第4話 奈落の底へと落ちたその先は

――久しく見ることのなかった悪夢を経て、俺は意識を取り戻した。


 どうしていまさらあんな夢を見たのだろう。きっとゴツゴツして寝心地の悪い場所で眠っていたからに違いない。

 そんなことを思いながら、俺は眉間にしわを寄せながらゆっくりと瞼を開けていく。

 やけに強い日差しが視界に飛び込み、思わずまた目を閉じる。

 それから改めておそるおそる目を開けていくと――視界が青と緑に満たされた。

 何故か俺は見知らぬ森の中、ぽっかりと開けた場所に横たわっていたのである。


「ここはどこだ……?」


 混乱する頭の中を慎重に整理していく。


 確か今は平日の朝で、俺は妹の愛依寿といつものようにわちゃわちゃとしたたわいもないやり取りを交わしながらそれぞれの学校に向かっていたはずだ。

 それで……そうだ。その途中でいきなりとんでもない地震に襲われて、それで地面がみるみる割れて……、俺は、俺と愛依寿は地割れによって生じた大きな亀裂に呑まれて落ちていった――。


 しかしそこまで思い出して俺は違和感に囚われる。


 俺は地面にできた大穴に落ちたのだ。それこそ肉体からあらゆる感覚が消失していくようだった。まるで奈落か地獄へと落ちていく恐怖。なのにそれすらも有耶無耶になっていく喪失感。あれは確かに現実に起きたことだった。

 だというのに、闇の底に沈んだはずの俺はいまこのときも広大な青空の下で光と緑に囲まれている。

 ……理解ができない。


 ここは一体どこだ?


 困惑の隙間を縫って思考を巡らせるうち、やがて俺は仮説にたどり着いた。

 そうか、ここは天国だ。

 俺は地震によって発生した地割れに呑まれ、遙か地の底へと墜落した。

 落下の途中で失神した俺の肉体は最終的に地面に衝突し、当然のごとく死を迎えたことだろう。

 俺は死んだのだ。そして肉体から解き放たれた精神、いわゆる魂というやつが天に昇っていったのである。

 だからここはあの世、天国で間違いない。そう思えば、そよそよと微風に吹かれて穏やかに揺れる木々たちもどことなく神秘的な雰囲気を漂わせているような気がしてくるというものだ。


 あーなるほどね。これで合点がいった。うん、これが真実に間違いない。俺という奴は実に名探偵だ。きっとこの推理を裏付けるように、いまにも可憐な天使のひとりやふたり目の前に現れるはずだ――。


