第2話 狩り小屋

「ようやく外だ」


 すでに辺りが明るくなっている。山を少し降りたところには渓流があった。そこで水浴びをすることにした。不潔な状態で人里に行けば目立って地獄に逆戻りだからだ。娘も真似することにしたらしい。娘に背を向け、黙々と身体を清める。川の水は身を切るように冷たいが、全身の汚れを落とし、細身の短剣を顎に当てて、伸びっぱなしだった髭を剃ってしまうと、すっきりとした。清潔な着替えに袖を通せば、柔らかい布の感触が肌に心地いい。


 暁の空に遠くの山々の冠雪が菫色に染まっているいっぷくの絵のような光景。二度と見ることが叶わないと思っていた外の世界での夜明け。そこはかとない歓喜が胸を打つ。


「腹が、へった……」


 緊張が解けてくると、急に耐え難い空腹が襲ってきた。思い返せば、三ヶ月もまともに肉や魚を口にしていない。さっさとこの非人道的な国からずらかる。まずは逃げるか隠れるかしなければ。


「となると、隠れる……か」


 危険だが山を越えて祖国エルタールに辿り着くしか生き残るすべがない。山中をひたすら歩きつつ考える──安全な隠れ場所を。大勢の人間に山狩りをされたら、ひとたまりもなくお縄だ。しかし麓の人里に行っても余所者がいれば目立つ。手の甲にぽつりと水滴が当たる。雨が降り始めた。今の体力で雨に濡れたらもたない。だが、すぐさま土砂降りとなり、弱った身体を濡らして体温を奪っていく。


「あの……私、安全な隠れ場所を知っています」


 ずっと後ろをついてきていた娘がまたしても突然、口を開いた。


 ◇


 デュフェルと娘は、雨の中、足元を泥に取られながらも山道を進んだ。激しい土砂降りは二人の逃亡を阻むかのように降り注ぎ、疲弊した身体に容赦なく冷たさを染み込ませる。傾斜のきつい道を登るたびに息が乱れ、デュフェルは振り返って娘を見た。


「まだ先なのか?」

 

「……あと少しです。あの木の向こうです」


 娘は息を切らしながら答えた。目を凝らせば、鬱蒼とした木々の隙間から、崩れかけた屋根が覗いている。かつて人が住んでいたであろうその建物は、自然に飲み込まれかけていた。板張りの壁は苔と泥に汚れ、窓枠は風雨に晒されて歪んでいる。扉は片方の蝶番が壊れ、今にも外れそうに傾いていた。


「ここです……」

 

 娘が静かに呟く。声に疲労と、わずかな安堵が滲んでいた。


 デュフェルは半ば倒れ込むように小屋の扉を押し開けた。湿った木の匂いと、わずかに漂うカビの臭気が鼻を突く。床には湿気を含んだ埃が薄く積もり、壁際には蜘蛛の巣が張られている。窓の隙間から入り込んだ雨水が、床の一部を黒ずませていた。


 デュフェルは床に腰を下ろし、重い息を吐いた。娘も小さな身体を縮めるようにして部屋の隅に座る。雨音が木材を叩く音だけが、静かな空間に響く。


「……礼を言わねばな」


 デュフェルがぼんやりと呟く。

 

「いえ。少しの間、安全というだけですから」


 デュフェルは目を細めて彼女を見つめた。この娘は、ただの下女には見えなかった。その冷静さ、判断力、そして堂々とした物言い。


「あなたは、一体何者だ?」

 

 娘はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「私は……スナイデン王国の王女、シロンです。滅ぼされた王家の、唯一の生き残りです」


 デュフェルは思わず言葉を失った。シロン──その名は確かに耳にしたことがあった。リトゥイネ王国に滅ぼされたスナイデン王家最後の王女。その行方は誰も知らず、噂では処刑されたとも言われていた。


「王女、だと……?」


 シロンは淡々と続ける。

 

「一年半前まで、祖父とこの小屋で暮らしていました。祖父はただの狩人として、私を庶民の娘として育てました。でも……祖父が病で亡くなってしまい、スナイデン王家に引き取られました。その後は家族を殺され、リトゥイネに捕まって、囚人として働かされていたのです」


 彼女の声は冷静だったが、その言葉の奥には静かな怒りと悲しみが滲んでいた。滅ぼされた王国、家族の死、囚人としての過酷な日々……デュフェルには彼女の苦しみが手に取るように分かった。


「そうか……あなたも、生きるために戦っていたんだな」


 シロンはうなずき、小屋の中を見回すと、隅に積まれた古い木箱を引き寄せた。箱の中には干し肉、干しキノコなどの保存食や、古びた毛布が詰められている。

 

「祖父が用意してくれたものです。こういうときのために、と言っていました。少しですが、食べてください」


 デュフェルは躊躇ためらいながらも、差し出された干し肉を受け取った。口当たりは固いが旨味が広がり、空腹がわずかに和らぐ。


「助かった。……あなたの祖父に感謝だな」


 シロンは小さく微笑んだが、その目は遠く過去を見つめているようだった。


「この場所は、私の記憶の中にある唯一の『家』です。でも、ここに長くは留まれません」


 シロンの言葉には、かつて王女であった者の気高さと、庶民として生き抜いた者の強さが宿っていた。デュフェルは静かにうなずき、短剣を握りしめる。


「生き延びるぞ、王女シロン。必ずな」


 こうして二人は、再び動き出すための力を、小さな山小屋で束の間だけ取り戻した。

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