第5話 俺の黒歴史ノート、異世界で伝説の魔導書扱いされてる。

「うぐうっ!」


 衝撃と圧迫感に思考が途絶する。男の太い腕が俺の首を鷲掴みにし、体ごと乱暴に地面に叩きつけられたのだ。

 後頭部の痛みを堪えつつ、男の腕を両手で掴んでじたばたともがく。けれど相手の膂力は相当なもので、ひ弱な男子高校生にはとても振り解けない。


 無様にあがく俺を見下ろす男の顔が邪悪をかたどった。


「残念だったなあ、あんちゃん。俺らに目をつけられたのが運の尽きってやつだ。今度生まれてきたときはひとりで森の中に入ったりしねえこった」


 ぎりぎりと首が絞まっていく。窒息するよりも先に骨が折れてしまいそうだ。

 混濁し始めた意識のなか、自身の命の灯火が小さくなっていく感覚がする。


 ああ、俺は死んでしまうらしい。


 平凡な日常から一転、魔法が存在する世界に飛ばされたと思ったら、その全貌を知る間もなく盗賊に捕まってあっけなく殺されて終わる。


 始まることすらない物語。俺には主人公どころか村人Aのような端役すらも与えられなかったようだ。


 死への恐怖に混じって、にわかに悔しさが込み上げる。


 もし自分にも魔法が使えたら、殺されずに済んだかもしれないのに。自分を見下ろすこの浅ましい嗤笑を消し飛ばしてやれるくらいに強力な魔法が……。


 走馬灯のように記憶が駆け巡る。やがてたどり着いたのは、引き出しの最奥に封じ込めた羞恥の過去。そのなかの一冊が、見えない手に捲られたようにページを開く。


 気がつけば俺は、声にならない掠れた声で無意識のうちに言葉を紡いでいた。


「我が……怒りは、猛々しく、絶える、を、知らず……紅き焔をも……悉く塗り潰す……」


「んあ? なに言ってんだあんちゃん、ひょっとして命乞いかあ?」


 愉快げに哄笑する男。それでも俺はわずかな気道を通して声を吐き続ける。


「闇よりも、深く、染まりし……漆黒の激情よ、天へと、至り、貫き、万界を……灼き払え……」


 視界を塞ぐ男の嘲笑に向かって、その先にある蒼天に向かって、手を伸ばしながら。


 それは期待にも満たない、願いにすら届かない、祈りにも及ばない抵抗だった。


 ただ、そんな命尽きる間際の些細な戯れ言だったのだ。


「……焔激の、魔導、第二章、第十三節、……――《我が黒焔、天をも焦がすバベルフレイム》」


 瞬間。未知の力が怒濤のように体内に流入する感覚があった。

 そこはかとなく神秘原始的な不可視の要素がたちまち体の内側を満たし、凝縮、精錬されていく。渦を巻きながら極限まで密度を上げたそれは血流に乗って掌中へと集約し、ついに可視的現象へと転じて体外に放出された。


 ――はたして、放たれたのは蒼穹を穿つ黒焔の塔。


 あまねく有を漆黒へと塗り潰す極大の劫火が、刹那すら待たず男の存在を無へと焼却しては遙か天まで伸びたのである。


 やがて終息する黒焔の放出。上体を起こして周囲を見回すと、円形に焼け焦げた痕跡の中心に自分があった。


 茫然としつつ、俺は自らの右手を見つめた。


「もしかして、今のは俺がやったのか……?」


 信じられなかった。

 まさか自分に魔法が――否、かつて創作した自作の魔導が行使できたなんて。


 そしてそんな俺をさらに驚愕の表情で凝視するのは、いまや細胞一片残さず焼失した男の凶行を享楽的に鑑賞していた四人の盗賊たちだった。


「なんだいまの魔法は……! あんなやべえ魔法、見たことがねえぞ……!」


「ていうかいまの炎魔法、真っ黒の炎だったよな……? それにあのガキの詠唱……!」


「ああ間違いねえ、あの野郎、焔激の魔導って言いやがった……ッ‼」


 いままでの余裕と嗜虐心に満ちた表情とは打って変わって恐怖に怯える盗賊たちの眼差し。

 なんだなんだ、一体なんだというのだ。というかその反応。


「え、焔激の魔導を知ってる……?」


 さも聞き覚えがあるとでも言わんばかりじゃないか。

 でもそんなことあるわけがない。だってそれは俺の妄想だ。大学ノートに書き殴った羞恥の空想だ。引き出しの奥に葬り去った秘匿の過去だ。一介の男子高校生が生み出した黒歴史を、異なる世界の人間が知っているなんてそんなことが――。


「知らねえわけがねえだろう!」


 しかし盗賊のひとりは荒々しく叫んだ。


「七魔導……! それは伝説の魔導書魔導七典がこの世界にもたらした、あらゆる魔法を超越したとんでもねえ七系統の魔導だ!」


 え、魔導七典……? いま魔導七典って言った……?


