第1話 死刑囚王女

 シロンが物心ついたときには、すでに森の中を駆けずり回って弓を握っていた。狩人である母方の祖父の教えだ。鴨や兎、狐や鹿。なるべく苦しめず、毛皮や肉を傷めないために急所を一撃で射抜く。


 王女であるはずなのに庶民の狩人として生計を立てていたのは、きちんと理由がある。


 スナイデン王城で働いていたメイド、それがシロンの母だ。国王陛下との間にシロンを身籠ってしまい、メイドを辞めて実家に戻りシロンを産んだ。その母も乳離れした頃に流行り病に罹ってあっけなく亡くなってしまう。そんなシロンを育ててくれたのが祖父だ。


 狩人の祖父はシロンが一生を庶民として生きていけるように、一人で生計を立てるすべを教えてくれた。孫としても相当に可愛がってくれて、持っている技術の全てを授けてくれた。森の歩き方、罠の張り方、獣の捌き方……。


 母を失い、国王の父にも会えないシロンにとっては、祖父だけが唯一の家族だった。両親のいない寂しさは森での生活が埋め尽くしてくれた。その頃は、このまま狩人として生きて、たまに近所の友達と遊んで、そうやって平凡な人生を送るのだろうと漠然と思っていた。


 転機は、十九歳のとき。大切な祖父の死だった。大病を患うこともなく、穏やかな老衰だった。


 祖父のささやかな葬儀を終えた後、途方に暮れていたところを国王の父からの使者だと名乗る侍従長が訪ねてきた日のことは、よく覚えている。


 会ったこともない父。メイドだった母に手を出したことに、どうやら正室は怒りを覚えていたそうだ。それも、メイドの母に対してではなく、無責任な父に対して。正室の好意でシロンはスナイデン王家に暖かく迎え入れられたのだった。


 祖父から受け継いだ宝物の狩猟道具だけを持って王城を訪れたシロンに初対面の父王が最初に行ったのは謝罪だった。相当、正室に絞られたのだろう。「ここに来る道中で狩ってきた鴨です。血抜きもしてあります」と言って父に渡すと、苦笑しながら受け取っていた。


 こうして始まったのは王女としての正式な教育だった。


 二十歳の成人になった王族は、成人の儀として国民の前で挨拶しなければならないのだ。とはいえ、王城のバルコニーから遠くの民衆へ顔を出すだけだから、微小な点の群れに向かって挨拶するようなものだが。


 一年しか期間がない中で慌ただしく、挨拶の作法、食事の作法、教養や言葉遣い、表情から笑い方に至るまで事細かく叩き込まれた。得意だったのはダンスの授業だった。元より運動神経がよかったので、すぐにコツを掴むことができた。初めて裾の長いドレスを着たにもかかわらず、裾を踏まずにスタスタとステップを踏むことができる敏捷さを侍従長に褒められた。侍従長はメイドだったシロンの母のことを知っており、シロンが庶民出身だからと蔑むのではなく、公明正大な人物なのも助かった。


 逆に苦労したのは、礼儀作法だった。教育担当の侍従長からはたくさんお小言を言われた。だけれども、国民の前に出しても恥ずかしくない王女になれるようにとシロンのことを気遣っての熱血指導だったので、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


 そんな中で、癒しになっていたのは読書だった。王家の図書室には様々な書物が収蔵されていた。戦術書、剣の指南書、戦史書……淑女教育の合間に、暇さえあればそういった書物を読み漁るようになっていた。


 侍従長は昔、相当な剣の遣い手だったそうで、剣の稽古をつけて欲しいとシロンから頭を下げた。狩人として森を駆けずり回っていたからか、ダンスの練習の成果だったのか、体幹が鍛えられていたので剣を持ってもそこまで苦労することはなかった。


 あっという間に一年が過ぎて、迎えた成人の儀は、侍従長の丹念な指導のおかげでつつがなく終えることができた。


「スナイデン王国と国王陛下に恩寵がございますことを、このシロン・スナイデンが祈ります」


 という、決められた挨拶を噛まずにすらすらと言えたときは心の中で歓喜の雄叫びを上げていた。もちろん、そんなことは欠片も表情に出してはいけない。初めて立派なドレスを着て、気分はお姫様のようだった。お姫様であることには間違いないが。そんな日に、王都で弓術大会が開催されていたのだから、それは開催する方が悪い。愛弓を引っ張り出し、侍女の助けも得て王城を抜け出し、早速会場に向かった。


 服装は豪奢な正装のドレスのままだ。飛び入り参加の王女に周りがざわつく中で、見事、的の中心に命中させる。獣は動くが、的は動かない。至極簡単な話だ。


 だがしかし、これが予想外。父王に優勝の報が届いてしまったのである。当然こっぴどく叱られた。


 でも、今はもう、そんな愛すべき家族は誰一人としていない。


「ほんと、酷い人生だわ」


 凍てつく風が吹き付ける寂しい場所。このリトゥイネ王国、元スナイデン領の、隣国エルタールとの国境にほど近い北東部の死刑囚鉱山に送り込まれてから半年だった。「リトゥイネにとっての凶悪犯」を収容して、文字通り死ぬまで酷使する場所。そんな淡々とした場所だった。


 一生、シロンは忘れられた存在として、調理小屋で死刑囚のための食事を作り続ける下女として働き続けなければならないのか。


 朝と夕方の二回、具の少ないスープと、ほぼ粉を水で練っただけの硬いパンを焼いて配給するだけの仕事。下女であろうと出される食事の量が少なく、お腹が空いて、配給するスープの味見ばかりしていたのは内緒だ。


 ところで、とある死刑囚が鉱山に送られてきた。彼の身体には血の滲んだ包帯が巻かれていた。明らかに身体を庇うような所作。三ヶ月もいれば衰弱死して死体を打ち棄てられるこの地獄で、怪我をしたまま酷使するとは、なんとむごい。


 シロンは食事の配給のとき、彼のスープの具をこっそり多めによそっていた。それがむしろ、残酷なことかもしれないと知りながらも。

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