第3話 獣人
ニーノとの楽しいランチを終えた私は、こっそりと城に戻っていた。
明日は生ハムとトマトのサンドイッチを作って持って行ってあげようと考えながら歩いていると、背後から怒気に塗れた若い男性の声が私を呼び止めた。
「ミア様! お待ちくださいませ!」
振り返るとそこには神官長レオが苛立ちを露わに鼻息を荒らげながら私を睨むように凝視している姿があった。端正な顔立ちは怒りに歪み、一瞬だけ肩までかかった金糸のように美しい髪が逆立っているような幻を見てしまった。その姿はまるで怒れる獅子のようである。
「神官長レオ様、御機嫌よう」
心とは真逆の感想を口にしながら私は彼に挨拶をする。
実を言うと、私は彼に対して好感は持っていない。聖女に対して異常な崇拝心を持つ神官長レオは、妄想に近い聖女像の理想をいつも私に強制していた。
あれもだめ、これもだめ。聖女様ならこうあるべきでああしなさい、こうしなさい等々。
私のことを想っての諫言であれば納得もいくが、彼が見ているのは私ではなく聖女の幻影だ。まさか髪型や長さまで指定して来た時は怒りよりも怖気を感じたものだ。聖女を語る際、いつも彼の瞳は虚ろで恍惚な色を浮き立たせていた。
今はただ普通に一人の女性として彼に対しては嫌悪感を覚えていた。
「今まで何処にいらっしゃったのですか⁉ 今日は隣国の大使との昼食会があると申し上げていたはずですよ⁉」
「具合が優れず今まで中庭で休んでおりました。その旨を侍女に伝えておいたはずですが、どうやら神官長様には伝わらなかったご様子。以後、このようなことが無いように気をつけますのでご容赦くださいませ。それでは私、急いでおりますのでこれにて失礼させていただきますね」
私はそう言って一方的に会話を打ち切った。ニーノとのひと時以上に大切なものは私には無いわ。それに必要とされているのは私ではなく聖女の肩書だけ。ならば誰かに銀髪のカツラを誰かに被せて座らせておけば十分のはず。そう、貴方の大好きな聖女のお人形さんでも代役にしておけばいいのよ。
「また魔女の所に行っていたのですか⁉」
神官長の怒声が私の後ろ首を掴んだ。
私は振り返り静かに神官長を睨みつけた。あまりの怒りに、何か口に出せばきっと彼を口汚く罵ってしまうと思い、激情をぐっと呑み込んだ。
「アレは呪われし者。この世で最も汚らわしい存在なのです! 国王陛下は見て見ぬふりをなさっておられますが本心ではあれとミア様がお会いになられることを快く思っていないはず。お約束してください。あれと、魔女にはもう会わぬと。でなければミア様の御身と魂が穢れてしまいますぞ⁉」
ぷちん。私の中で何かが切れる音がした。
ニーノを魔女と罵るのは一旦保留にしておきましょう。でも、最愛の妹をアレとか汚らわしいと侮辱するのだけは我慢ならなかった。
いえ、やっぱり訂正しておこう。彼が吐き出した全ての言動を私は許すことが出来ない。
私はありったけの激情を神官長にぶつけたい衝動に駆られた。しかし、後一歩のところで理性が私を引き止めた。
「ニーノは誰よりも優しい子よ! 二度と魔女なんて呼ばないで! もし次に私の前で同じことを言ったら絶対に許しませんから!」
私はそれだけを叫ぶと、その場から走り去った。
背後から私の名を呼ぶ神官長の声が聞こえて来たが、構わず中庭の方に向かった。部屋に戻れば神官長が追いかけてくるやもしれなかったからだ。しばらくは中庭に隠れて嵐が過ぎ去るのを待とうと思った。
中庭に到着すると、私は木陰で座り込み深く嘆息した。
やってしまった。でも、後悔はないわ。流石にニーノを面と向かって侮辱されては姉として黙っているわけにはいかない。
