない。生身の女と一緒にしないでよ」
花街の女の人というと、たっぷり貢がなければいけないという固定観念があったものだから、セールストークモードに入られると、身構えてしまう。生身の女の人たちが、『人形じゃないのよ』と言うように、彼女は生身と同じにされることを嫌がった。不思議だ。
僕を男にしてくれた人は、『人形じゃないんだから雑に扱うな』と僕のことを散々説教して、結局疲れていたのに一睡もできなかったのを思い出した、それ以来僕は怖くて誰も抱けない。下手くそだと言われるのが怖いのだ。
「やだ……、もしかして、いい男なのに」
「いや初めてじゃないんだ、勘違いしないでくれ。だけど、少し疲れていて……、通常の客としてじゃなくて、話し相手として君を買ってもいいだろうか」
「えっ、」
彼女の顔がパッと明るくなった。
「わたしね、雨が上がった晩の月を見るの、これで十回目よ」
通された部屋に入ると、良い薫りの香が焚かれ、娼館というよりは手頃な下宿という感じがした。僕のねぐらよりずっと上等なことは確かだ。
彼女は窓を開けて、西の空に傾きかけた月を仰いだ。
「僕は……何度目だろう、僕だってそのくらい見ててもおかしくないのだけど、初めて見たような気がする……」
「わたしも、十回目なのに、初めて月を見たように感じるの。……なぜかしら」
柔らかく笑う彼女の顔は、美しかった。人形というのは、美しさの結晶であるように作られている。だから、美しくて当然なのだが、そういうのではない、なにか、神々しさに似たものを感じる。彼女の紫のシルクリボン、亜麻色の毛の流れに月光を浴びて、冷涼な神気がヴェールのように彼女を包んでいるかのように見えた。
いま思えば完全に惚れてしまったのだった。
「……名前を聞いても?」
「エメ。お兄さんは?」
「セミュ、」
エメは気恥ずかしそうにはにかんだ。よく見れば瞳にはエメラルドグリーンのガラスが使われている。聡明さを感じる深い緑だ。
「名前聴かれたのなんて初めてだわ、」
「本当に?じゃあどうやって君を指名するんだよ」
「やだ、貴方ほんとになにも知らないのね?……本当は、私たち、お客さんとべらべら話してはいけないの。『客は女の形をしたものを抱きに来ているのであって、お前らの話を聞きに来たんじゃない』って、最初のママがそう言ったわ、だから、人形娼館に指名制はないのよ」
「……誰を抱いても、同じだから、か」
それは、僕たちにとっても、冒涜的な言葉であった。それでも客が、身体ではなく彼女たちを求めて来るのならば、こうやって普通に名前くらい聞き出して、指名くらいするだろうが、10回も雨止みの月を見るほどやっている彼女が、名を聞かれたことがないのだ。僕はますます、なんのために人形化粧師になったのかわからなくなった。
「エメ、僕は実は、化粧師の仕事をしているんだ。けれど、僕はなぜ化粧師になったかわからなくなった」
「そうなの?なぜ言ってくれないのよ、なら、アタシのお化粧してよ、他の人形のことなんかどうでもいいじゃない、ここに専属化粧師で入りゃいいんだわ、どうせ仕事が嫌になってヤケにやってこの辺フラついてたんでしょ?」
エメはすっかり砕けた口調になっていた、かえってそっちの方が僕としては話しやすくてよかった。
「別にそういうわけじゃないけれど……じゃあ次会いに来たら化粧してやるよ」
「本当に? 絶対よ? 男の人の次って嘘8割なのよね……」
「本当だよ、約束する。突然店に来て、君の名を告げたら、君の客にしてもらえるかい?」
「ええ、大丈夫よ。他の客はわたしに会いに来てるわけじゃないもの、明かりを消しちゃえば途中ですり替わったって気付きゃしないわ」
彼女との出会いはすごく大きかった。母に孝行してやろうと志した仕事も、母を失い、四六時中嘲笑を浴び、すっかり挫折しかけていたところに、僕の技術を喜んでくれる素敵な人形がいてくれる。他の客より近い距離にいてくれる、このどんなに嬉しいことか。
