第3話 逃亡

 激しい雨はようやく小降りになり、小屋の中の静寂が再び訪れた。壁には使い込まれた槍が立てかけられ、シロンは薪を集めた暖炉の前で乾いた布を膝に広げていた。


 デュフェルは窓から外をうかがい、息を殺して耳を澄ます。外はまだ薄暗く、樹々の向こうから鳥の鳴き声すら聞こえない。

 

「シロン、あなたの祖父はいいものを隠してくれていたな」


 デュフェルは手に握った狩り用の槍を見つめた。

 

 祖父の残した物資──保存食、毛布、そして小さな革袋に詰められた金貨が一時の救いになりそうだ。しかし、その静けさはすぐに破られることになった。


 シロンが口を開きかけたその時、外からかすかな馬蹄の音が聞こえた。デュフェルの顔が険しくなる。

 

「来たか……追手だ」

 

 小屋の窓から外を覗くと、山狩りの兵士と思しき二人の男が馬を降り、小屋に向かってくるのが見えた。革鎧を身につけ、片手には剣、もう一人は槍を持っている。

 

「すぐに隠れろ。俺がやる」

 

「でも……!」

 

「ここで捕まるわけにはいかん。奴らを始末する」

 

 デュフェルは低く言い、シロンに暖炉脇の隙間を指さした。彼女は躊躇いながらもうなずき、すばやく身を隠す。デュフェルは槍を手にして、湿った木製の扉に背をつけ構えた。


 扉が強く叩かれる。

 

「出てこい! ここに逃亡者がいるはずだ!」


 デュフェルは深く息を吸った。次の刹那、長槍を手にした彼は、開け放たれた扉の裏から飛び出すと、不意打ちで一番近くにいた一人目のみぞおちいしづきで殴りつけた。相手が声一つ上げずに崩れ落ちる。


「貴様……!」


 二人目の兵士が叫び、デュフェルに向かって剣を力任せに振り下ろす。デュフェルがそれを絶妙な角度をつけて穂先で受け流すと、二人目は大きく体勢を崩し、よろめいて前に倒れ込んだ。その隙にこめかみを殴打する。


 呼吸を整えるデュフェルの目の前には、倒れた二人の兵士と、彼らの乗ってきた馬がいた。

 

「無事ですか!」

 

 シロンが隠れ場所から飛び出してきた。その手には祖父の愛用していた弓が握られている。


「問題ない。奴らは気絶している。急ぐぞ、奴らが乗ってきた馬を使う」


 デュフェルは兵士たちから手際よく鞄や装備品を剥ぎ取る。羊皮紙の地図が入った革筒が見つかった。


「乗れるか?」

 

 デュフェルが手綱を手渡すと、シロンはすぐに馬の背に軽やかに飛び乗った。狩猟生活で鍛えた身体は見事に均衡を保つ。

 

「おかげで馬を確保できましたね」

 

 シロンが淡々と言う。

 

「余裕だな、あなたは……」


 デュフェルも馬に跨り、手綱を強く引いた。

 

「南だ。エルタール王国の城塞まで急ぐぞ。長居は無用だ」


 デュフェルの号令と共に、二頭の馬は雨上がりの湿った土を蹴り、山道を駆け出した。背後には小屋が静かに佇み、再び薄暗い森に飲まれていく。


 二人は馬を駆り、暗闇の中を山道から南へと下り始めた。月明かりのない夜だが、シロンは森の地形を熟知しており、道なき道を選んで進んでいく。


「これで国境を越えれば、追手もそう簡単には動けないはずだ」

 

 デュフェルが呟く。しかし、その予感は甘かった。背後から馬蹄の音が迫ってくる。

 

「まだ追ってくるのか……!」

 

「やはり兵士は山狩りの準備が早いですね」

 

 シロンが冷静に答える。

 

