酔いのはかりごと〜死刑囚王女の軍師録〜

鋸鎚のこ

プロローグ

 山の空気は冷たく、息を吐けば白く曇った。この地獄に送られてから三ヶ月。デュフェルは生への執着をとっくに諦めていたはずだった。


 切れを着せられ、油灯だけが頼りなく照らす薄闇の中でツルハシを振るい続ける。傷を負った肩に食い込む鉄鉱石の籠を背負い、地底と地上を繋ぐ坑道をひたすら往復する。自分は人間ではなく蟻だったのかもしれない。そうして昼も夜も働かされ、一日の苦役が終われば地下に掘られた囚人部屋に押し込まれ、疲れ果てた身体を鎖に繋がれる。眠るのはわずかな時間──それを繰り返す日々に脳が麻痺していた。


 最初こそ脱走を試みたが、監視の目は厳しい。夜は硬い岩盤に深々と打ち込まれた鉄杭から伸びる鎖に足枷を繋いで拘束される。脱走を企てたことが明らかになれば確実に他の囚人への見せしめとして殺されよう。どうやらこの地獄で生涯を終えるらしい。死ねるなら、故郷で──エルタールの地で──死にたかった。もはやそれは叶うまい。


 デュフェルはエルタール王国騎士として、長年敵対関係にあったリトゥイネ王国との戦争に出征した。そして三ヶ月前の戦いでリトゥイネ王弟を討ち取った。デュフェルはこれでも国王の従弟である大公だ。向こうはこちらを手ごろな首級かなぶりものかに思えたのだろう。


 全くもって、それはデュフェルの意思ではなかったのだ。ただ一騎討ちを挑まれたから返り討ちにしたまで。攻撃されるから反撃する。それだけのことのはずだった。だが、正々堂々の一騎討ち、こちらにそしられる筋合いはないというのに、卑怯にも王弟の部下に取り囲まれて傷を負わされ、捕虜にされた。その場で尊厳ある討死も、処刑すらされるでもなく、この地獄で生きながらにして絶望を味わわされていたのだ。


 地獄では食事だけが唯一の楽しみになるかと思いきや、それも叶わない。具の少ないスープと粗末な硬いパン。傷の治療さえろくに受けられずに酷使され続け、とっくに肉体も精神も擦り切れているはずなのだが、それでも三ヶ月生きながらえている。いつまで命の灯火が消えずに続くことやら。


 こうやって思案していると、己がこの世に何一つとして残せていない不甲斐なさに気がついてしまう。いや、本当のところは人間誰しもこの世に残すものなど、ないのかもしれない。よわい二十三。まだ全てを諦めていい歳でもないはずだった。


 だが、ある夜、「パキン」という金属音が耳に届いて目を見開いた。あっけないほどの軽い音。脱走を図るために、こっそりと鉄製の鎖に塩味のスープをかけて弱らせ、鉱石の欠片で地道に削っていたのが報われた瞬間だったのである。


 心臓がどくんと激しく跳ね上がる。鎖が切れた。逃げ出せる。一つ、長く息を吸ってから吐き出し、周りの囚人たちを起こさぬように立ち上がった。


 そうこうしていれば真夜中。今宵は新月。本当に幸いなことに、誰にも見つからず行動ができた。監視小屋が無人であるのをいいことに忍び込む。今までずっと行動を阻害し続けていた不愉快極まる足枷の鍵を見つけ、完全に鎖を外すことができてしまった。


 小振りの短剣と、清潔な着替え、銀貨の詰まった袋も拝借する。盗みなど騎士の道には外れる行いだが、今は生きるため仕方がなかった。


 だが、監視小屋から出たときのことだった。囚人のために食事を作る調理小屋で働かされている下女らしき娘とばったり出くわしてしまったのだ。


「叫んだら、殺す」


 低声で囁くように娘を脅す。


「……さい」


 ぼそりと娘が呟く。


「……なに?」


「私も、連れて行ってください」


 微風に乗って耳に届いた娘の声は弱々しかった。デュフェルが無言で鍵を手渡すと、娘はたどたどしい手つきで足枷を外した。


「鍵を囚人部屋に放っておいた方が、よろしいでしょう」


 娘がぼそりと口を開いた。


「……どういうことだ?」


 突然のことに訊き返す。


「あくまで善意ではなく捜査の撹乱のためです。あなたと私だけで逃亡するより、生存率が格段に上がります」


「どいつもこいつも、強盗殺人だの、婦女暴行だの、二度と世の中に出てきてはいけない人間だろう」


「リトゥイネにとって都合の悪い人もいるはずです。……私のように。政治犯や学者などもいるでしょう。彼らには悪いかもしれませんが、生き残るための最初で最後の好機なのです。生存に利用できるものは利用しましょう」


「あなたも随分と“善人”だな」


「生きるためですから」


 デュフェルも人殺しなのは確かではあったが。娘の言うことには一理あった。その通りに鍵を投げておけば、目を覚ましたらしい囚人の一人が小さな歓声を上げている。こうして、死刑囚鉱山に別れを告げた。

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