「焔激の魔導をはじめとする七魔導はその理論体系があまりに高度すぎて、普通の魔法とは違って原典を所有してねえと行使できねえはずだ……! つまりお前は《焔激の魔導書》を持っているということ……。伝説の魔導七典を持ってる奴が只者なわけがねえ! ちくしょう! 俺たちを騙しやがって! てめえ一体何者だあ!」


 矢継ぎ早に責め立ててくる盗賊の男。

 とんでもない事実が男の口から飛び出したことに動揺を隠せない俺だったが、その驚嘆を咀嚼して呑み込むよりも前に、今の自分にとってはなによりも生存を掴み取ることが先決だった。


 とにかく目の前の盗賊たちは怯えている。

 だったらその恐怖を利用して生き延びなくてはならない。


 だから俺は演じることにした。彼らが抱く畏怖に相応しい存在を。


「くくく……」


 悠然とした動作で、綽々とした態度で、俺は不敵に口端を吊り上げつつ立ち上がる。

 羞恥を捨てろ。黒歴史を体現しろ。あの日忘却した厨二病を解放して、なりきれ強者に。いつか夢想した最強の存在に。

 ――黒歴史の魔導師に。


「無様だな愚かなる無知共よ。しかし愉快な余興だった。今の一撃はその褒美といったところだ。感謝するがいい無知ども。貴様らでは一生かかっても到達できぬ奇蹟の極致――理外の理というものを、その駄眼に焼きつけることができたのだからな。ついでに貴様ら無知どもに教えてやろう。我が名は《黒歴史の魔導師ブラック・ペイジ》。原初にして至高たる最強の魔導師。さあどうする無知ども、もしまだ満足できぬと言うのなら――次は己が命に我が魔導を焼きつけるか?」


 いつか本で読んだ最強の主人公らしく、傲岸不遜に盗賊たちを射竦める。

 するとついに盗賊たちの恐怖心が決壊した。


「う、うわああああああ助けてくれええええええええええええええっ‼」


 蜘蛛の子を散らすように逃げていく男たち。哀れなほどの醜態を晒しながら森の中に消えていく背中を俺は無言で見送る。

 やがて泣き叫ぶ声すらも彼方の空気に溶けた後、ようやく俺は脱力してちいさく息をついた。


「……やった、生き延びた」


 一時はほとんど諦めかけた命がいまなお続いていることに安堵し、歓喜の感情が込み上げて青々とした空を見上げる。

 しかしそれもほんの束の間、続けざまに湧き上がるのは驚きと困惑だった。


「まさか自分にも魔法が……いや、あのノートに書き殴った自作の魔導が使えるなんて……!」


 そして思い出す、盗賊の言葉。


「それに、この世界に魔導七典が存在しているのか……?」


 中学時代に書き記した妄想の顕現物。《焔激の魔導書》、《氷嘲の魔導書》、《雷遊の魔導書》、《喰餓の魔導書》、《死退の魔導書》、《癒悦の魔導書》、《暴牢の魔導書》。


 机の引き出しの最奥に隠されていた七冊の過ち。現実世界ですらいまや誰も覚えていないであろう羞恥の代名詞を、しかし異世界の住人である盗賊の男は確かに口にした。


 思考を巡らせ、俺の推測はとある仮説に帰着する。

 この世界へ飛ばされる要因となった巨大地震と地割れ。自分があれに呑み込まれたのは自宅を出て間もないときだった。

 ……もし、あの地割れが付近一帯に発生したのだとしたら。そうして自分の家すらもその崩壊に呑み込まれたのだとしたら。


「あの七冊がこの世界に飛ばされている……? そんでもって俺の黒歴史ノートが、まさか異世界で伝説の魔導書扱いされてる……⁉」


 やにわに血の気が引いていく。

 ならず者の盗賊にすら認知されているということは、それに伝説とまで言われているということは、おそらく少なくない数の人々に魔導七典の存在が知られているに違いない。

 それにもし、どこの誰とも知れない人間が魔導七典を所有しているのだとしたら。


 見知らぬ人物が古びた大学ノートのページを捲る姿が想起されて、俺は戦慄した。

 だってそんなの。


「そんなの恥ずかしすぎるだろ……‼」


 痛々しい妄想の羅列を顔も名前もわからない他人に読まれるなんて、どんな羞恥プレイだというのだ。おまけに伝説の魔導書だとか言われて大勢の人々の前で掲げられたりした日には……想像するだけで悶え死にしそうになる。う、吐きそ。


 ようやく俺は悟った。このままでは一生我が心に平穏は訪れそうもない。

 ……だったら俺がやるべきことはただひとつ。


「やるしかない。なんとしても七冊全部取り戻さないと――!」


 たったひとりで異世界に転移してしまった不安も、恐怖も、孤独さえも、いつの間にか焦燥じみた決意と熱意にあてられて溶融し、気化してしまっていた。

 未知の大地を力強く踏みしめ、俺は一歩を踏み出す。


 ――すべては己の黒歴史を回収するために。

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