レイニア人形夜話

長尾

聖女ヴェロニカの心中

 麦を刈り終えて畑を焼く匂い


 雨上がりの街の不思議な香り


 薔薇の花が咲いた朝の風


 石鹸の強く香るドアの向こう


 葬列のすすり泣き


 結婚式の教会の浮わついた雰囲気



 あなたは、なんでも知っていて、なにも知らなかった。


 古く煤けた木のドアと、鉄格子の窓のある白壁の中が、あなたの世界だった。




「おいで、ヴェロニカ」


 私と彼女は、白壁の部屋で朝の冷たい空気に巻かれ、向かい合って座っている。彼女の頬は涙に濡れ、冷えきっている。


「疲れたんだろう、少し眠りなさい」



 外の葬列のすすり泣きと冷たい雨音の向こうから、なにか違う声も聞こえてくるようだ。すべて終わりにして、二人だけの静かな世界にいきたい。わがままなのだろうか。


 彼女は私の肩に顎を預けるようにして抱きついて、私はそのまま背中に手をまわした。彼女が指を震わせて私に触れないようにしているのをみて、彼女の黒いベール越しにその細いうなじに触れた。


「私たちは、こんなこともままならなかったね。あなたの寂しさを埋められていた自信がないんだよ」


「……もう言わないでください。最後に、ひとつだけ。先生は、ヴェロニカに会えて、幸せでしたか……?」





 私は、天使と呼ばれる存在だった。


 美しい翼の、天翔る祝福の聖生物と呼ばれていた。



 あるとき私は誤って羽を落としてしまった。天使の羽は人間が拾うと天使の力に焼かれて呪いを受けるか、最悪の場合死んでしまう。落としてしまうことは暗黙の禁忌だった。


 急いで拾いに街へ降りたのだが、一瞬遅かった。名前すらもらっていないような、人間の小さな娘が拾い上げていたのだ。その幼い手のひらに羽は淡く溶け、娘は呪いを受けてしまった。手で触れたものを砂のように崩してしまう力だった。


 呪いを受けた人間は聖人として人々に崇められることになるが、ごく稀であり、だいたいが危険な力であることから、教会に幽閉され、大事に飼い殺される。彼女も例外ではない。私は怖くなって逃げるようにして飛び去った。



 禁忌を犯した天使は、翼を切り落とされ、祝福ではなく、罪人に罰と苦しみを与える『無翼の天使』になる。皮肉にも、天使特有の美しさと飛行能力はそのままで、背中に残る翼の名残を見るたびに発狂しそうだった。とはいえ、過失で聖女にされたあの娘の失ったものは、翼より大きいものに違いはない。


 それから毎日、彼女が幽閉されている部屋を見に行った。せめてそれが贖罪になるのならば、その一心だった。



 娘は、呪いを受けてすぐに母親に触れて殺してしまったようだ。名付けの前に聖女になってしまったので、名を与えられることはなく、教会の塔のカビ臭い白壁の部屋でひとりで過ごしていた。父親は神官で、聖女になった娘を大事に手錠につないで愛していた。彼にとって妻を亡くした不幸より、娘が聖女になったことが、一切を超越した喜びであったという、それだけの愛だったことは誰の目にも明らかだったが。


『天使が力を賜った、祝福された聖なる娘』と。


 娘は自らの手で母親を亡くしたことを物心ついた頃に悟った。いつでも黒いベールの下で泣いていた、死にたいと思っていた。



 私は彼女に見つからないようにして、窓から彼女を見ていたのだが、ある雨の日に7才になった彼女が、自分で手錠を壊して不穏な動きをしているのを目撃した。朝の身支度の際にシスターが落としたのだろう、青い紐が彼女の目の前にあった。日頃から死にたがっていた彼女には絶好の機会だったはずだ。震える指でつまみ上げたが、砂のように崩れ、つまんだだけの砂が膝に落ちた。声を圧し殺して泣きながら自らを崩してしまおうとして胸に手を押しあてるが、私は知っている。天使の力は自らには効かないのだ。少女は意思に反して拍動を繰り返す無情な生に半ば叫ぶようにして泣いていた。


「自分で死ねないような人間は、生きるより仕方ないのよ」


彼女の異変に気付いたシスターは、無感情な声でそう告げていた。


「だって、なにもかも崩れてしまうの。どうして殺してくれないの。そんなふうにしてドアの小窓から、ガラスの棒で食べ物を与えるくらいなら、どうして……」


教会に彼女を怖れていないシスターはいなかった。身支度はいちばん年長のシスターが、細心の注意を払いつつ、直接やってくれているようだったが、食事は実際酷かった。ドアにあいた小窓から、ガラスの棒に食べ物が刺さった状態で差し出される。スープなどはスポイトから与えられ、とても見ていられない。彼女はきまって涙を垂らしていた。