彼女は僕のことをどう思っているかは実際のことはわからない。やはり人形であるから、心がないのは大前提だ。それでもそれに近い感情を学習し、表情や声に出す。彼女はどの人形よりも高等なドールだ。素材が劇場人形とそう変わらないのだ。あんなうらぶれた娼館に、彼女の価値もわからない客しかつかないような娼館に、置いておくのは本当に勿体ない。
僕に金があれば、大枚を叩いて今すぐにでも身請けする。そうして仕事も生活も、もともと持っていないに等しいのだ、すべてなげうって国の外へ飛び出そう。僕だって人形師だ、専門が化粧なだけで人形のことはすべて理解している。彼女のメンテナンスは問題ない。
それから、彼女には毎週会いに行った。金がないので毎日は会えないが、会う度に、彼女に化粧をしてやって、子供がするように、歌を教え合ったり、些細な話でいつまでも笑ったり、頬を擦り寄せたり、夜通し踊ったりした。
幸せな恋人ごっこだった、僕にはこれをお金で買っている自覚があった。自分の食費や嗜好品を削って、彼女との時間を買った。
彼女は良き理解者だった。生身と違って、いろいろな基礎知識が既に与えられている高等ドールだから、どんな話をしても的確に返事をしてくれた。と思えばいたずらをしかけて笑うような、誰よりもお転婆な少女っぽいところもあったり、僕の職場の話をすれば、少々過激な報復策も当たり前のような顔色で提案してくれたりした。
いよいよ彼女が愛しくなってしまった。けれど僕にはお金がない、彼女を買えるだけのお金を貯めるには、彼女に会わずに、10年ほどがむしゃらに働く必要がある。そんなことが耐えられるだろうか。
『いっそ彼女を盗んでしまおうか』という悪魔的な考えが心に芽ばえたのは最近の話ではない。店を出て、家に帰るまで、雨に打たれながら、その欲求を必死に抑え続けてきた。けれど今日は、店に来てすぐから、『このまま彼女の手を取ってどうにか逃げられないか』という考えに囚われて、気もそぞろになってしまう。外套も脱がないまま、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
「……セミュ、聴いているの?」
「はっ、うん、……ごめん、何て言ったの?」
「最近、貴方が来るのがすごく待ち遠しくて、一週間がとても長いの。このまま……ずっと貴方といられたら、楽しいだろうなと思ったのよ」
限界だ。彼女の言葉が引き金を引いた。
「……エメ、少し外に出ようよ、同伴くらい許されているんだろう?」
「ええ、なかなか使う人はいないけど、街歩きくらい、普通に商売の一環だわ」
そうとわかれば話は早い、ああ、なぜ最初からこのようにしなかったんだろう。
仕事はもう、一段落つけてきた。今日までに来た仕事はみんなこなして、依頼元に送り返せるように箱におさめた。同僚にも、家に帰るだけだと言い続けてきた。これで後腐れなく、さよならだ。僕はこの狭い国を抜け出す、君を連れて、エメ。
東に抜けると、花の咲き乱れる、美しく暖かい国があると、取引先からきいたことがある。二人で往くならばそこが良いと前々から思っていた。
教会の敷地に入り、墓地を抜ければ、国境はすぐだ。こんなに簡単なことだった、こんなに単純な話だった。僕はこの国に囚われすぎていた。この国に降る雨はみんな呪いを孕んでいると伝えられている。僕達はみんな呪われている、こんな狭い国の狭い社会の中で、苦しさに喘いでいた。なんて滑稽なんだろう。おかしくて、涙が溢れてくる。
「セミュ、貴方、顔が怖いわ……なぜ泣いているの?」
墓地の真ん中で彼女が声を出した。今までずっと無言で歩いていたのにはじめて気がついた。
「なんでだろう、僕、いまとても幸せなんだ」
「……悲しそうな顔をしているわ」
「君もだよ、エメ」
なぜかエメもボロボロと泣きだしていた。……流れるはずのない、人形の涙だ。頬に口づけて涙を舐めた。しょっぱい味がする。