「おいあんちゃん、てめえそんなとこに寝そべってなにしてんだあ」


 しかし俺の名推理とは裏腹に、俺の鼓膜を揺らしたのは下卑た感じのするしわがれ声と複数の足音だった。


 声のした方に顔を向ける。

 森の中から姿を現わしたのは、やはり可憐な天使などではなく、襤褸のように汚らしい衣服に身を包んだ五人の男たちだった。

 皆が皆、垢まみれの顔に無精髭を生やし、たちの悪い目つきに倫理観の欠けた意思を宿している。そして顔立ちが明らかに日本人ではなかった。


「よく見りゃあんちゃん、珍しい服着てんなあ。よその国から来た旅人かあ?」


「よその国……? ここは一体どこ、ですか……?」


 するとしわがれ声の主――どうやら集団のリーダーらしい一際ガタイのいい男は怪訝な顔をしてみせる。


「なんだあ? お前自分がどこを目指してんのかもわからず旅してんのかあ? てっきりデンバルを目指してんのかと思ったがよお」


 デンバル……? やっぱりここは日本じゃないのか。一体どういう状況だ。


「ここは大陸最大の領土を持つ大国ヴァルプールだぜ。そんでこの森を抜けた先にはその中心都市たる王都デンバルがあるのさあ」


 大陸最大の国家ヴァルプール……? 王都デンバル……? 聞いたこともないし、そもそもそんな国、世界地図のどこにも見たことなんかないぞ……。


 次第にぼんやりと仮説か浮かんでくる。

 地面の裂け目に落ちたのに森の中に倒れていたという不可解な状況。

 目の前に現れた日本人らしからぬ風貌の集団。

 そしてヴァルプールなる聞き覚えのない国家、王都デンバルという都市名。


 これはもしや……。


「ひょっとして、ここは異世界ってやつか……⁉」


 異世界転移。漫画やライトノベルなんかでよく聞くあの異世界転移。

 フィクションじみた非現実的な現象が、現実の自分に起こってしまったのではないか。

 ここが死後の世界ではないとするのなら、もはや俺にはそうとしか思えなかった。


「マジかよ……本当にそんなことが起こりえるっていうのか……!」


 仮説は既に必要十分以上の納得感をもって脳味噌のなかに浸透しつつある。しかし、目眩にも似た混乱は収まるどころか一層ぐるぐると俺の頭を掻き回した。


 脳内整理に手間取る俺を退屈げに眺めていた男たちだったが、やがてリーダーの男が痺れを切らしたように醜悪な笑みを浮かべた。


「なあにひとりでぶつぶつ言ってんだあんちゃんよお。俺たちゃあもう待ちきれねえぜ」


 待ちきれない? なにが待ちきれないというのか。

 すると俺の思考を表情から読み取ったらしく、より厭らしく歪んだ男の唇を蛇のような舌が舐めずった。


「仕事させてくれって言ってんのさあ。俺たちゃあ金を稼がなきゃなんねえ。まずはあんちゃんの持ってる金だろ? それからそのヘンテコな服も剥ぎ取って売りゃあいくらかの金になるかもなあ。あとはあんちゃん自身だが、女じゃねえのが残念だけどよ、まあバラバラにして持って行くとこに持って行きゃあそれはそれで金になってくれるはずだぜえ」


 一瞬にして全身を恐怖が駆け巡り、戦慄した。

 目の前の男たちは盗賊だ。それも人を殺すことを厭わないタイプの最低最悪な。

 明確な命の危機。


 このままじゃ殺される。逃げないと!


 ぶるぶると震える体にどうにか力をこめて、俺は一目散に逃げだした。

 盗賊たちに背中を向けて、俺は死に物狂いで足を動かす。

 とりあえず森の中に飛び込もう。密集する木々が上手いこと奴らの追跡を妨害してくれて逃げ切れるかもしれない――。


「どこに逃げようってんだあんちゃん」


 背中越しに余裕と嗜虐心に満ちたしわがれ声が届いた。


「紅々たる煌々よ、穿ち爆ぜろ――『烈火弾ファイラオウル』」

 続けて呪文のような言葉が唱えられた気配を感じた瞬間、超高速のなにかが迫る。俺の肩を掠めつつ飛んでいったそれは、太々とした樹木に衝突したかと思うと激しい紅を伴って破裂した。


「うぐわあああああっ!」


 肌を焼くような爆風に吹き飛ばされて地面に転がる。

 土埃にまみれ、痛みを堪えながらも目線を上げると、眼前の巨木は根元から折れて倒木と化していた。折れ口をめらめらと炎に侵食されながら。


 驚愕と困惑が思考を占領した。

 いまのは間違いなく、真っ赤な火の球だった。バレーボール大の小さな太陽が唐突に現れて目の前の大木を爆破したのだ。


 でも、そんなものがどうやって発生したというのだ。

 いやまさか。


「なあに驚いた顔してんだよあんちゃんよお、ひょっとして見るのは初めてかあ?」


 気づくと男の嘲笑が俺を見下ろしていた。


「いまのはただの『烈火弾』。並の才能がありゃあ、ちょっと練習するだけで誰でも使える初級魔法だぜえ?」


「ま、魔法……!」


 いよいよ俺は確信した。

 やはりここは異世界だ。


 そしてさらに――この世界にはというものが存在するのだ。

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