 その日は、午後から珍しく晴れた。私はいつものように窓の格子に掴まって、彼女を見ていた。成長するにつれて、美しい顔立ちになり、内包している影が目の下に見受けられるのが少しせつなかった。


 雨ばかりのこの国で、少し顔を出した太陽は、聖女の心をも癒したようだ。窓の方に顔を向けた彼女に、私は窓の上に移動した。窓枠に触れないように気を遣いながら、外を眺める。ところが、彼女の視界にはなにか不思議なものも映り込んでいた。私は不覚にも窓の格子に服の裾を引っかけていたようだ。どうにかしようと服の裾を引っ張っていたら、しっかりと彼女と目が合ってしまった。


「こんにちは……」


かなり動揺した私は、無意味に挨拶をしたが、同じくかなり動揺したらしい彼女は、窓枠に指を触れてしまった。その瞬間、触れた一部分から溶けるように崩れはじめ、鉄格子が外れ落ちた。


「おっと……?」


私は引っかけていた服の裾ごと引っ張られ、やっとの思いで地面すれすれで裾を外し、怪我は回避した。


 上を見上げると、彼女は身を乗り出してぼろぼろと泣いている。私は飛び上がってなんとも無いことを示すと、泣きながら安堵して、喋れなくなってしまった。その顔の愛らしさは筆舌に尽くしがたい。いままで彼女を見に来ていた理由ももはや贖罪だけでなくなっていたようだ。


「大丈夫だよ。私は天使なんだ。翼は失くしてしまったんだけれどね」


「ごめんなさい、私がなにも触らなければこんなこともなかったのに、ごめんなさい。ごめんなさい」



 彼女は何度も何度も謝った。また、殺してしまったと思ったのだと言う。母親の喪に服し、黒いベールをつけ続けてもう9年、ずっと罪を背負ったままでいるのだ。背中に残る醜い翼の名残を見せるなどして信じてもらって落ち着いた。


 私はこの一件で、なおのこと彼女から離れがたくなってしまった。そのベールの向こうで揺れる瞳がなんとも頼りなく、そんな目で見上げられるとき、なにかしら胸に迫るものがある。それに、彼女は知らないことが多すぎた。周りからすれば、彼女は聖女であればそれで充分だろうが、私の手違いで重い運命を負わせてしまったので、できるだけ白壁の外の美しく広い世界を私から教えてあげたかった。


 彼女は私を先生、私は彼女をヴェロニカと呼んで、彼女を絶望から解くため、私の贖罪を完遂させるため、二人だけの静かな時間が多くなっていた。




 「これはアジサイ、少し毒がある」


 「食べたら死ねるの?」


 「自分で食べられるのならね」




 しかし彼女は、自殺未遂を繰り返した。ナイフを砂のように崩しては泣き、毒をあおろうとしてはそれすらも砂にして、毎回、砂や指がむなしく胸を滑っていくだけだった。


 目撃する度に私の胸ははりさけそうだった。私の過失で永く悩ませるのだろうか、この苦しみの原因が私にあると知れば、彼女はなんと言うだろう。いっそのこと二人で死んでしまおうか……。バカのような考えが浮かんで消えなかった。



「ヴェロニカ、殺して欲しいって言ったら、理由を聞かないで殺してくれるかい」


「……先生が死ぬときは私も連れていってください。天使の接吻は、死を与えるということ、ですよね」


「………怖くはないんだね?」


「はい。だって、先生のこと、大好きなんです」



 頭の中に、最後に会った天使の声が響く。


『俺たちは、天使である限り口づけを交わせば相手を殺す。だから、そんな苦しい想いは捨てて、頼むから天使であり続けてくれないか』


すまないね。初めてヴェロニカと言葉を交わした日から、この想いは、翼より大きくて捨てがたかったんだよ。




「私は、あなたに会えて幸せだったよ。だけどね、苦しかった」


「先生、なぜ泣くの?」


お互いに寄りかかるようにして座っているので、いつもよりヴェロニカの声が小さくて近い。私はずっとこんなふうにして、彼女を抱きしめてあげたかった。触れたうなじや髪の毛の細さなど、彼女の全てがいとおしかった。人間のようには愛せなかったけれど、愛していたと思う。


「あなたをこんな目に遭わせていたのは、私だからだよ」


「知っていたよ、先生」


最期に笑顔を見られてよかった。だけどやっぱりヴェロニカは泣いていた。



 ヴェロニカに口づけを落としている間に、わたしも彼女によって崩れた。だけど胸まで崩れるには少しかかりそうだ。


 ヴェロニカ、もっと早くにこうしてあげたかったなあ、なんて……。





 聖女の安らかな死は、その日のニュースになった。砂に埋もれて、まるで眠るような表情は、墓石にも型どられ、いまも静かに教会の東の墓地に眠っているということだ。ふたりはたぶん、もう違うところで二人だけの生活をしているかもしれない。




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