「ここから先は──私に任せてください」


 そう言うと、シロンは馬を一気に駆けさせ、追手を引き離すために急斜面へと向かった。


 デュフェルが驚いて叫んだ。

 

「待て、シロン! 何を──!」

 

 しかしシロンは振り返らない。祖父と共に駆け回ったこの森は、彼女にとって庭も同然だ。手綱を操る手は迷いなく、馬は急斜面を器用に駆け下りる。その先には、鬱蒼とした森を分け入る細道があった。

 

「ついて来てください!」

 

 デュフェルも仕方なく手綱を握り直し、シロンの後を追った。後方では追手の兵士たちが乱れながらも馬を駆け、こちらへ迫っている。しかし、地形を知らない彼らの動きには迷いがあった。

 

「この道は──」

 

「私が幼い頃に祖父と作った“逃げ道”です! この森を越えれば、彼らの馬は追って来られません!」


 シロンの声は確信に満ちていた。祖父がかつて猟の際に作った、険しい地形を利用した隠れ道。人馬の通行を拒むほど細く、樹木が入り組んだ道だ。シロンは迷うことなく馬を導き、木の根や枝を器用に避けて駆け抜ける。


 一方、追手の兵士たちは苦戦していた。

 

「道が狭すぎる! 木にぶつかるぞ!」

 

「くそっ、逃げられるな……!」

 

 デュフェルは後方を一瞥し、笑みを浮かべた。

 

「シロン、見事だ!」

 

「まだ油断は禁物です!」


 シロンの言う通りだった。追手の何人かは強引に森に突っ込み、距離を縮めてくる。シロンはとっさに弓を背中から引き抜き、馬上で矢をつがえた。狩りで培った技術が冴えわたり、的確に兵士の馬の前足を射抜く。


 馬が驚いて立ち止まり、乗っていた兵士が地面に投げ出された。

 

「やるじゃないか、王女殿!」


 デュフェルが半分呆れたように賞賛した。

 

「狩りと同じです! 相手の動きを止めればいいだけ!」


 シロンは次の矢を放ち、さらに一人の動きを止めてみせた。森の地形と彼女の狩猟技術が、完壁な防衛策となっている。


 やがて、森の出口が見えてきた。シロンが馬を止め、後ろを確認する。追手の姿はもう見えない。森が彼らの進撃を完全に阻んだのだ。

 

「これで……振り切れたか?」

 

「おそらく。しかし、彼らは諦めることはないでしょう。早くエルタール王国の城塞へ向かいましょう」


 デュフェルは深く息をつき、シロンを見た。馬上で矢を射る彼女の姿には、王女でありながら狩人として生きた者の逞しさがある。

 

「あなたは……本当にただの王女ではないな」

 

「私を育ててくれた祖父のおかげ。……さあ、行きましょう。まだ終わりではありません」

 

 二人は再び馬を駆り南へと向かう。城塞は、もうすぐだ。


 ◇


 人目を避けて、街道ではなく悪路を進んできた。小川を見つけたので馬を休ませている。


「うう、寒いですね」


 シロンは樫の大木の根元に座り込んで軽く身震いした。着ている粗末な服では隙間風が入ってきて、身体が冷えた。


「そういえば、まだ名乗っていなかった。……デュフェルだ。助けてくれたこと、感謝する」


 デュフェルが礼を述べると、シロンは微笑んだ。


「いえ、こちらも助かりました、デュフェルさん。……あの、隣に座ってください」


「なんだ?」


 デュフェルがシロンの言う通りに隣で腰を落とすと、彼女が身体に肩を寄せてきた。


「こうすれば……少しはあったかいでしょう?」


 そう言ったシロンは、うとうとし始め、やがて眠りに落ちてしまった。一昼夜通して馬を駆けさせたのだ。相当疲労したのだろう。


 夜の静けさの中、遠くに黒々と城塞の影が見え始めている。

 

「……着いたな」


 デュフェルはそう呟き、安堵のため息をついた。

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