「怖いの、わたし最近おかしいのよ。貴方のことを考えると、胸がギュッと詰まって、痛いの。いつの間にか、涙が出ているの。ありえないでしょ?……これは、なに?」
「それは、僕も同じものを君に感じている。これはね、愛しさというものだ」
「……いとしさ…わたし、あなたがいとしいのね?」
「そうみたいだね、お揃いだ」
どちらともなく背に腕を回して、離れまいと、長い口づけをかわした。雨に打たれながら、真夜中の墓地で、君と抱き合ってキスをしている。変な話だ、下手な小説家だってこんな話は考えない、ロマンがないもの。だけどこれでいい。美しすぎると、現実味がないから。
「エメ、一緒に白宮に行こう。こんな国にいるから、僕らはいつまでも苦しいんだ……」
「……ここにはなにも、未練はないわ。どこまでも貴方に、ついていきます」
言い終わるか終わらないかというときに、彼女の笑顔が歪んだ。低く呻いて彼女が倒れ、同時にエメの首が外れた。
「……っ……エメ…」
「貴様か、この人形を誑かし、心を植え付けたのは」
低い女性の声が背後から聞こえた。腰が抜け、地面にへたり込んだ肩になにかが突きつけられている。
「こころ……?」
「なんだ、知らぬのか。そこな人形の涙を舐めただろう、どんな味がした」
「……」
「そんな涙を流すのは人間か、人間に近づきすぎた愚かな人形だけだ。そのような愚かな人形は神を愚弄する魔の産物。貴様もこの雨が下に生きているのであれば、無翼の天使という名くらいは耳にしたことがあるだろうな」
恐ろしくて声も出せなかった、虚ろなエメの緑色の瞳が、まだ涙に濡れている。
「この墓地が天使の縄張りということも聞いたことがあるだろう?まさか貴様、迷信、と一言で片付け我らの存在を知らなかったわけではなかろうな?でなければこんなところであのような大胆な手には出ぬか、我らにこの人形を壊せと無言で叫んでいるのかと思うたぞ」
震える手で、エメの頬に指先を触れると、まだやわらかい、なぜこのようなことになったのだ、なにがいけない、どこでしくじった……
無翼の天使は笑いながら続けた。
「あのように大胆に泣かれてはこちらとしても無視はできまい、貴様の依頼に応じて人形を破壊したというわけだ。……文句がありそうな顔だな?まあ怒るなよ、その首を持って花の国でも砂の国でも好きなところへ行けば良いではないか。愛した人形とふたりきりだぞ」
「言わせておけばッ!!!!」
振り返ってその顔を殴り飛ばそうと拳を繰り出すと、天使の眼前で身体がまったく動かなくなった、石にでもなったようだ。
「もう一つ愚かなる人間に忠告しておこう。ここは天使の縄張りだと先刻俺は言ったな。どういうことだかわかるか? お前に刃を向けているのは俺一人ではない。わかったら、その首を持って立ち去れ。首くらいは許してやろう。身体は神に見せて報告しなければならない。天使の慈悲は有難く受けよ」
それは聖典やステンドグラスに見るような天使がそのまま抜け出たような美しい顔をしていた。白い長衣をすらりと身に纏い、痛々しいほど神聖で、淡く発光してすらいた。なんの嫌味も含まない美しい笑顔を浮かべ、長衣の裾を翻して瞬時に消えてしまった。
残されたのは、エメの虚ろな首を抱いた、雨に打たれ、惨めに濡れそぼった、すべてを失った人形師。
目撃した者の話によれば、彼は四日五晩そこに立ち尽くし、そうしてどこかへいなくなってしまったという。
東の花の国では、"言葉を発する、美しい娘の首を抱いた男が、気味の悪いくらい無感情な笑みを浮かべて、彷徨い歩いては、また消えていく"と、時折商人の噂話に怪談のごとく上る程度で、それがレイニアの、貧民窟の生まれで、こつ然と消えてしまった人形化粧師だということは、誰も知らない。
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