本当はもっと口汚く彼を罵ってやりたかった。でも、それをしてしまえばきっとニーノの立場を悪くさせてしまうだろう。
ミア様は魔女に汚染されてしまった、なんて噂が立ってしまうだろう。そうなればニーノは明日にでも聖女を穢した罪で処刑されてしまうかもしれないのだ。
何故、双子の妹として生まれただけで罪になるのか。そもそも根本から間違っている。狂っていると言っても過言ではないだろう。
〈絶対にこの悪しき風習は私の代で終わらせて見せる〉
その為にも一刻も早く一人前の聖女にならなくてはならない。
未だ私は聖女の力に覚醒してはいない。使用出来るのはその辺の見習い神官でも扱うことが出来る初歩中の初歩の神聖魔法の初級ヒールだ。かつてこの国を夜の国の魔王から救ったとされる
だからこそ聖女は崇拝され、その影響力は計り知れない。もしも私も聖女の力に目覚めることさえ出来れば、すぐにでもニーノを救ってやることが出来るだろう。
私は国家の平和と安寧、それに繁栄と引き換えにニーノの釈放を要求するつもりだ。
その時だった。近くから弱々しい子犬の鳴き声が聞こえて来た。
「そこに何かいるの?」
近くの草むらに小さな影がうずくまっているのが見えた。か細い鳴き声がまた聞こえた。
私は少し焦りながら草むらに近づくと、そこに瀕死状態の黒い子犬が横たわっているのを見つける。怪我はしていないようだったがかなりぐったりしていた。身体を覆う生命力のオーラが今にも消えかけているのが分かった。
「大変‼ この子、このままじゃ死んでしまうわ⁉」
私は慌てて子犬を抱きかかえた。思った通り瀕死の子犬は抵抗する様子も見せず私の腕に中でジッとしていた。既に逃げる力も無いくらい衰弱しているようだった。
「今、助けてあげるからね」
私は子犬を優しく抱きながら、全身に魔力を漲らせる。
「ヒール」
私がそう呟くと、眩い光が発せられるのと同時に暖かなオーラが黒い子犬を包み込む。
「もう大丈夫よ」
すると、私の腕の中で子犬が動くのが分かった。
黒い子犬は意識を取り戻すと、私を見上げながら「くーん」と甘えたような鳴き声をもらした。
その時である。突如として私は暗闇の世界に引きずり込まれた。
周囲の景色は闇と化し、周囲を見回しても空を見上げても闇一色で一筋の光すら見えなかった。
しかし、何故かパニックになることはなかった。むしろ心は落ち着いていた。この闇の世界を前にして私は懐かしみすら覚えていた。
「なんだか懐かしい匂いがする…ここはどこだろう?」
一瞬、闇夜の光景が頭の中でフラッシュバックする。そこは黒百合の花畑で目の前に見覚えのある男の子の姿が佇んでいた。でも、顔まではハッキリとは分からなかった。
「今の記憶はなに?」
突然、目の前に柑子色の光が現れた。
目の前に現れた柑子色の光はあっという間に青年の姿へと変わった。目鼻の整った野性的な美貌に隆々とした体躯。頭には立派な黒の獣耳を生やし、腰からは思わず抱きしめたくなるようなモフモフの黒尾が伸びている。
一目で彼が獣人であることが分かり、私は思わず目を見張った。
〈生まれて初めて見るけれども、獣人ってこんなにも美しい種族だったの?〉
一瞬、私は初めて出会う獣人に心を奪われた。
そして、無意識に私は彼に問いかけていた。
「貴方は誰?」
「オレの名はルークだ」
獣人の男性は優し気な微笑を口元に湛えながら呟いた。しかし、何故か彼の双眸には寂し気な色が映し出されていることに気付いた。
彼の寂し気な双眸の色に気付いた瞬間、何故か私は胸が締め付けられるような想いになるのだった。
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